2-9 紅の試験と世話焼き侍
いわゆる
いの一番に先陣を切るか、それとも一番後ろで指揮に努めるか……かの剣帝ヴァルフレアはこてこての前者であったのだが、そのくせして彼は軽鎧すら身に着けることなく戦いに臨んでいた。
ヴァルフレアの戦装束は、機動性重視の改良を施した特注の軍服であった。そしてその背中には、常に立派なマントを背負っていた。
戦場においては派手で浮ついているとも言える服装で、しかし彼は自身の戦い方についてこう語る。
『敵を引きつけ戦場を荒らし、なおかつ仲間の士気を高めることでその力を最大限まで引き出すのが俺の仕事だからな。派手というのも悪いものではないさ。それに特別な戦装束があるというのは、正直なことを言えば俺自身もいくらか昂るものだ。さらに少々余談となるが、マントというのもあれはあれで咄嗟の目くらましなど使いでが――』
「要するに、気合で負けたら始まらないわけだ」
ニルヴェアは己が敬愛する兄上の在り方を思い返し、腕を組んで呟いた。
彼女は今、テントの中で胡坐を組んで座っている。
――僕を鍛えてくれ
あのあと、ニルヴェアとレイズはキャンプ場で(勿論別々にテントを立てて)一夜を明かした。そして今、ニルヴェアは悩んでいる。
なぜならここから出れば、レイズによる”試験”が始まるのだから。
――認めさせてみろよ、お前の力を
(なにをすんのか知らないけど、なにかと戦うことには違いない。必要なのは戦装束……とはいえ選択肢は少ないんだけど)
ニルヴェアの前には、2つの選択肢が置かれていた。
1つはいつも使ってた簡素なヘアゴム。
もう1つは昨日買った、羽根飾り付きの髪留め紐。
要はどっちでどのように髪をまとめるか。それが問題であった。
(なにも着けないのはさすがにうっとおしいだろう。べつにいつも通り、普通のヘアゴムで兄上を真似て首元で括ってもいいけど……これは僕ひとりで戦う試験なんだ。いくら兄上とはいえ、ただ他人を模すだけっていうのも……なにか違う、気がする)
そう感じ、羽根飾りに手を伸ばして。
(いや、今から戦いに行くんだぞ! ”可愛い”はさすがにないよな……ない……か?)
ふと過ぎった。昨日、鏡越しに見た少年の表情が。
(僕が唯一、あいつに勝てたもの)
思ったときには手を伸ばし、掴んでいた。
(あいつに勝つ。認めさせる。なにがなんでも)
勝利をくれる験担ぎは、きっと多い方がいい。だからニルヴェアは決意し、そして手に取った――羽根飾り付きの髪留め紐を。
昨日と同じように後頭部の中心あたりで髪をまとめて、それから紐で括ってやれば、羽根飾りがぴょこんと飛び出て、金のポニーテールがわずかに揺れた。
「とにもかくにも、気合で負けたら始まらない」
◇■◇
ニルヴェアがテントの外に出ると、出迎えてくれたのは爽やかな日差しであった。
時刻はおよそ昼前。空は試験日和の快晴。地には澄んだ風が流れていく。かさかさと、だだっ広い草原を揺らして。
「準備はできたか?」
声に気づいて振り返ると、そこにはレイズが立っていた。
レイズの、そしてニルヴェアの服装はお互いに大体同じだった。いくら汚れても構わないシャツとズボン……それはレイズが試験を行うにあたって指定してきた服装だった。
それに加えてニルヴェアは羽根飾りをつけているわけだが、一方でレイズもひとつ、身に着けている物があった。
「なんだそれ?」
ニルヴェアの視線の先、レイズの両手には奇妙なグローブが嵌っていた。中の手が見えるほどに透き通った無色透明。まるで水をそのまま押し固めたかのようなグローブだった。
「『スライム』って素材で作ったグローブだよ」
「スライム?」
「切断に弱いけど衝撃には強いって特徴があるんだ。触ってみ?」
