第3話 霧に囲まれて(2)


「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 ソフィアが狙いを定めて急所を撃った。


「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 ソフィアが弾を変えて、また急所を撃った。


「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 ソフィアが集中した。どれだけ撃っても終わらない。これが中毒者ならば、いくら急所を撃ったって再生する。それはこの身で経験していること。わかっているからこそ、こいつの心を盗まない限り、テリーも自分もここから出られない。そんな気がした。


「ぎゃああああああああ!!」


 両肩を掴まれた。ソフィアが撃った。弾が貫通し、影の堪忍袋の緒がとうとう切れたのか、それとも追い詰めれているのか、イラついたようにソフィアの銃を叩き払った。


「っ」


 その銃があたしに飛んできた。


「あだっ!」


 頭に当たり、あたしは浅瀬に尻もちをついた。


「痛い!」


 ソフィアが濡れてる大きな手に頭を掴まれた。不気味な目と目が合う。


 ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああ!!


 ソフィアが集中する。今しかない。いつも当たり前のように使えるはずの催眠の目が、とても使いづらい。集中しないと催眠が出ていかない。ソフィアが集中する。瞬きをするのも忘れる。拳を握り、ぶるぶると体を震わせ、目の前にいる相手の目から侵入を試みる。相手が大きな声を上げる。鼓膜が破れそう。しかし気にしてる余裕はない。それくらい集中している。ソフィアが相手の瞳の奥へと入っていく。心を盗み出そうと歩いていると――あれ、なんだろう。こんなところに『楽譜』がある。ソフィアがそれを拾って眺め、顔を上げると、おっと、ビンゴ。ほらね、あった。見つけたよ。君の心だ。ソフィアが箱の蓋に手を触れた途端、その箱の蓋にもう一つ手が置かれた。


 ソフィアが顔を上げると、


 ――青い瞳がソフィアを見ていた。


「あなた、その力、そんなに使って大丈夫なの?」


 ――青い唇が笑う。


「人間のくせに、頑張るわね」


 ――青い爪がリズムを刻む。


「でもね、ほら、どんどん痛くなっていくでしょ?」


 ――だってそれは所詮、呪いの力。


「どんどん、痛くなっていく。どんどん、どんどん……」


 ――どんどん、ソフィアの目から赤い血が垂れた。途端に、目の奥が熱くなり、今まで感じた事のない痛みに、ソフィアが瞼を閉じた。


「っ!!!!」


 その瞬間、ソフィアが突き飛ばされる。


「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 ソフィアが目を開けようとすると、目と頭の奥に突き刺さるような痛みが起きて、ソフィアが唸る。目を開けられず、頭の中がパニックになった。パニックは命取りだ。それは怪盗時代に学んだ。何度危険な目に遭ったか。ソフィアは冷静を取り戻した。しかし影はその間に巨大な拳を上に掲げ、ソフィアがはっと顔を上げるのと同時に、それを振り落とした。


「っ!」


 ソフィアが声を出した。


「っ!」


 水の中から、ソフィアの声が聞こえる。


「ソフィア?」


 あたしは銃を構えて、何度目かの試みで水を撃ってみた。しかし、この水はびくともしないようだ。あたしは銃を下ろした。


「ソフィア!」


 中から、何かを叩いてるような鈍い音が聞こえる。


「ねえ! 何が起きてるの! ソフィア!」


 あたしはもう一度撃った。もう弾は残ってない。


(くそ)


 あたしは水の周りをうろうろするだけ。何も出来ない。


「ソフィア!」


 痛そうな音が永遠と続く。


(無事なのよね? ソフィア)


 拳銃で叩いてみるが、入れない。あたしは霧の景色を見回した。


(えーと……何かないかしら……)


 あたしはポーチバッグを漁ってみて……はっとした。


(あ!)


 ――えー!? テリーお姉さん、お守り失くしちゃったの?

 ――お守りは貴重なのよ!

 ――大丈夫! わたしたちがまたつくってあげるから!

 ――こねこね! 粘土をこねこね!

 ――はい、どうぞ!

 ――ハンカチもあげる!


(……クマのハンカチと、粘土のクマしか……ないわね……) 


 あたしはぐっと唸り、水の壁を見上げた。


(どうしたらいい……)


 鈍い音が続く。


(ソフィア……)


 鈍い音が続く。


(どうしたら……)


 どうしようもない。何もない。水の中では、鈍い音と、――唸るソフィアの声が聞こえるだけ。


「っ」


 あたしは思わず、銃を水の壁に向かって投げた。


「セイレーン!」


 声を張り上げる。


「狙いはあたしでしょ!」


 中に聞こえるように、大声を出す。


「そんな女、相手にしたって時間の無駄よ!」


 鈍い音が続く。


「来なさい! セイレーン!!」

 

 鈍い音が続く。


「ねえ、聴こえないの!?」


 あたしは大声を張り上げる。


「来いっつってんでしょ!!!!!!」


 その瞬間、笛の音が吹いた。そして、凄まじい悲鳴が異空間全体に響き渡り、あたしは耳を押さえた。


「んぐっ!」


 ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!


