第106話『平和の崩落』
「ふぅ……ふぅ……」
掛かりつけの産婦人科の陣痛室で、美子は眉間に汗をにじませながら陣痛に耐えていた。
付き添うことしか出来ない羽熊は、せめて痛みを和らげられないか汗を拭いたり腰を摩ったりする。
陣痛には波があり、間隔が短くなればいよいよ出産となる。
それまではただただ待つしかない。
美子は予てから自然分娩がいいと言っていたので、羽熊に出来ることは寄り添ってあげることだけだ。
時計を見るとそろそろ式典が始まる時間になっていた。
JHKで生中継していたから見ることは出来るが、陣痛で苦しんでいる中で政治のテレビを見るのは気が引けた。
今は仕事のことは全て忘れて愛する妻と子供だけに意識を向けることにする。
羽熊と美子それぞれの両親には病院に浮かう中で連絡していて、それぞれ一時間から二時間で来る予定だ。
互いの両親それぞれで初孫なのだから産まれる日に会いたいのだろう。二つ返事ですぐに行くと返って来た。
「ふぅ……ふぅ……」
眉間にしわを寄せて目を瞑り、苦悶の表情を見せる美子を見ると羽熊はやるせない気持ちになる。
少しでもその痛みを貰って和らげることが出来ればと思うのに、男の羽熊はただただ側にいる事しか出来ない。
「美子……」
「やっぱり、大変だね。赤ちゃん産むの……お母さんも、私を産むの大変だったんだね」
世の中のお母さんが皆体験することを、いま美子も体験している。
こういう時、男は無力だ。その無能さに歯を噛みしめる。
「そんな顔しないで。痛みはあっても辛くはないから」
痛みの波が引いたのだろうか、美子は微笑んで羽熊を見ながら呟く。
「この痛みは産まれたい、私達に会いたいって赤ちゃんの声だから辛くないの」
「その痛みを貰いたいよ。俺もその声を聞きたいな」
「ありがとう。ね、お父さんもお母さんも早く会いたいから出てきて。亜季」
美子のお腹の中から外に出ようと頑張っているのは、羽熊洋一と美子の娘の亜季。
地球から異地に転移した日本の次世代を担ってほしいと願って付けた名前だ。
「亜季、お母さんもお父さんも待ってるからね」
こうした出産シーンで声をかける場面は見たことあるが、そんなセリフいうわけないだろうと以前の羽熊は考えていた。しかしいざ当事者になると自然と言葉が出て、恥じらい等は微塵も覚えなかった。
妊娠が分かってから今日まで、自分なりに調べたり産婦人科の講習会に参加したりした。さらに少しずつ大きくなるお腹を見て、無意識にに父親としての自覚や心構えをしてきたのだろう。
こういう時に限って時間の流れと言うのは非常に遅くなる。体感では二十分と経ったと思っても見てみると五分と経っていなかった。
平均とはいえ十四時間前後掛かると考えると非常にもどかしい。
それでも美子も亜季も頑張っているのだ。愚痴の一つも零してはいけない。
「なにか飲み物持ってこようか?」
「まだ、大丈夫」
羽熊の手を握る手を美子は緩めない。少しでも離れてほしくない訴えだ。
「……側にいるよ」
美子の手を包み込むように握り、片時も離れずそばに居続けた。
羽熊と美子の両親が駆けつけてきたのは二時間後であった。
まだ陣痛の間隔は長く、定期的に検診に来る医師の話では平均的とのことらしく、この分では生まれるのは深夜頃になるだろうとのことだ。
まだ昼前だからこのもどかしさが半日続くと思うと、当人もだが付き添いもまた疲弊してしまう。
一応今の状態であれば食事が出来るとのことだが、さすがに固形食を食べる余裕はなさそうだった。看護師の話では栄養補給ゼリー系の片手間で食べられるものがいいとのことで、自分の昼食も含めて一端付き添いは両親に任せて買いに外へと出た。
掛かりつけの産婦人科は大学病院ではなく個人病院であるため売店はない。よって食べ物を買うにはコンビニに行くしかなかった。
「コンビニの場所はっと」
スマホを取り出して落としていた電源を入れる。
転移から丸六年。日本のGPS事情は元通りになっていた。