そう言われれば是非もない。ニルヴェアはそのスライムグローブへとおそるおそる近づいて、そして指で無色透明な表面を突っついてみた。
「……ぷにぷにというか、ぶよぶよというか」
率直な感想を言ってみれば、レイズが解説を付け加える。
「その柔らかさが衝撃を吸収するんだよ。衝撃を受けたときはもちろん……こっちから殴ったときも、な」
「なるほど……」
とニルヴェアは感心しかけて――しかし、その真意にすぐ気づいた。
「つまり、これなら何度殴っても傷にはならない。そういうことか……?」
「察しの良さは及第点ってところか」
ニルヴェアの表情が緊張で硬くなった。それを見計らったかのようにレイズが言う。
「俺が認めるまで、あるいはお前が立てなくなるまで素手で殴り合う。ルールはそれだけだ、簡単だろ?」
「……僕はグローブを着けなくてもいいのか?」
「はっ。拳の1発でも当てられたらその時点で認めてやるよ……」
レイズはそう言ってニルヴェアから適当な距離を取り、なにげなく振り返って、さくっと一言。
「ほら、いつでも来いよ」
それが試験の始まりであることは、ニルヴェアにも分かった。
しかしそれはあまりにもあっさりした宣言で、さらにレイズは構えの1つすら取っていない。完全なる自然体であった。
(かんっぜんに舐められてる。実力差があるのは分かっているけど、それでも腹立たしいものは腹立たしい……)
その舐めた態度が、昨日の荒くれ者と重なった。昨日は確かに色々不覚を取った。取ったのだが。
(だけど1発、1発当てればこっちの勝ちだ。昨日だってちゃんと1発は当てたんだ)
屋敷の中で独学で覚えた格闘術。
そのなにもかもが通用するわけじゃないけど、だからってなにひとつ通用しないわけでもなかった。そういう意味において昨日の対人戦は、ニルヴェアにとって確かな自信にもなっていた。だから彼女はためらわなかった。
「あまり舐めていると痛い目見る……いや、見せてやるからな!」
ニルヴェアは迷わずに駆け出した。いきなり一直線にレイズへと殴りかかる……と見せかけて。
(さすがに素直に殴りかかって当たる相手じゃないだろ。フェイントから仕掛ける!)
一気に左に踏み込んで、重ねて一気に右へ跳ぶ。そこから1発、
「うわっ」
ニルヴェアの体が宙に浮いた。そのまま視界がぐるりと回って、
「あだっ!」
草原の上にダイブした。雑草を撒き散らしながらごろごろ転がりぶっ倒れて。
(なにが起こった!?)
ニルヴェアは慌てて起き上がり、レイズへと顔を向けた。しかしレイズは相変わらずの自然体である。強いていえば、これ見よがしに左足を浮かせてぷらぷらとさせているくらい。
「足払い……」
たったそれだけ。
理解した瞬間、ニルヴェアは怒りと共に勢い良く立ち上がる。
「この野郎!」
少女は再び突進した。今度は急制動を活かした前後のフェイント……こかされた。
「まだまだ!」
ならば今度は素直に殴りにいった。こかされた。
右と見せかけて左。上と見せかけて下。手と見せかけて足。両手を使った二連撃。やけっぱちの飛び蹴りその他諸々。
全部こかされた。
「うわぁ!」
もう何度目か分からないすっ転び。ニルヴェアの全身が再び地面に打ち付けられた。草原と柔らかい土が、その衝撃をある程度吸収してくれる……とはいえ、こうも何度も打ち付けられては、さすがにダメージも蓄積されてくるというものだ。
じわりじわりと、全身の痛みが意識を侵食していく。薄暗い路地裏、石畳を転がされた痛みを、体が思い出す――
「くっ……そ!」
気合で負けたら始まらない。
ニルヴェアは弱気を振り払って立ち上った。すると泥に汚れた顔から、しかしその泥さえも洗い流さんとばかりにぼたぼたと汗がこぼれ落ちた。
