近景の海

クラン

本文

 海と書いてカイと読む。それが彼の名前。


 あらゆる人が名前と実体との比較をまぬかれられないように、彼もまた名前に縛られている。少なくとも私はそう思う。


 こう言ったら私をわらうだろうか。


 私は海を愛している。



 はじめて彼に接したときから、海をイメージしていた。穏やかで広い海洋。陽を受けて輝く水面。名前負けという言葉があるが、それは彼には当てはまらない。名前通りの人だったから。争いを避け、平穏無事な日常を送る、そんな人。一歩引いた接し方をするものの、それを感じさせない口調の柔らかさ。それらは私にとって海であり、たぶん、彼にとっても海からくる連想に違いない。


 思うに、人の性格は先天的などではない。自分の半径数メートルを観察して得るものなのではないか。それは家庭環境であったりするけど、彼の場合はきっと名前。これは付き合ってから分かったことだけど、彼は自分を自分たらしめる記号を、ことに愛している。だからこそ、そこからの連想に忠実であろうとする。


 大学のキャンパスで見る彼の姿は、いつでも穏やかで、優しげで、それが彼の遠景であることを誰ひとり知ろうとしない。たったひとり、私だけは彼の近景を知っている。



 交際が三年目になるまで、私たちは肉体関係を持たなかった。彼は充分な期間を置いて、私のことをじっくり観察していたのだろう。だから、あの夜のことは決して突発的な衝動によるものではない。私が崖まで歩くのに三年かかっただけのこと。



 すべてを終えて横たわる私は、ある感情に満たされていた。恐怖である。最中に彼は私の髪を引き、頬を張り、あらゆる部分を乱暴に扱った。とんでもなく品のない罵声も浴びせかけられた。涙が流れていたことを知ったのは、すべて終わったのちである。


 現在、彼は安らかな寝息をたてている。お腹のあたりが呼吸に従って膨れ、しぼむ。それをも、ついつい海のようだと思った。


 逃げようと思えばホテルを退散して携帯電話の番号等を変えれば済む。ただ、それはしたくなかった。彼を眺めていたい。そう思ったのだ。きっと私はいつの間にか波に呑まれ、そこから逃れ得なくなっていたのだ。そうして、それでいいとさえ思っている。彼は今までの穏やかな姿ではない。柔らかい言葉の数々も、あの罵倒で塗り潰されてしまった。



 私は今まで、遠くから彼をのぞんでいたのだ。遠景の穏やかさは、そこに横たわる距離によって巧妙にぼかされている。常にそうだ。


 夜を知ってなお、私は彼を海だと思った。ますます、そう思った。


 近景。崖の上から見下ろす海は、暴力の象徴である。白波が絶えず生まれ、岩を呑み込まんと打ちつける。吹く風は塩辛い。そうして一度呑まれてしまったら、思うさまなぶられるのだ。


 いつ私は崖下の海へと飛び込んだのだろう。でも私は確かに、彼に身を委ねることを望んでいた。おそらくは、浜辺に打ち上げられて荒い呼吸をしている私。海の近景はこんなにも破壊に満ちている。


 ベッドから抜け出て、テーブルに置いてある果物を次々と頬張った。栄養を摂らなくては死んでしまうような、そんな気がしたのだ。りんごひとつ、オレンジひとつ、パイナップル三切れ。続いてバナナを口に入れた私は、トイレに駆け込んだ。嘔吐感が波のように私の胸を押さえつけたのだ。


 レバーをひねり、吐瀉物としゃぶつを流す。渦巻く水に、未消化の果物が呑まれていく。バナナはそのなかでも、殊更ことさら自分の姿を誇張しているようだった。我ながら品のない連想だと思うけれど、衝動というものはいつだって歯止めのないものだ。


 ベッドの彼。小さく空いた唇に、私は接吻した。意趣返いしゅがえしになっているのだろうか。分からない。


 彼の穏やかな唇は、地獄の入り口なのかもしれない。そこから溢れる夜の言葉は、ひとつ残らず暴力がこもっている。


 それが近景なのだ。それらが近景なのだ。


 私は彼の隣に横たわった。熱を帯びた彼の肉に触れると、ほんの少し哀しい気持ちになった。


 もはや恐怖は別の感情に塗り替えられてしまっている。


 海とひとつになるためには、その深みに入らねばならない。それはとりもなおさず死であろう。酸素を消費し尽くし、海水を飲み、心臓が停止するまでの間。その間は、誰よりも海に近づいている。繋がっている。それが途方もなく素敵なことに思えてならない。



 こう言ったら私を嗤うだろうか。


 私は海を愛している。

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近景の海 クラン @clan_403

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