第9話 思い出5
「手袋、落としたよ」
優しい、小鳥の鳴き声のような声に、あたしは振り向いた。その先では、見たことのない子どもが、あたしの手袋を持っていた。
「はい」
差し出された手袋を受け取る。顔を上げて、彼の顔を見る。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「……あんた、肌白いのね。雪みたい」
「え、そうかな?」
「雪だるまみたい」
「雪だるまじゃないよ。ぼく、人間さ」
「……ここに住んでるの?」
「うん。お父さんの仕事の手伝いをしてるんだ」
「……ふーん」
「じゃ、ぼく、これで」
あたしは彼のコートの袖をつまんだ。
「待って」
「え?」
彼が立ち止まったから、あたしは彼から手を離さなかった。じっと彼を見つめて、言った。
「あそんで」
「え?」
「あたしヒマなの。付き合ってあげるから、あそんで」
ほんとうはいけないの。
何も用がないのに庶民と口をきくなんて、貴族としてルール破りなの。
でももう、耐えられなかった。
だれでも良かった。
「あそんで」
「あの…」
「あたしとあそんで」
黒い瞳があたしを見つめる。
あたしの目が、彼を見つめた。
そしたら、彼が、静かに、あたしに提案してみた。
「……雪だるまでも、作ってみる?」
あたしは首を傾げて、彼を見た。
「作れるの?」
「二人でやれば、大きいのが出来ると思うよ」
「……あたし、雪だるま作ったことない」
「え?」
「お下品だからやめなさいって、ママが言うから」
「そっか、じゃあ」
「でもいいわ」
あたしはうなずいた。
「作り方教えて」
「うん。いいよ」
「……ねえ、名前なんて言うの?」
「ニクスだよ」
「ニクス」
あたしはつい、笑った。
「名前も雪みたい」
「そうかな」
「いいわ。ニクス。気に入った。あんたかわいい顔してるし、あたしが今日一日あそんであげる。感謝してよね」
「きいてもいい? 君の名前は?」
「テリー」
「テリーの花。花の名前か。いいな。きれいな名前だね」
ニクスがあたしにほほえんだ。だからあたしはきょとんとした。だって、あたしに純粋な笑顔を向ける人なんて、メニーくらいだったから。
「テリー、行こう。暗くならないうちに」
「うん」
おもむろに、ニクスがあたしの手を握った。
「きゃっ!」
あたしは声を出す。今度はニクスがきょとんとした。
「あ、ごめんね。痛かった?」
「い、痛くない」
そうじゃなくて、
「手」
「え?」
「あの」
「え?」
「だから」
手、
「………家族以外の誰かと、繋いだこと、ない、から…」
ニクスがぽかんとした。
「別に、平気だけど? 何ともないけど?」
だけど、
「人前で、手を繋ぐなんて、はしたな…」
「なに言ってるの」
ニクスは優しくほほえんだ。
「いっぱい繋ごうよ」
そう言って、小さな手袋があたしの手袋を握った。
「おいで」
ニクスがあたしの手を握って、引っ張る。あたしはニクスに引っ張られて、足を滑らせながら、ニクスと走った。
それからあたしはニクスとあそぶようになった。あそぶ場所は決まってなかった。待ち合わせは噴水前だった。あたしとニクスが出会った時間に待ち合わせするの。二人が会えば、いっしょに街を駈けていくの。
「テリー! 数えるよー!」
「うん!」
「いーち! にーい!」
ニクスはかくれんぼが上手なの。へたくそなあたしは、いつだってすぐにニクスに見つかった。
「雪のなかに隠れたのに見つかっちゃった。ニクスったらズルしたんじゃないの?」
「さーあ? どうかな?」
「したんでしょ!」
「うふふ!」
「まって! うふふっ! ニクス!」
きっかけは忘れたけど、待ち合わせる時間が夜になった。あたしは夜中に屋敷から抜け出して、ニクスと雪の王国であそぶようになった。安心して。バレないように戸締まりをきちんとしてるの。ドアはきちんと鍵がかかってる。だから、ぜったいにバレはしないわ。
「今日は雪だるまつくろう!」
「勝負よ! あたし、大きいのをつくるんだから!」
今夜もあそぶの。
「大丈夫だよ。テリー。すべれてるよ」
「ぜったい手はなさないでね!」
今夜もあそぶの。
「メニー!」
「ごめんなさい」
叱られるメニーを見る。
「申し訳ございません。お母さま」
「罰として広間の掃除をなさい」
「昨日したばかり……」
「おだまり!」
メニーが暗い顔をしている。
あたしは、たすけられない。
なにもできない。ママには逆らえない。この家ではママが絶対だ。
今夜もニクスと雪の王国でかまくらをつくる。