日本国を陸地と海ごと転移する国土転移も、GPS衛星までは転移させていない。そのため転移当時はあらゆるナビが機能していなかったが、日本版GPSのみちびきを改良したH‐ⅡCロケットで打ち上げた。むろん地球の座標は意味をなさないため、異地用の座標を設定してナビとしての機能を復活させた。
幸い日本が転移した場所は赤道付近であったため、日本上空静止軌道に投入することで最小限の打ち上げで済んだ。しかもユーストル全域をカバー出来るため、日本にとってこれほど好都合なことはなかった。
スマホのナビにはしっかりと現在位置を中心に地図が表示され、近くのコンビニを検索する。
そして向かおうとした瞬間。
空気の壁と表現できる突風が襲い、近場で落ちた雷のような轟音と空気の震えが羽熊の全身を包んだ。
予期しない風に羽熊は二メートルは吹き飛ばされる。
思考が完全に停止し、直後に地震を想像した。だが、転移して以来日本全国で有感地震は起きていない。
なのに地震のように木々は揺れ、民家のガラスはひびが入るか砕け落ちる。
瓦は幾枚も落ちて空に漂う雲が消滅した。
転後初の地震を想像すると同時に、美子のことが脳裏をよぎった。
まだ病院の外にしか出ていなかったため、にすぐに建物を見ることが出来た。さすがに病院であるがためか外見上での損傷は見られず、窓ガラスもすべて無事だ。
羽熊は駆け足で病院内へと戻り、美子のいる陣痛室へと向かった。
「美子!」
「洋一、いまの揺れは何!?」
美子はまだ陣痛に耐えていて、声をかけて来たのは羽熊の母だ。美子は依然と陣痛に耐えている。
「分からない。いきなり突風と地震のような地鳴りがして。そっちは大丈夫か?」
「窓ガラスが揺れただけで大丈夫よ。まさか地震?」
「それにしては揺れてないぞ」
地震であれば地面が揺れる。しかし空気は震えても地面は揺れてはいなかった。
「テレビ、テレビつけてくれ!」
「これ、テレビカードじゃないと見れないわ」
残念ながら陣痛室にあるテレビはテレビカードを差さなければ視聴できないタイプであった。
「……とにかくここで騒ぐのは止めよう。母さん、美子をお願い」
美子は羽熊や二両親たちの会話に入ることも出来ずに耐えている。そこで不安をあおる騒ぎをしては母子ともに良くはない。
羽熊は一旦頭を冷やそうと、美子は母たちに任せて男性陣は陣痛室の外へと出た。
「ネットでも更新されてないな」
羽熊父がスマホを見て呟いた。地震大国だった日本ならば地震速報はどの速報よりも早いはずだ。それがないと言うことは地震ではないことになる。
「待てよ。あの窓の揺れ方は……」
美子父が何かに気付き、窓の外の顔を向けた。
「何かが爆発したんだ」
その言葉で羽熊と羽熊父も窓の外を見る。
頭の片隅にも置いていなかった現象が、窓の外で起きていた。
「キノコ雲?」
映画でしか見たことがない、外側から内側に巻き込むようにして上昇する赤と黒の煙が高度数キロの位置にあった。
窓の方角はユーストル。
「ガスタンクが爆発でもしたのか?」
「確かに接続地域の北側に石油とガスの貯蔵施設はあります」
だが巨大地震や津波で炎上する施設が前触れもなく突然爆発するだろうか。するならテロがありえた。
「まさか式典の時に貯蔵施設でテロ?」
「いや、いまの日本にそんなテロをする組織はないはずだ」
羽熊の知る限りでも生涯で爆破テロなど見たことがない。
「では事故?」
まだその可能性の方が信ぴょう性がある。
と、羽熊のスマホに若井から着信が来た。
「はい、もしもし」
『羽熊さん! ああ、よかった、無事だったんですね!』
初めて聞く焦りと安堵の声色に、羽熊は瞬時に只ならぬことが起きたと察した。
「何があったんですか? 爆発でもあったのかキノコ雲みたいなのが昇ってますが」
『キノコ雲!? ああ、なんてことだ……』
「若井さん、何があったんですか?」
『詳しいことはこちらも分かってはいないんですが、おそらく……式典会場が爆発したと思われます』