その一方で……レイズは全くの無傷無疲労だった。彼はつまらなさそうな目をニルヴェアに向けて、その上でつまらなさそうに吐き捨てる。
「目線も動きも騙す気しかない。いかにもなびっくり箱に引っかかる馬鹿がどこにいるんだ? 騙すんじゃなくて殺す気で来いよ。じゃなきゃフェイントとは言えねぇ」
「ぐっ……!」
レイズの言葉が、態度が、全てがニルヴェアを苛つかせた。途方もない実力差を見せつけられた気がした。だから彼女はがむしゃらに叫ぶ。
「なんだよ……たまには殴ってこいよ! それとも女は殴れないか!? お前、そういうところ分かりやすいもんな!」
苦し紛れの挑発は、しかしレイズの顔色ひとつ変えられなかった。むしろその事実こそが、ニルヴェアの琴線に触れてしまった。
「こんのっ……負けて、たまるかぁぁぁ!」
ニルヴェアはただ無我夢中に殴りかかった。その策もなにもない愚直な拳に……しかし、あるいはだからこそか、初めてレイズは手を出してきた。
スライムグローブの嵌った右手を静かに振りかざし、そして振りかぶる。
「っ!」
ニルヴェアは反射的に目をつぶってしまった。
その途端、むにりと柔らかい一撃が顔に入って、体がぐわっと弾き飛ばされた。思わず目を開けば視界からグローブが一気に遠ざかり、そのまま空を見上げて、
「かはっ!?」
背中にどんと衝撃が走った。勢い良く、まっすぐに背中を打ち付けたのだ。当然、ただ転ばされたときよりも痛い。
「ぐ……!」
思わずうめきながら、それでもなんとか起き上がろうと、
「今、目ぇつぶったろ」
いつの間にか、レイズが冷ややかに見降ろしていた。彼はニルヴェアの胴の上に跨っていたのだ。
それに気づいた直後、今度は頬を殴られた。スライムグローブのおかげで殴られた箇所自体は痛くなかったが、しかし殴られた衝撃で頭を地面に打ちつけた。
それでも、負けじと声を
「この、」
上げる前に1発打ち込まれた。頭を打ちつけた。
――路地裏の闇が。
2発目。
――与えられた痛みが。
3発目。
――ただされるがままの無力感が。
断続的なフラッシュバック。全身から一気に力が抜けていく。
するといきなり両腕が絡めとられた。絡めとったのはレイズの両手だ。彼はニルヴェアの両腕を地面に押し付けると、そのまま左手でそれを押さえ、右手を再び振りかざす。
「や、やめ」
ニルヴェアは懇願をする、暇もなく
「んんー!?」
グローブによって口を塞がれた。なにもかも拘束された。
逃げられない。叫べない!
少女の瞳を涙が覆った。ぼやけた視界の向こうで、男がこちらを見下ろしている。
「怖いよな」
「っ!?!?」
「箱入りの坊ちゃまがいきなり女にされて、外の世界に連れ出されて、獣に襲われて、あげくの果てには男にさ……」
つんと、鼻を突く匂いを嗅ぎとった。じめりと湿った空気を肌に感じた――ここはもう、昨日の路地裏だった。
「お前は俺よりずっと弱い。ここには助けだってこない。俺は今すぐにでも、お前を好きにできる」
(僕にはなにもできない。また)
走馬灯のように脳裏を駆け抜ける。
調子に乗って、
叩き潰されて、
犯されかけて、
恐怖に怯えて、
助けられて、
なのに、拒絶してしまった。
(きっと、誰よりも優しいその手を)
――ぷつり。
なにかが切れた、音がした。
レイズがその異変に気づいたきっかけは、音であった。
本当に微かにだが、なにかが聞こえた気がしたのだ。
(今、なにか)
だからなんとなく視線を向けた。押さえつけていたニルヴェアの両手へと。そして見た。
「え」
その光景が示す意味を、彼は一瞬理解できなかった。
――ニルヴェアの右手の五指が、左手の平と甲に食い込んでいる。
そして五指の先に生えた爪が、左手の肉をぷちり、ぷちり。喰い込んだ先から、血がじわりと染み出して、
(自分で抉ってるのか!?)
