第1話 恋人とのひととき(1)


 大海原が太陽の光によってかがやきを放つ。数羽のカモメが空をとび、ゆらゆらと揺れているように見える。その様子を眺めていれば、ふわりと風がふいて、あたしの前髪がなびいた。あたしは即座に被っていた帽子を押さえると、となりにいた彼女も髪の毛を押さえ、はっとなにかに気づき、指をさした。


「あれ見て。ダーリン」


 指をさされた方向に目を向けてみると、ヨットがすずしそうに海にうかんでいる。ヨットに乗った男がのんびりとパイプをくわえていた。


「お風呂のおもちゃみたい」


 彼女がクスクス笑いながら言った。あたしもそれをきいて、たしかに、と思った。そして、また遠くまで広がる海を眺めていると、その手前の砂浜から、なにかがぴょこっと顔を出した。


「ん。なんだ、あれ」


 あたしの手から離れ、彼女が走っていき、そのものの正体を確認した。


「カニだ!」


 逃げるカニを全速力でわざわざ追いかけ始める。


「こいつ逃げ足が速いな! ダーリンみたいだ! ぎゃはははは! ほらほら! その程度か! はぁーはっはっはっはっ!!」


 カニはなんともいえない顔で、変な女から逃れようと海へともどっていった。彼女はカニの背中を手をふって見届け、ふと、自分の足元を見た。海の波が行ったり、来たり。さるもの追うべからず。しかし、また戻ってくるのであれば、蹴飛ばしてみようと、彼女は波を蹴飛ばした。


 波が弾け、彼女はまたクスクス笑った。


「ダーリン!」


 あたしに手をふる。


「ダーリンも来て!」


 あたしは首をふった。ここでいい。


「ダーリン! ねえ!」


 むっ! とむくれていく彼女を見て、ため息をつきながらあたしは砂浜に移動を始めた。砂浜を歩けば、彼女はまたにっこり笑って、ふたたび海の波を蹴飛ばし始めた。

 海の波が行ったり来たり。去ったり戻ったり。

 彼女のそばまで近づくと、足で蹴飛ばし、水をかけてきた。


「うら!」


 ブーツがぬれた。あたしは彼女をにらんだ。彼女はぷーくすくす! と笑い、走り出した。


「ムカつくなら捕まえてみろ!」


 あたしは荷物を投げ、殺気を放ち、全速力で仕留めに行った。彼女は優雅に笑いながら走り出す。あたしはひとみをぎらぎらさせて、殺してやるいきおいで彼女を追いかける。しかし、あたしはすぐに体力がなくなって、その場で膝に手をおいて呼吸をくり返し、また荷物を投げた場所までもどり、荷物を持った。


 彼女は追いかけてこないあたしに気づき、またぷーくすくすと笑いながら、とことこ歩いてもどってきた。


「ほら、ダーリン。目の前までもどってきてやったぞ。ほれ、捕まえてみろ」


 あたしは彼女をぎろりとにらんだ。


「にらむな。足のおそいお前が悪いのではないか」


 あたしは彼女の体に抱きついた。はい。つかまえた。


「っ」


 背の高い彼女がぴたりと固まり、息を止め、しばらく思考を停止させてから、間を置いて、ゆっくりとあたしを抱きしめ返した。


「……つかまっちゃった……」


 うれしそうにつぶやき、あたしに頭をぐりぐり押しつけてくる。


「ダーリン、キスして」

「……」

「大丈夫。だれも気づかないから」

「……かがんで」

「……うん」


 あたしは彼女の長い髪の毛をひっぱり、にやけながらかがんできた彼女のくちびるに、自分のくちびるを重ね合わせた。風がそよぎ、美しい髪の毛も、黒に近い青いひとみも、本物のクリスタルのようにかがやいて見える。


「……」


 ふと、気づいた。彼女の手があたしの腰をつかんでいることに。


(ん)


 うしろに下がろうとするが、頭を押さえられている。離れられない。


「ん、んぐ」


 彼女が口の中で、舌を動かし、ぺろぺろとなめてくる。あたしはより顔をしかめ、うしろに下がった。


「ん、んん! ん!」


 彼女の背中をたたく。すごくたたく。おい! 息! 呼吸! 苦しい! おい!