「は?」
頭の片隅にも無かったことを言われ、人生で言ったこともない声を漏らした。
「え、ちょっと……ま……へ?」
『羽熊さん、ひょっとしてテレビ見てないんですか?』
「見てないです。なので何が起きたのか分かってないんです」
「洋一君、電話は誰かね?」
美子父が問う。
「若井さんです。若井官房長官」
『式典の途中で突然信号が途切れたんです。報道スタジオでも分かっておらず、こちらでも状況が分かっていませんでした。現場との回線が乱れていて……』
「爆破テロ?」
『断定はできませんが……』
羽熊の背筋がゾッと悪寒が襲った。
もし、予定通り式典に参加していたら――。
と自分のことだけを考えた刹那、より大事なことに気付いた。
「総理達は!?」
『…………』
若井官房長官は答えない。
今回出席した中には笠原総理に加え副総理兼星務大臣もいる。それだけではない。イルリハランからはハウアー国王も出席していたはずだ。
もしあの規模の黒煙を生むほどの爆発が式典会場で起きたのだとすれば、おそらく参加者スタッフ全員の生存が絶望的だろう。
その事実を悟り、手が震え膝が笑い出した。
佐々木元総理を始め、現総理である笠原総理とも面識はある。ハウアー国王もだ。その人達が亡くなっているかもしれない事実に、羽熊は動揺してしまった。
ましてや自分もと考えると平常心は保てない。
『とにかく羽熊さんは無事でよかった』
「なにか手伝えることは?」
『いえ、もどかしいと思いますが奥様のそばにいてください。いま羽熊さんに出来ることは何もありません』
断言する当たり本当にできることがないのだろう。むしろ余計なことをするなと言う感じだ。
「……分かりました」
通話は切れる。
「洋一、一体どうなってるんだ? 爆破テロとか言ってたが……」
「式典会場が爆発したみたい。もしかしたら総理や他の人達は……」
「うそだろ」
「私は至急本省に戻ります。洋一君、すまないが妻と美子を頼む」
「分かりました」
美子父は防衛省のキャリア官僚でそこそこの地位にいる。式典会場は天上自衛隊の防衛圏内にあって爆破されたのなら、自衛隊の失態でもあり国防に関わるのだ。戻らないわけにはいかない。
自分のスマホを手早く操作をしながらどこかに電話を掛けつつ、会釈をして病院から離れていった。
「洋一、お前はどうする? いまさら行ったところで何もできないと思うが」
「……美子を置いていけはしないよ。それに陣痛が起きなかったらいま生きてないって考えたら美子も生きた心地しないだろうし」
本音を言えば今すぐに接続地域に出向きたかった。出来ることはなにもなく、野次馬にしかならなくても何もしないのは嫌だった。
スマホに着信が来た。雨宮だ。
「あ――」
『羽熊! お前生きてるのか!? 怪我はないか!? 他に生き残ってる人はいるか!?』
欠席していることを知らない転後から友人となった陸上自衛官の雨宮は、式典会場で生きていると見て話しかけてくる。
「式典には参加してないんだ。いま神栖市の産婦人科に来てる」
『あ、そ、そうなのか。よかった……よかった』
雨宮からすれば死んだと思われ、それでも連絡を入れるほど心配をしてくれていた。それゆえに生きていたことに心から安堵していることが電話越しでも伝わってくる。
「だから俺のことは心配しないで仕事に専念してくれ」
『分かった』
最後に涙声となって雨宮は通話を切った。
羽熊が式典を欠席したことは親族以外だと式典関係者の一部しか知らない。となれば多くの知人が亡くなったと思うだろう。
それで生存確認の電話をされてはうれしいが時間を無駄にしてしまうから、メッセージアプリで式典を欠席して無事であることを登録者全員に送信した。
ニュースサイトを見ると、最新ニュースが更新されていた。
ユースメミニアス式典会場が爆発。
笠原総理の生死不明。
式典会場爆発。テロか?
天空島爆発。警護に不備は?