理解した瞬間、動揺してしまった。拘束を緩めてしまった。
そして、そこが分かれ目となった。ここぞとばかりにニルヴェアの腕が思い切り振られたのだ。動揺により力の抜けていた拘束が、あっという間に外された。
「しまっ――」
レイズは再び取り押さえようと、
「っ!」
そのときレイズが後ろに飛び退いた理由は、おおよそ直感でしかなかった。しかしレイズが離れたその直後、ニルヴェアの全身がぐるっ! と回り始めた。
「バク転!?」
レイズの眼前。ニルヴェアは地面に両手をつき、そのまま両足をぐわっと持ち上げて宙返り。1周回って両足を地面に着けて――勢い余って後ずさりながらも、しかしすんでのところで倒れず、堂々と仁王立ちを決めてみせた。その瞬間、ほどけた金の長髪が、ぶわりと波のように広がった。
「マジかよ……」
レイズは呆然と呟き、そしてふと気がついた。視界にふわりと舞い降りてきた、1枚の羽根に。
小さな水晶粒を埋め込まれた羽根は、太陽の光をきらきら弾きながらゆっくりと落ちていく。それはニルヴェアが昨日買った髪飾りであった。
散々地面を転がった上にバク転の勢いも加わって、とうとう髪から外れてしまったらしい。
(綺麗だ)
光を浴びながら落ちゆく白羽根にほんの一瞬見惚れて――「っ!?!?!?」鳥肌がぶわりと全身を波打った。
白羽根の向こうに見えた少女の姿。蒼の双眼が、ぎらりと闘志を迸らせている。少女はなにひとつ、諦めていなかった。
「どいつも、こいつも、やりたい放題、しやがって」
(懲りるって言葉を知んねーのか、こいつは)
レイズの頬をたった一筋、それでも確かに一筋の汗が伝った。その瞬間、
「ニルヴェア・レプリ・ブレイゼルを、舐めるなぁ!!!」
少女が吠えた。レイズの鼓膜がごうと震えた。
それもそのはず。少女特有の甲高い声が大音量で響きわたれば、それはなによりもやかましく、尖っていて、びりびりと耳にこびりつくものだ。
だから刻み込まれた震えは、いつまで経っても鼓膜から離れてくれなかった。だからレイズは、
「ふはっ」
笑った。少年の顔に、確かな闘争心が宿った瞬間であった。
「だったら俺に示してみろよ。言葉だけならなんとでも言える。だから……」
レイズは闘う者として、拳を構えて向き直る。
「お前の全部を賭けてこいよ。精々ぶっ倒れるまで付き合ってやるからさ!」
◇■◇
この街の一角には、普通の住民なら誰もが近寄らないような廃墟群がある。
そこは荒くれ者たちのボスが牛耳る一角でもあり、それはすなわちこの街に潜む裏社会の象徴――だった。今日、この日までは。
「た、助けてくれ、ぎゃー!」
「たかが木剣一本で俺たちがぐわー!」
右から左に左から右に荒くれ者たちが宙を舞い、あるいは地面を転がり、いずれにせよ次々と倒されていく。
廃墟群の中心にあり、ボスの根城でもあるその廃墟の中は、あるときなんの前触れもなく阿鼻叫喚の修羅場と化した。
「なんなんだお前ぇ! 俺たちになんの恨みがあるんだぁ!」
「誰かと聞かれれば通りすがりの侍でござる。恨みというなら、うちのツレに手を出したことだな」
修羅場の原因はただひとつ。自称通りすがりの侍……もといアカツキが、構成員を次々と叩き潰しているのだ。しかもその得物は、下手すれば子供でも買えるような訓練用の木剣1本だというのだから、襲われた側からすればたまったものじゃない。
「は、早くこいつを殺せぇ! でないとてめえらを殺すぞ!」
そう叫んだのは、この街の裏を牛耳るボス本人だった。しかし彼を護るのは、今や5人の部下のみであった。
……ちなみに最初は30人以上いたのだが、ほとんどアカツキに倒されたか、そうでなくとも怯えて逃げてしまっていた。
だが残った5人は流石に忠誠心に厚いようで、誰1人その場から逃げることなく一斉にアカツキへと襲いかかってきた。前方から1人、左右から2人。だが、