 手が離れ、ようやく肺に酸素がもどった。


「ぶはっ!!」

「ダーリン、もう一回。ん」

「てめえ、よくも口のなかでぺろぺろしてくれたわね……」

「ダーリンの歯ぐき大好き」

「るせえ!」


 ぎゅっ! と腰を強く掴めば、彼女がまたうれしそうに顔を赤らめて、にやけだす。


「あっ! ダーリンったら、強引なんだから、もう、……大好き」

「もう行くわよ。むこうに蛇口があるから、足洗ってきなさい」

「このまま洗わずにいたらどうなるだろうか。人魚に変わるかな?」


(いやなこと思い出させるな)


 半年前のバカンスを思い出し、あたしは彼女の背中を叩いた。


「バカなこと言ってないで、早く行って」

「はーい」


 彼女が足の洗い場に走っていく。そのうしろすがたがまた可憐であった。だから首に下げてたカメラを構え、ぱしゃりと一枚撮ってみた。ぼやけてるかもしれない。こればかりは現像しないとわからない。


 さて、あたしも彼女を追いかけようと顔を上げると、思わずまゆをひそめた。遠くにいた男たちが彼女に近づいてきたのだ。いやな予感は的中するもの。案の定、声をかけられやがった。


「レディ、すごく綺麗だね」

「どこから来たの?」

「一人?」

「おれたちも旅行でさ、よかったらいっしょにいい思い出でも……」


 あたしは洗い場まで早急に走り、落ちてたホースを拾い、蛇口に設置し、男たちに向かって鋭い水を発射させた。


「「うわぁー!!」」


 彼女の足の砂をさっさと洗い流し、サンダルを履かせ、手を取ってそそくさと歩いていく。うしろからは笑い声。


「ぎゃはは! びしょ濡れだぜ!」

「おい! ブラザー! なにするんだよ!」

「かわいい彼女を独り占めってか!?」

「ひゅー! ひゅー!」

「ごめんなさーい!」


 ひっぱられながらとなりを歩く彼女がケタケタ笑いながら男たちに叫んだ。


「あたくしのダーリン、すっごくヤキモチ妬きなのー! 許してねー!」

「なにがヤキモチ妬きよ……」


 あたしは帽子を深く被った。


「あんた、お忍びで来てること、忘れてないでしょうね」

「お前みたいに変にかまえてるからバレるんだ。普通に堂々としていればバレはしない。それに、あたくしを知る者などだれ一人いないのだからな」

「ああ、そうよね。あんたはいいわよね。さわやかなワンピース着てかわいい身振りでアホな顔して笑ってたら下心丸見えの男が寄ってきて」

「いやだわ。ダーリンったら、すねちゃって」


 彼女があたしを抱きしめた。


「あたくしは、ダーリン一筋よ。お前しか見えないんだから」

「うるせえ。おだまり。このペテン師」

「たまには逆もいいじゃないか。守る方も守られる方も。さっきのお前はまさに復讐を誓った相手を討伐する騎士のようだったぞ」

「なにが言いたいのよ」

「つまり」


 クレアの目玉が動いた。


「その格好もなかなか似合ってるぞ。テリー」


 男装をしたあたしを見下ろして、クレアがふふっと笑う。


「うつむいてないで景色を楽しめ。なかなか興味深いものだらけだぞ」

「油断しないで。いつどこで記者に見つかるかわからないでしょ。ぱしゃりと撮られたらどうするのよ」

「そのための変装だろ。大丈夫だ。楽しめ」


(お前はいつだって油断しすぎなのよ。あのね、将来王様になりたいなら常に緊張と威厳をもちなさい。わかってる?)


「あ、あれ見て。テリー」

「え?」


 ふりむくと、クレアとくちびるが重なった。近くで見てた学生の一人が、爆発しやがれ畜生! と叫んで爆発して空に飛んでいったという走馬灯を見たようだ。さて、旅行のつづきをしよう。あ、フレンドたち待ってくれよ!