「……」
「……テリー?」
ニクスが声をかけてきた。
「今日は、なんだか元気がないみたいだけど、どうしたの?」
「……なんか、つまんない」
「……そうだね」
ニクスが作業をやめた。
「テリー、なかに入って、今日はお話しようよ」
「……うん」
寒い夜、あたしとニクスは小さな小さなかまくらのなかに入って、身を寄せあって、しばらくだまってた。それで、つまらなくなって、なんとなくあたしから口をひらいた。
「あたしの家族はね、みんな、仲悪いの」
ニクスはだまって、あたしの話をきいてくれた。
「ママはいっつもイライラしてる。姉のアメリは嫌味っぽいし、家庭教師の先生はいっつも厳しい。怒ってばかり。ヴァイオリンも楽しくない。屋敷内の空気はいつもぴりぴりしてる。……そんな家にいたくない」
あたしはひざを抱いた。
「あたし、もうこんなところにいたくない」
そう言うと、ニクスはしばらくだまって、にこりとほほえんで、あたしの手を握って言った。
「じゃあ、おまじないをしてあげる」
「おまじない?」
「願って。テリー。君の願いは……一番の願いはなに?」
「そうね。王子さまと結婚することかしら」
「それから?」
「一人であの家を出るわ」
「ふふっ。うそつき」
「なによ」
「だって、君、言ってたじゃないか。家には大事な妹がいるって。いっしょに連れていくんでしょ?」
「なにそれ。そんなこと言ってない」
「ふふっ。君はうそが下手だね」
「うるさいわね。ニクスのくせに生意気よ」
「テリー、君は」
ニクスは、笑ってこう言うの。
「プリンセスになったら、その力で、妹さんを、助けようとしてるんだね。確かに、君にとってその妹さんは邪魔な存在なのかもしれない。だから、君の言う通り、同情でそんなことを思っているのかも。……でも、それでもいいと思う。君が助けたいと思ってる妹さんは、きっとその想いに気づいてくれるよ。大丈夫。君は一人じゃない」
あたしには、
「ぼくがいる」
ニクスがあたしにおまじないをかけた。
「いたいの、いたいの、飛んでいけ」
あたしは鼻で笑った。
「ニクスはあたしのしもべよ」
「うん」
「世話係として働くのよ」
「わかってる」
「毎日あたしの面倒を見るんだからね」
「うん。見るよ」
「ニクスだけは特別よ」
「うん。ありがとう」
「あたし、あんたのこと気に入ってるの。喜びなさい」
「うん、ぼくも、テリーが好きだよ」
「ニクス」
ニクスを見つめる。
「……ほんとう?」
「ん?」
「あたしのこと、ほんとうに好き?」
「好きだよ」
「でも、みんなはあたしをきらいって言うわ」
「でも、ぼくはテリーが好き」
「ほんとう?」
「うん。大好き」
「ニクス」
「うん」
「あたしもニクスが大好き」
「ぼくもテリーが大好き。両思いだね」
指を絡める。
「ニクス、ずっと友だちでいて」
「うん。ずっと友だちでいよう」
「ずっとそばにいて」
「うん。テリーのそばにいるよ」
「ニクス」
「テリー」
手を握り締める。
「ずっと一緒だよ」
ニクスがいれば、あたし、この先もなんとかなる気がしたの。
ニクスはあたしのはじめての友だちで、あたしがはじめて悩みを打ち明けられた人物でもあったの。
将来、あたしはリオンさまと結婚する。
でも、彼も連れていくわ。
ニクスは貧乏だから、あたしのしもべとして、たくさんこき使ってやるの!
「テリー、星がきれいだね」
ニクス。
「テリー、明日もあそぼうね」
ニクス。
「宝物を見せてあげる」
「ニクスったらまだかしら?」
あたしは氷の上を滑る。
「ちょっと早すぎちゃったのかも」
氷の上を滑って、ニクスを待ってたら、あたしは見つけたの。
「あれ?」
そこに、カバンと、箱。箱から転がったと思われる汚い石が並んでいた。
「あれ、これ、ニクスのカバンだ」
あたしはしゃがんで、ニクスのカバンを見た。
「なんだ。ニクス、もう来てるんじゃない」
あたしはカバンを見下ろしたと同時に、――氷のなかに、なにかが沈んでるのが見えた。
「うん? なにこれ」
あたしはそれをじっと見た。
「……」
それは、見てはいけないものだった。
「ニクスー!」
顔を上げて、大声で呼んだ。
「ニクスー!」
ニクス、まだかな。
「驚かそうったって、そうはいかないんだからー!」
きっとかくれてるんだわ。
「ニクスー!」
あたしはその場をうろうろした。
「ニクスー! どこにいるのー?」
カバンの周りを回るようにすべってニクスを呼ぶの。
「ニクスー!!」
お願い。早く来て。
「ニクスー!」
今日もくるでしょう?