「まずは一点へ突貫」
アカツキはすでに踏み込み、その間合いを詰めていた。彼女はまず真正面の1人へと木剣を突き刺した。そのどてっ腹に剣を深々とめり込ませると、そのまま全身をぶん回して。
「次に円を描き、薙ぎ払う」
木剣が、突き刺さった部下もろとも高速回転。左右の4人を纏めて巻き込み、ごうっとつむじ風を吹き散らす。
風が止んだときには、5人ともすでに吹き飛ばされていた。
それは、一筆書きで全てを薙ぎ払う抜刀剣術。
「『
そう淡々と語ったアカツキの眼前では、室内に唯一残ったボスが腰を抜かしてへたり込んでいた。
「な、なんなんだ。なにが目的だてめぇ!?」
「そちらから問うてくれるとはありがたい。『金髪蒼眼の少女をとある筋に引き渡せば多額の報酬が貰える』その話の出所が知りたくてな。だからちょーっと街のゴロツキに尋ねてみれば、頭であるおぬしの命令だと言うではないか。だから直接訪ねに来たのだ……というわけで、これは誰の差し金だ? おぬしの背後にいるのは、金髪蒼眼の少女を真に狙っているのはおそらく神威なのだろう?」
「へ、へへ……そういうことかよ……」
ボスは明らかに怯えていた。腰を抜かしたまま、冷たい床をずりずりと後ずさる……だがアカツキには見えていた。ボスの目からは、未だ敵意が消えていないことを。それでも彼女は黙ってボスを見守った。
しかしボスは質問に答えることなく、やがて背後の壁に突き当たるまで後ずさりきって。
「知りたいなら教えてやるよ……その体になぁ!」
そんな台詞と共に背後の壁を叩いた。正確には、壁と同化させていた押しボタンを叩いた、その直後。
ドカンッ! 天井が派手に爆発して、アカツキの上からなにかが降ってくる。
「なるほど。天井の気配はそれか」
アカツキは動揺することなく”それ”の着地点から飛び退いた。その1秒後、けたたましい音を響かせて、それは地面に降り立った。
それは1つの檻だった。そしてその中には1匹の合成獣が、狼と竜の合いの子が閉じ込められていた。
「合成獣ということは、まぁハズレではない……か?」
呑気に首をかしげたアカツキの眼前。落下の衝撃で檻はすでに開いていた。加えて、合成獣には口枷の1つも嵌められていない。
すぐにその異常発達した四肢が動きだし、合成獣はのそりのそりと檻から出てくる。それでもアカツキは動じない。
(竜と狼の合いの子。神威製の中では最もポピュラーな商品だ、ということは……そこまで深く繋がっているわけではないのか?)
アカツキは自身の経験と照らし合わせて考え込む。だが合成獣はアカツキの思考など待ってくれない。歪な口で一度大きく吠え猛り、そのまま一気に飛び掛かって――
「今、楽にしてやる」
アカツキの手は、すでに木剣から離れていた。
彼女はその身に纏うぼろ布の内側、愛刀の鞘に左手を、そして柄に右手を添えて。
瞬きひとつ。
「――暁ノ一閃」
かちん。小さく音を鳴らして刀を”納めた”。
その瞬間、アカツキの”背後”で――合成獣の胴体が、真っ二つに断ち切られた。
『ギッ……!』
悲鳴を上げる暇もなく絶命。落ちた2つの肉塊が地面を鳴らして、決着の合図を告げた。ずしん、ずしん、と重苦しい音が2度響いて……ボスが、間抜けな声を上げる。
「は……?」
ボスはなにひとつ理解できていなかった。なにせ彼から見れば、アカツキはただ合成獣の隣を通りすがっただけに過ぎないのだから。
しかし現に、切札だったはずの合成獣はもはやただの肉と化している。そしてそれを成した自称通りすがりの侍は、今ゆっくりと己の下へ迫ってきている。
「お……おおおおお!」
ボスは慌てて立ち上がった。そう、立ち上がれたのだ。実のところ、へたり込んだ理由の半分は油断させるためのフリであった。