ほぼ全部が式典爆発の報道に切り替わっている。今テレビを見ても全チャンネルで緊急特番をしているだろう。
現場に駆け付けたく、テレビも見たく、美子の側も離れたくない。
かつて転後日本を救うために現場で奔走した羽熊も、いまは何もできないことに腹立たしさを抱く。
しかし、無理に動いたところで足手まといの事実も変わらない。いま羽熊に出来ることは美子の側にいてあげることだけなので、歯がゆい気持ちを押し留めて陣痛室へと入った。
「洋一、さっきの揺れは何だったの?」
一応病室からスマホを使わない母二人は訪ねた。
「……ガスタンクが爆発したみたい」
今まさに新たな命を産もうとしている中で事実は言えず、羽熊は適当な嘘を小声でついた。
「ガスタンクって、ここは大丈夫なの?」
母も美子を気遣って小声で返す。
「離れてるから大丈夫。それより美子は?」
「変わらないわ」
「そう」
もし今日陣痛が来なければ羽熊は死んでいたと美子が知れば、不安からどんな影響が出るのか計り知れない。せめて無事出産するまでは嘘も必要だ。
羽熊は美子の側に座って頭を撫でた。
「あなた……」
「心配いらないよ」
「…………ウソ」
「ん?」
「何か隠してるのバレバレだよ」
苦悶の表情を見せながらも美子は羽熊を一目見るや、容易く嘘を見破ってしまった。
「何も隠してないよ」
「何年一緒にいると思ってるの。すぐにウソだって分かったよ」
「……」
「私と亜季に気を遣ってるのかもしれないけど、私達は大丈夫だから……やりたいことをやって」
「美子……」
「それでも残るなら何も言わないけど、残って行かなかったことを後悔するなら行って」
「美子には敵わないな」
美子の側にいたいと接続地域に行きたい気持ちはせめぎ合っており、心の底の底を覗くと行きたい気持ちが勝っていた。
それでも何もできない現状と戦っている美子を天秤に掛けたら、合理的に考えて美子に傾けるしかなかった。
美子は羽熊の嘘を見破り、傾けた天秤を逆に傾け直してくれたのだ。
妻に言われたら夫として応えなければならない。
「詳しいことは亜季が産まれたら話すから。美子はそれだけを考えてるんだぞ」
「むしろ、それしか考えたくないよ」
「父さん、俺行ってくるから」
「行くのか」
「無駄と分かってても行ってくるよ」
「行くなって言っても聞かないだろうから言わないけど、注意しろよ」
「過剰なくらい気を付けるよ」
出来て境界線に近づける程度だろう。戦闘行為でなければ被害はないだろうが、それでも十分注意はするつもりだ。
羽熊は最後に美子の頭を撫で、駆け足で産婦人科を後にした。
「タクシーは……さすがに無理か」
自宅で陣痛が来た時はタクシーを使うよう推奨されていたからタクシーで来たのが裏目に出た。自分で運転すると集中できずに事故を起こすからだが、こうなると帰る足がない。
普段ならタクシーを呼ぶところ、こうなってしまうと回線が込み合っていたりしてすぐに来たりはしないだろう。
目算で産婦人科から境界までは二キロほどだ。ならば移動手段は走る以外にない。
羽熊は駆けだした。
空へと舞い上がっていたキノコ雲はすでに消えてしまっていたが、風に流されないまま残る煙が天へと昇す柱として佇んでいる。
下からは新たな煙が上昇して、煙の柱を消さぬよう上書きしていく。
走り出して三分くらいで足が重くなってきた。
普段からジョギングなどの運動をしていないばかりに、突然のジョギングに体がついていかないのだ。
明日は筋肉痛か力が入らずに動きが鈍るだろう。
それでも羽熊は走る。
神栖市は異地と陸続きとなった街として県と国主導による再開発が開始された。さすがに危険地帯であることは変わらないため、住宅地よりはオフィスや高速道路や鉄道などインフラ設備に重点を置いている。それでも住宅も建ったりして人口が増え、爆発によって外に出てくる人も見られた。
羽熊はその人達を避けながら道路の脇を走る。
救急車かパトカーかサイレンの音がいたるところから聞こえた。接続地域に向かうのか、爆発の衝撃で怪我をして呼んだのだろう。
まるで震災が起きたような雰囲気だ。
あのキノコ雲の大きさから見て天空島は粉々になっているはずだ。空を飛べるリーアンなら運がよければ爆風にのって弾き飛ばされているかもしれないが、空を飛べない日本人は即死だろう。いや、リーアンも爆風と高熱によって木っ端微塵となって蒸発してしまっているかもしれない。