「ニクス!」
お願い。
「ニクス!!」
寒い。
「ニクス!!!」
あなたがいない夜が来るはずない。
「急にインフルエンザだなんて」
ママがあたしの頭をやさしくなでた。
「今日は大人しく寝ているのよ」
「メニーを呼んで」
「メニーは忙しいの。家のことをしなきゃいけな……」
「他の使用人がいるでしょ! メニーを呼んで!! はやく!!」
一日、メニーはあたしの世話係になった。あたしは紙を渡した。
「おつかいにいってきて」
「おつかい?」
「警察官にきいてきて。ニクス・サルジュ・ネージュっていう男の子を見てないかって」
「ニクス……?」
「早く行ってきて! ママにサボってるって言うわよ!」
ニクスはいない。
「あの、ニクス・サルジュ・ネージュって、男の子を知りませんか?」
「今調べてみたら、半年前から行方不明になってる子だね。お友だちかい?」
「半年前……?」
「おじさんたちもさがしてみるから、今日は帰りなさい。大丈夫。必ず見つけるよ」
雪の王国に、もう荷物はない。
あたしは荷物をさがしたけれど、ニクスのカバンはどこにもなかった。
「ニクス……」
もうどこにもいない。
「ニクス」
だれもたすけてくれない。
「ニクス……」
ニクスも消えた。
君にはぼくがいるって言ってたくせに。
うそつき。
「うそつき……」
「ニクスのうそつき」
「きらい」
「ニクスなんてきらい」
「裏切り者」
「きらい」
「うそつき」
「うそつき」
「お前なんてくたばればいいのよ」
全身から怒りに包まれた気がした。
「きらい。ニクスなんてきらい」
散々期待させておいて、結局消える。
「うそつき」
「うそつき」
「うそつき」
「ニクスのうそつき!」
「大きらいよ!!!」
全部こわれてしまえ。
「メニーーーーーーーーーーーーー!!!」
思い出を全部憎しみに変えてしまえ。
怒りと悲しみと恨みと憎しみと苦しみ、すべてを抱えよう。
「おねえさ……」
「お姉さまって言わないで! この奴隷が!」
あたしは物をこわす。
「ママ! メニーが部屋で大暴れして、あたしのツボを割ったわ!」
ママも、残ってる使用人もみんなわかってた。暴れたのはあたしだって。壊したのはあたしだって。でも、あたしはママの大事な娘だから、だれも叱らないし、説教もしてこない。
「メニー、こっちに来なさい」
ムチを打たれるのは無知なメニー。
「ママー! またメニーが!」
あたしは暴れまわる。
「あはははは! 見て! テリー! メニーがまたボロボロのドレス着てる!」
「きゃははははは!!」
あたしは笑い飛ばす。ぜんぶぜんぶこわれたらいい。時間も、この屋敷も、ママもアメリもぜんぶぜんぶこわれてしまえ。
「もう少しで仮面舞踏会です。デビュタントの前の予行練習として参加なさい」
「わたしも行きたいです」
メニーが言った。
「お願いです。行かせてください」
「きゃはは!」
きいてたアメリが笑った。
「きいた? テリー。メニーには履く靴もないし、着るドレスもないし、それにダンスもできないじゃない。それなのに、仮面舞踏会に行きたいんだって!」
「うふふふふ!」
「……ドレスならあります」
メニーがか細い声で言った。
「お母さんのドレスが残ってて……」
メニーが必死な顔で言った。
「そのドレスでおどることが憧れだったんです。お願いです。連れて行ってください」
「いいでしょう」
ママの返答にあたしとアメリがびっくりした。今、ママがOKしたわ!
「それじゃあ、メニー、このお皿のなかに入ったエンドウまめ、これを灰の山のなかになげるから、二時間以内にぜんぶ拾い集めなさい。そうしたら、考えてあげてもいいわ」
(えっ)
そう言うと、ママはほんとうに灰のなかにエンドウまめをぶちまけた。
「じゃあ、がんばってね」
ママが意地悪な笑みを浮かべて、部屋から出ていった。メニーは必死にエンドウ豆を集める。アメリもその様子をクスクス笑いながら部屋から出ていった。
あたしはメニーがエンドウ豆を拾う姿を見ながら離れた。そして、裏庭へと行った。ぼろぼろになった仕掛けを見る。ロープは半年前にちぎれて、もう木の上にあるバスケットを取ることはできない。
「……ゆすってゆすって、若い木さん」
あたしは小さな声で唄った。
「やさしいハトさん、スズメさん、お空にいる鳥さんたち、みんなきて、メニーがまめを拾うのを手伝って。良いものはハチのなかへ。だめなのは食べちゃって」
でも、この木は魔法の木ではない。だれもこない。メニーにも、あたしにも、だれにもたすけは来ない。
(メニー、まだ拾ってるかしら)
本のなかのヒロインがここにいれば、間違いなくメニーを助けただろう。本のなかのヒロインにはいつだって勇気と愛があって、どんなにママが怖くたってメニーを助けだせるのだ。
(でも、あたしにはむり)
だって、あたしには関係ないんだもの。
(行きたいって言ったのはメニーなんだから、メニーががんばらないと)
メニーは今も必死にエンドウ豆を灰の山から拾っている。
(あたしには関係ない)
あたしはハシバミの木から離れる。
(関係ない)
部屋にもどって、リオンさまの写真を見つめる。
(あたしには関係ない)
メニーは灰だらけになる。でも関係ない。あたしにはなにもできない。ママがそれで許すって言うなら、がんばれば?
あたしを巻き込まないで。
「ねえ、テリー。メニーのドレスを見つけたわ」
アメリが部屋に来た。
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