なにせ街1つとはいえ、仮にも裏社会を牛耳る人間なのだ。ある程度の強かさは持っていて当然だろう……例えばこっそり秘密の逃げ道を準備してあるとか。
(こんなこともあろうかと、壁の隅には回転扉を隠してる! 1人入れば勝手に鍵がかかる特別仕様のな! しかも出口は地下の車庫! あとは車で逃げられれば――)
ガラスの砕ける音がした。
「は?」
がしゃがしゃと、破片が撒き散らされる音が続いた。ボスは何事か一瞬分からなかったが、しかし音の鳴った方を見てすぐに理解した。
廃墟の壁に嵌められた窓を割って、何者かが飛びこんできていたのだ。
「こ、今度はなんだぁ!?」
ボスの問いに対して、乱入者はすぐに答える。グラド大陸とそれを護る大盾――越境警護隊の紋章が描かれた手帳をかざしながら。
「僕は越境警護隊のブロードだ! 貴方たちには神威との共謀の疑いが――」
「うるせぇ、そこをどけ!」
ブロードと名乗る男は隠し扉を埋め込んだ壁のすぐそばに、要するにとても邪魔な位置に立っている。
だがそのブロードは、誰がどう見ても背後の自称侍よりも10倍ほど一般人な優男に見えた。ゆえにボスは躊躇わずに突進を仕掛ける。愛用のサーベルを腰の鞘から抜き放ち、叫ぶ。
「どかねぇとぶっ殺すぞ!!」
そのドスの効いた怒号は裏社会で培った代物のひとつだ。大勢の部下を竦み上がらせる一声は、眼前のなよっとした優男に……これといって効かなかった。
「犯罪者には情けは無用。悪いけど、それが越境警護隊のモットーだからね」
それどころか優男は、携行していた両手持ちの琥珀銃をすかさず構えて、弾丸を連射し始めたのだ。
それは容赦なくボスの体に叩きこまれ、いくつもの火傷を負わせた……が。
「マシンガンか! だが真っ二つにされるよか百倍マシだ!」
ボスの歩みは止まらなかった。体中を走る痛みに顔をしかめつつも、彼はついにブロードの眼前に辿り着く。それとほぼ同時にマシンガンの射撃が止まった。
「弾切れか!」
思わぬチャンスにボスはニヤリと笑いながら、迷わずサーベルを振りかざし――ズドン! と大きな音がひとつ。
すると、ボスの体がふらりと揺れて……仰向けに、倒れた。
「……ふぅ」
ブロードは銃を降ろして、倒れているボスを見下ろした。ボスはぐりんと白目を剥いて、ぴくぴくと痙攣していた。
どうやらちゃんと気絶しているらしい……と、横から声が投げかけられる。
「ほう、大した怪我を負わせずに気絶させるか」
倒れたボスをしげしげと観察しながらそう言ったのはアカツキであった。
彼女の言う通り、ボスは軽傷だった。まぁ彼の服の腹部分は焼き切れており、剥き出しの腹には琥珀銃特有の焦げ付いた銃痕が無数についていたりするのだが、しかし決して風穴などは空いていない。
「弾種の切り替え機構といい、器用な武器でござるな」
「仕事が仕事だからね。器用に越したことはないよ」
ブロードの琥珀銃は、
そのショットガンモードを用いて気絶させたボスに対して、ブロードは手持ちの手錠をかけて拘束した。それからアカツキへと告げる。
「こいつらは街の自警団を通じて越警に引き渡すとして……ここさえ締め上げれば残ったゴロツキも下手に手を出さなくなるだろうし、ひとまずは安心かな」
「自警団に連絡は?」
「もうつけてある。じきに来るはずだよ」
「ならば拙者がここにいても仕方ないか。落ち合うのは一昨日と同じ酒場で……」
「あ、ちょっと待って」
「?」
アカツキがきょとんとブロードを見ると、彼は少し困ったような表情を浮かべていた。
「昨日も聞いたけど……やっぱりまだ、ニルヴェア様を僕に預ける気はないんだよね」
それは昨日のうちに2人で交わしていた話。そのリピートだった。
ブロードは未だ納得いかないようであったが、アカツキもまた譲る気はなかった。
「ここを締めれば、少なくともこの街で襲われる心配はなくなる。ならばそれで良かろうて」
