海月は月に恋をした

ぴよこ

第1話


 君はクラゲを知っているだろうか。海の中を泳ぐ、半透明なあの者を。

 君はクラゲを海月と表す本当の理由を知っているだろうか。海に住んでいるから?月と似ているから?

 それは正解のようで不正解。元々クラゲと月が似ていたのではない。

 クラゲは月に恋をしたのだ。



 海月は月に恋をした

 それでは始めよう、彼と月のお話を



 深い深い海の中で、僕は生まれた。

 そこに身体はなかったけれど、水の中にいるという意識だけが、僕が僕であるという不動の証明だった。

 せっかく生まれてきたというのに、僕は何者にもなれずに、暗い海の中を一人ぷかぷかとさまよっていた。

 何者にもなれない、けれどそれは何者にもなれることと同じ意だ。僕はまだ、生まれたての赤子だから。一体何になろうか、そう考え出すと限りがなくて、海の指し示す淡い流れにそっと身を任せ思考を閉じた。

 退屈だなぁ、なんて意識を水面へ向けた時。


 ぽちゃん、と。

 僕の透明な心が、一瞬で、夜空に溶ける音がした。


 美しいだとか綺麗だとか、そんな薄っぺらい言葉じゃ表せられない。それは、そう、僕にとっての、たった一つの世界だった。


 僕は彼女に近づきたくて、どうしても彼女に見てもらいたくて、もっと、もっと。ない身体を必死に曲げたり伸ばしたり。あれもこれもまだ違う、もうちょっと。

 君の心臓は、一体どこにあるのかな。


 彼女を追い続けてからしばらく経って、僕は彼女の名を耳にする。

 月。それが、僕の世界の名前だった。たった二文字で表されたその名前はどこか儚く、掴んでいないと消えてしまいそうな脆さがあった。


 彼女は少し起伏が激しくて、毎日違う表情を僕に魅せた。

 新月に三日月、朧月。まだまだたくさんあるけれど、僕は初めて君を見た時の、あの満月の表情が一番好きだった。何にも侵されない、侵すことなどできない、凛とした君が好きだった。

 一点の曇りもない、触れることさえ躊躇してしまうような気迫がありながら、どこをついても刺はなく。

 大きくて、大きくて、恐ろしいほど端麗なのに、何もかもを包み込んでしまうほどの優しさがあって。


 一滴だけでいい、君の落とす涙が欲しい。

 きらきらと輝く月の涙は、どんな願い事でも一つだけ叶えてくれる。いつかどこかで聞いたそんな噂話を、僕は心のどこかで信じていたのだ。

 なんて馬鹿らしいと海は笑ったけれど、月は僕をちゃんと見つけてくれていた。

 海よりも深い愛を、空にまぁるく描き出して。


 ぽちゃん、と。

 今度は僕と君の心臓が、一つに交わる音がした。


 やっと僕ができた時、人は僕を海月と呼んだ。



「クラゲは海のお月さまになったんだね!」

 無邪気に笑う愛娘の頬に触れ、そうだよと絵本を閉じる。カーテンの隙間から覗く満月の夜に、おやすみの吐息を混ぜた。


「君は知ってしまった、クラゲが月に恋したことを」

 一番最後のページに書かれたはずの一文を、娘の寝顔にそっと預ける。

 パチリと部屋の電気を消せば、月の淡い光だけが優しく二人を包んでいた。

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海月は月に恋をした ぴよこ @piyopiyofantasy

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