「……ほら、バレない」


 クレアが無邪気に笑う。太陽とかがやく青い目がまぶしくて、目を細める。


「ダーリン、あたくし、お腹がすいた」


 あたしの腕を掴んで、ゆっくり歩き出す。


「どこかでなにか食べたいわ」


 白いワンピースと、偽の長い髪の毛が揺れる。


「ダーリンは?」

「……賛成」

「よし、きた。行くぞ。さて、なにを食べようかな」


 ショーウィンドウからレストランのなかをのぞき、でもせっかくだから食べ歩こうという意見になって、通りの店を片っ端から攻略していく。


「あたくし、カレー味」

「……ミートソース」


 違う味をえらんで、はんぶんこ。


「あたくし、チーズ入り」

「……ハム入り」


 違う味をえらんで、はんぶんこ。


「……ハニー、ついてる」

「ん? どこ?」

「ここ」


 口元についた欠片を取って、あたしがその指をくわえてなめる。


(子どもか)


「ハニー、次、あっち」


 クレアがだまった。


「……?」


 見上げると、クレアがうつむき、あたしから目を逸らし、……耳まで赤くなっていた。


「……なんか」


 クレアがつぶやいた。


「今の、恋人みたい」


 あたしはきょとんとして、まばたきし、まゆをひそめた。


「……今さら、なに言ってるの?」


 クレアが食べていたパンを思いきり口周りにつけた。


(あん?)


「やだわ! ダーリン! いっぱいついちゃった!」


 口周りがケチャップだらけのクレアが目をキラキラさせてあたしを見た。


「よごれちゃった。ね、取って? ん!」

「子どもか」


 あたしはハンカチでクレアの唇をぬぐった。


「はい」

「……」

「……なんでむくれてるのよ」

「……こういうときは舐めて取るんだぞ……」

「あんたね、人前でそんなことするわけないでしょ。バカじゃないの」

「……」

「むくれないで行くわよ。ほら」

「女言葉を使うなんてダーリンは変な奴だな。お前、さてはオカマだな?」

「……」

「……」

「……行こう。ハニー」

「……」


 クレアが頬を赤らめた。


「はい、ダーリン」


 うれしそうにあたしと手をにぎって、ワンピースをひるがえして、また歩き出す。


(そうよね。女の子みたいな女の子に憧れてたんだもんね)


 高さのあるブーツを履いてきて正解だった。


(手も繋げるし、腕も組ませてあげられる)


 足元を見れば、かわいらしいサンダルとあたしのブーツが並んで歩いている。


(……ここだけみたら、あたし、ほんとうに男みたい……)


「んふふっ。なかなかうまいな。さて、次はなにを食べようか」


(……楽しそうね。……あ)


 石でできたオブジェがある。


「クレア、あれ」

「ん。石なんか食えんぞ」


 看板を二人でのぞきこむ。ここで写真を撮った恋人は末永く幸せになれるらしい。


「よし、きた!!!!」


 クレアが目をキラッキラにかがやかせ、あたしの首にぶら下がったカメラを奪い、通りすがりの人に声をかけた。


「すみません。そこのお兄さん、このカメラで撮ってくださるかしら」

「ああ、いいですよ」

「ダーリン! 撮ってくれるって! ほら、並んで! 早く!」


(……ん?)


 この小さな柵のレンガ、登れる。……ふーん。


「ハニー、ここに立って」

「ここか? いいぞ」


 あたしがレンガに登れば、クレアよりも背が高くなった。


(あ、いけそう)