「だからこそ、預けるなら今のうちなんだよ」
ブロードはそう言ってから、合成獣の死体へと目を向けた。自然界に存在しないその歪な生き物は、他ならぬ神威の手で造られた商品だ。これがあるということは、それすなわち大陸一の巨大犯罪組織『神威』と多かれ少なかれ繋がっているということを意味している。
「『金髪蒼眼の少女の噂』も含めて、どう考えても裏で神威が1枚噛んでいるはずだ。加えて言えば、これは君たちが会った『黒騎士』あるいはその背後の黒幕があらかじめ仕込んでいた予備プランでもあるはずだ。つまり敵は大組織かつ、本気でニルヴェア様をつけ狙ってるってことだ。だからあの人はこれからも危ない目に遭うかもしれない……昨日のように」
2人はもう知っていた。昨日、ニルヴェアの身に振りかかった事件を。
アカツキは昨晩、レイズの下へと赴いてそこら辺の情報交換をすでにしていたのだ。そしてブロードもまた、アカツキ経由でその話を聞いていた。だからこそ、彼は今このタイミングでこの話を切り出したわけだ……が。
「そのときはまたレイズに護らせるだけだ。それに……はっきりと言うが、今の越警に預けたところで100%安全とは言えぬはずだ。なにせそっちもだいぶきな臭い状況になっておるのだろう? だからこそおぬしもあくまで『越境警護隊』ではなく『ブロード』として、こうして個人的に”お願い”をしてきているわけだ」
アカツキの瞳がブロードを見透かす。研ぎ澄まされた一閃のように鋭く静かな視線を受けて、ブロードの目がわずかにそれた。
「……ウチを信用してもらえないのは僕らの不徳だ。君の経緯を考えれば、なおさらしょうがないことだとも思う。だけど、それでも僕らの仕事は……」
「分かっておる。組織がどうであれおぬしは信用しているし、諸々を考慮したとてやはりおぬしに預けるのが1番安全なのだろう。今のニア殿は、戦をあまりにも知らなさ過ぎるしな」
「だったら!」
「だがなブロード。ニア殿の運命を決めるのは、やはり拙者たちではないと思うのだ」
アカツキはまっすぐにブロードを見つめ、そして微笑んだ。
だがそれと対照的に、ブロードは苦々しげな表情を浮かべている。
「……君は同情してるのか? ニルヴェア様に。彼女の生い立ちは少し――」
「違うと言っておろう。決めるのは我らでも、ましてやニア殿自身でもない」
アカツキはブロードの言葉を遮って、断言する。
「それを決めるのはレイズ、我が弟子だ」
「……は?」
「ふふふ、実はおぬしに内緒にしていたことがひとつあってな?」
「は??」
困惑するブロードの眼前、アカツキの表情はすでに変わっていた。ほのかな微笑みから、胡散臭いニヤつきへと。
「昨晩レイズと情報交換したついでに聞いたのだがな。なにがどうしてそうなったのか、あやつはニア殿と約束を結んだらしいのだ」
「約束……?」
「そう。ニア殿をこれからの旅に連れていくべきか、否か。それを測るためにひとつ試験を行うとな……おそらく今頃、その真っ最中なのであろうな」
アカツキは目を細めて、割れた窓から差し込む太陽の光を楽しげに眺めていた。
だがその一方で、ブロードの困惑はさらに深まっていた。
「いや試験って……相手は貴族様だろ? しかもブレイゼル本家ならともかく、分家は戦いが許されずほぼ軟禁状態とも聞いてるし。そんな子が、内容がなんであれ君たちナガレの言う試験とやらを突破できるとは思えないけど……」
それは至極真っ当な意見であったが、それでもアカツキは逆に一層笑みを深めて。
「ふふふ。そうかもしれぬが、そうでないかもしれぬ。一度脱がしてみたのだが、中々悪くない体つきだったぞ? 色んな意味で」