なんであれ、天空島にいた人は全滅と見て間違いない。
佐々木前総理に笠原総理、ハウアー陛下にウィスラー前大統領と、転後日本を巡って外交戦を繰り広げた人々が一斉に亡くなった。知人ともあって喪失感は大きい。
ふと、もう一人本来参加予定だった人物を思い出してスマホを走りながら操作した。
画面にはエルマ大使と表示される。
本来ならばエルマも式典に参加する手はずになっていたのだが、数日前に運悪くインフルエンザに掛かってしまい、接続地域側の病院に入院していたのだ。
インフルエンザは冬に流行するイメージだが、実は年中日本国内で感染は続いている。運悪く、境界を往来する日本人に発症者がいて会話により感染してしまったのだ。
かつて地球で猛威を振るったインフルエンザも、異地側でも免疫力があるのと治療薬がそのまま使えるので致命的なことにはならない。それでも異地側でパンデミックを起こすわけにはいかないから、日本側の病院に入院していたのだった。
昨日の時点で熱は下がっていたと聞いていたが、強行して参加していたらと思い電話を掛けたのである。
「出ろ出ろ出ろ出ろ」
コール音が三回したところでエルマは出た。
『は、はい、博士、無事ですか!?』
エルマの生存が確認できた。
「はい。妻が産気づいたので式典は欠席していました。エルマも今は病院に?」
『式典に参加したかったのですが、医師から許可が下りずに病室にいました。そうしたら目の前で爆発が……』
「エルマ自身は無事ですか?」
『爆風で窓ガラスが全部割れましたが、すぐにベッドの下に隠れたので怪我はありません』
「エルマのいる場所から天空島は見えてたんですか!?」
『最上階だったので見えてました。あの爆発規模では生存者はいないでしょう』
エルマは平静を装っているが、叔父であるハウアー国王も亡くなったことを言っていることになる。本人としても悔しさともどかしさで一杯だろう。
『博士は今どこに?』
「接続地域に向かってます。出来ることは何もなくても近くにはいきたいので」
『注意してください。爆発音は一度だけですが、爆発しないわけではありませんから』
「もちろんです」
とりあえずエルマの生存は確認できてホッとする。
そしてもう一人いるリーアンの知り合いであるルィルは、そもそも式典には参加しないから無事なのは間違いない。ただ、駐日大使であるエルマと違い、ルィルはラッサロン勤務なので日本の携帯電話は持っていないから連絡手段がなかった。
おそらく会場爆発で緊急出動していることだろう。
急な運動で心臓が破裂するかのような鼓動をする。
足首も痛く、疲労から脚も上がらなくなった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
だらしない事この上ない。同い年でオリンピックに出る選手もいると言うのに、二キロすらノンストップで走れないのは恥だ。
美子と亜季のことを考えても運動はしようと決意する。
歩きと小走りを繰り返して接続地域が近づいてくると、渋滞する車と人だかりが目立って来た。クラクションやサイレンもまた聞こえてもくる。
まだ羽熊は自分の目で確かめていないから、頭の中で分かってはいても心がまだ拒絶していた。
爆発は天空島ではなく別の場所で、天空島はまだ無事なのだと。
無意味な楽観論と分かっていながらも、これから起こる世界規模の重大な問題を前に逃避をどうしてもしてしまった。
異地まで遮るところがない場所まで来たところで膝に手を付いて激しく息をしながら、意を決して目線を地面から上げた。
地平線まで広がる空には、以前はラッサロンだけだった天空島も、ユースメミニアスによって無数ほどではないが数えられる程度には滞在している。
だが、爆発の衝撃波によってか宙に浮いても煙を吹いている島も見られた。
視線を向けると未だに空高く上る黒煙の柱が見え、その下には残骸となって地に落ちている何かが見えた。いや、残骸と呼べないほどに粉々になって小山を築いている。
羽熊の知る限り、その場所にあったのは式典用天空島だ。
「ああ……そんな……」
膝をつき、羽熊は項垂れた。
自分の目で見てしまっては否定しようがない。
平和の象徴が崩落してしまった。
それは即ち、日常が崩壊することを意味する。
六年前の悪夢が、始まる。
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