 そのまま、うしろからクレアを抱きしめた。


「っ」

「お願いします」

「撮りますよー!」


 やさしそうな青年がカメラをかまえた。


「チーズのチー!」

「チー」


 ぱしゃり。もう一回ぱしゃり。あたしはクレアを離し、レンガの柵から下りて、カメラを受け取りに走った。


「ありがとうございました」

「とんでもないです。……お二人で旅行ですか?」

「ええ」

「彼女さん、とても綺麗ですね。良い旅を」

「……どうも」


 カメラを返してもらい、ふり返る。


「ハニー、いくぞ」


 クレアがうつむいて動かない。


「……クレア?」


 下からクレアの顔をのぞきこめば、その顔がおかしくて、つい、あたしがにやけてしまう。


「何度もやってるくせに」

「……される側になったことはない。……それも……女として……」


 もはや茹でだこ状態のクレアに、あたしの胸がきゅんと鳴った。


「……まだ回るんでしょ」


 クレアがこくりとうなずいた。


「……ん」

「行こう。ハニー」


 普段とは真逆。あたしが男っぽいしゃべりかたで、クレアの手を取って、先に歩く。人から見たら、背の低い男が背の高い美人を連れ歩いてるように見えるだろう。


(どっちも女の子なんて思わないわよね)


「……」


 にぎりしめる手は、細くて、長くて、正真正銘の女の子の手。普段は剣をにぎり、銃をぶっ放すが、今だけは、普通のかわいい女の子の手。


(……爪も塗って、おしゃれさんね)


 いつもとちがって、すみずみまでかわいらしくおめかししてる。


(写真が楽しみだわ。あたし、美人に写ってるといいけど)


 ――その時、時計の鐘が鳴った。


「っ」


 あたしは息をのんで時計を見上げる。

 13時。


「……」


 思わず、足が止まる。


「ん」


 クレアも時計を見上げた。


「13時か。早いな」

「……」

「しかし、観光地はまだ残ってる。行こう。ダーリン」

「……クレア」

「ん?」

「キスしていい?」

「んっ」


 クレアがきょろきょろとまわりを見た。道では人が歩いている。


「ここで?」

「だめ?」

「……ん」


 クレアが身をかがませ、あたしはかかとをあげて、クレアにだきついて、くちびるを押し当てるだけのキスをした。

 歩く人々は、あたしたちを男女のカップルだと思って気に留めない。

 女同士だったならばどうだろう。興味本位で見てくるだろうか。

 この国では同性愛が認められているとはいえ、同性を好きになる人間は異性を好きになる人間と比べて少ないし、とある宗教では同性愛は重罪で禁止とされていたこともある。その歴史が長かったことにより、偏見をもっている者は多いだろう。人の道を外してると考える人までいる始末だ。


(人間が人間を好きになる)


 なにも変じゃないのに、なぜか知られてはいけないうしろめたさを感じる。

 ときどき思う。

 あたしが男だったら、堂々とクレアと歩けたのにって。


(でも、あたしは女であることを後悔してない)

(クレアも自分が男として生まれてこなかったことに後悔したことはない)

(あたしは女でよかったし、クレアも女でよかったと思ってる)

(あたしは今でも男が好きだし、クレアも何度も恋に落ちてしまう恐れがあったほど男が好き)

(ただ、恋人になった対象が女であっただけ)


 それはそんなに変なこと?

 人間がネコと恋をする。

 人間が犬と恋をする。

 人間が人間と恋をする。


 罪じゃないのはどれ?


(クレアの言う通りよ)


 生きてるんだもの。愛くらい芽生えるわ。愛の矛先は生き物によって違うだろう。家族であったり、友人であったり、他人であったり、自分であったり。


(あたしは)


 愛の矛先をクレアに向ける。

 くちびるがはなれたら、ぼうっとするクレアと見つめ合う。


「……ハニーからケチャップの味がする」

「……ダーリンからはベーコンの味がした」

「ん。……油が多くておいしかった」

「……ダーリン、……次はどこにいく?」

「……行きたいところある?」

「んー……」


 クレアが頬をあからめてほほえむ。


「ダーリンといっしょなら、どこでも」

「……向こうになにかありそう。見ていく?」

「うん」

「……行こう」

「……うん」


 クレアの手を握りしめて、あたしは時計から目をそらした。

 今日、愛する人となにごともなく無事に過ごせますように。

 今日が早く終わりますように。

 そう、願って。


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