「脱がしてみたって、君、立場とか、ていうか倫理的に……いや違う。今言うべきはそうじゃなくてだな……要はあれか。その試験の結果次第で、ニルヴェア様を僕に預けてくれる。そういうことでいいのかな」
「その通り! と、いうわけで……ニア殿がレイズの試験を突破するかどうかに、今夜の1杯でも賭けぬか?」
「はぁ?」
「拙者は当然、突破することに賭けるし、おぬしは……やはり突破できないことに賭けるのでござろう?」
アカツキはそう決めこんだが、その予想に反してブロードはなにやら考えこむ様子を見せた。
「おや?」
アカツキが首をかしげたその直後、ブロードはようやく口を開く、が。
「結局さ、君はなにを期待してるの?」
「妙な質問だな……『ニア殿が試験を突破すること』では不服か?」
「うーん。ちょっと言葉にしづらいんだけど、そうだな……たぶん、期待してる対象が違うんじゃない? いや、本当にニルヴェア様に期待してる部分もあるんだろうけどさ」
「と、いうと?」
「君の本命……それはあくまでも『レイズ君が、ニルヴェア様を認めること』。もっと具体的に言えばニルヴェア様をぶつけることで、レイズ君のなにかしらが変わることに期待してるんじゃない? まぁ僕はレイズ君と面識がないから、具体的にどうとまでは言えないけどさ」
そんなブロードの推理に……アカツキは目を丸くして、驚きの表情を見せていた。
「お、珍しい顔。もしかしてわりといい線いってた?」
「ふっ、やはりおぬしは鋭いな。しかしそれは理屈による推察か? それとも単なる直感なのか?」
「推察4割、直感6割ぐらいかな。ほら、君は世話焼きだから弟子のこともずいぶんと気にかけてるんじゃないかなーっていう思い込みと、まーあとは適当に」
「世話焼きなぁ……そんな大したものではないよ。からかい甲斐のある少年に面白おかしくちょっかいをかけたい。そんな遊び心というやつだ」
「遊び心、ねぇ……」
ブロードがなにやら考え始めた一方、アカツキは遠くから響いてくる音に気がついた。
「む、足音が近づいてきたな。おそらく自警団のものだな……話の続きはまたあとにするか」
「へ? 僕には何も聞こえないけど、どんな耳してるんだ君は……」
呆れたブロードを尻目に、アカツキは割れた窓から逃げようと歩き始めた。だが、
「ちょっと待って、今決めた!」
「む?」
アカツキが振り返ると、ブロードは楽しげな笑みを浮かべていた。
「僕も、試験を突破する方に賭けるよ」
「はぁ? それでは賭けにならぬぞ」
「それじゃ、お祝いで1杯奢ってやる。もちろん職業柄としては良くないし、僕としても預けてほしい気持ちは変わらないんだけど……それはそれとして、ね?」
「……まぁ奢って貰えるならなんでもよいが、しかしどういう風の吹き回しだ?」
「さーてね。それより早く行ったら?」
「なんだ、そういう意味深なのは拙者の特権だぞ……などと、さすがに言っている場合ではないか。ではまたあとでな」
アカツキはひょいっと一跳び。それだけで窓を飛び越えて建物を抜けだした。
その直後、ブロードの耳にも音が届いた。どたどたと床を踏むいくつもの足音が。
「うわ、本当に来たよ……」
ブロードは侍の聴覚に顔を引きつらせて、しかしそれからそっと目を細めて懐かしんだ。それはすっかり思い出となった、いつかの出会いであった。
――なぜ僕を助けた! 僕はお前を捕まえようとしたんだぞ!? それにお前は主人殺しの大罪人じゃ……!
――誰よりも情と義に厚く、どんなときでも揺るがぬ信念を刃に込めて。それが姫様の望んだ侍でござる。ゆえに拙者はおぬしを助けた……姫様に仕えし正義の侍としてな
アカツキが逃げた窓の外。そこから入り込む陽光に向かって、ブロードはそっと呟く。
「ほんと、いつだって世話焼きなんだからさ」
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