 超音波のように鳴り響く声。空気が揺れる。水が揺れる。ぶるぶる世界が揺れる。水が大きく揺れ、壁が崩壊した。水が浅瀬に戻り、あたしは耳を押さえながらその場に残された影を見た。


 そこには、大きな魚がいた。

 いや、人間だろうか。くしゃくしゃになった女の髪の毛と、背中、巨大な尾びれが、そこに立っていた。

 あたしは呼吸を忘れた。

 その音が外まで響いた。

 大きな魚は、ゆっくりと、あたしに振り返った。


 ――その顔は、赤ん坊だった。


 しかし、ただの赤ん坊ではない。顔は赤ん坊だが、首から下は人間の女の体。腰から下が巨大な魚の尾びれ。人魚。そこで、あたしは違和感を覚えた。

 ……双子の絵のセイレーンと、少し違う気がする――。

 あたしを見たセイレーンが、顔をくしゃくしゃにさせた。


「ほぎゃっ」


 泣きそうだ。


「おぎゃあ、ぎゃあ」


 口を開ける。


「ぎゃあああ、ああああああ、ぎゃああああ、ああああああああああああああ」


 叫んだ。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」


 ドスドス音を立てて近づいてきたセイレーンに、あたしはすくむ気持ちでその時を待つ。サリアがよくやってるやつよ。いい? 冷静に。さん、に、いち――、セイレーンが近付き、目の前に立ち、あたしに向かって腕を広げたそのタイミングで、あたしは投げた。


「くらえ!」

「っ」


 セイレーンに当たり、弾いて、浅瀬に落ちた。浮かんでくる。粘土でクマ。それを見た瞬間――セイレーンが悲鳴を上げた。


「ぎゃっ!!!」


 セイレーンの視界に、クマがいる。


「きゃああああああああああああああああああああああああ!!」


 叫びながら浅瀬へと飛んでいき、浅瀬の底でぐるんぐるんと回り始めた。よし、上手くいった。プティーとメラ、感謝するわ! あたしはその隙に走り出し、ソフィアの元へ駆け寄る。


「ソフィア……」


 ――呼吸が止まる。ソフィアが笛と、もう片方の手に拳を作り、強く握ったまま、……ぼろぼろになってその場に倒れていた。


「……っ」


 浅瀬に膝をつけ、ソフィアの名前を呼ぶ。


「ソフィア!」


 食われたように皮膚がめくれ、殴られたように打撲の痕が出来ており、腕が変な方向に曲がり、足も曲がらないはずの方向を向いている。


「ソフィア! ソフィア!?」

「……テリー……?」

「ソフィア、その笛、借りるわよ!」


 あたしはソフィアの笛を奪い、その場に立ち、笛を構えた。


「いい!? きっとハープが現れるわ! それまで耐えるのよ!」

「あー……たくましい……そういうとこも……好きだよ……」

「お黙り!!」


 そんな体で、虫の息みたいな呼吸しやがって。


「いいから生き残ることだけ考えなさい!」

「そうだね……。いき……ないと……君に……恋も……できない……」

「喋るなってば!」


 水が弾く音が聞こえて、振り返る。


「テリー……」

「黙って。まだセイレーンが近くにいる」

「こっち……に……」

「何よ」

「耳……貸して……」

「ソフィア」

「早く……耳……」

「……?」


 ソフィアに振り向くと、確かにソフィアがあたしを呼んでいて、耳を貸せと言っている。


「……」


 あたしは再び座り込み、ソフィアに耳を寄せた。


「どうしたの?」

「……て……」

「え?」


 ソフィアが言った。


「巨人が……起きて……」



( ˘ω˘ )



 あたしは水を無視して歩き出し、粘土で出来たクマを拾った。……上手く出来てるな。確かにクマに見える。それを手に持ち、ソフィアの元へ戻る。


「おい、生きてるか?」


 ソフィアがくすすと笑い、――血を吐いた。


「げほっ、げほっ」


 血が滴る。血が水に染み渡る。その匂いにつられて、魚達が集まってくる。あたしはやってくる魚達を見た。――あいつら、意識がない。呪われてる。下を見る。浅瀬なのに奥がある。その奥から影が泳いでくる。――この女が、その影をセイレーンと呼んでいた。ならばオラもこの人魚をセイレーンと呼ぼう。――嫌な『魔女』を思い出すがな。


 セイレーンが再び浅瀬に上ってきて、姿を見せる。


「ぎゃああああああああああああああああああああああああ!!」


 あたしに向かって両腕を広げてきたから、それを潜り抜けて、尾びれを掴む。


「ぎゃっ!」


 持ち上げる。


「ぎゃっ!」


 叩きつける。


「ぎゃ!」


 叩きつける。


「ぎゃあ!」


 叩きつける。


「ぎゃ!」


 放り投げる。


「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 浅瀬の底へ落ちていき、やはり見えない奥へと潜って行く。こんだけ脅したら警戒するだろう。あたしはめちゃくちゃな体になったソフィアを腕に持った。


「うぐっ」

「我慢しろ」


 浅瀬を大股で歩き出す。後ろからは魚達が追ってくる音が聞こえる。


「体は壊れても耳は使えるだろ。ハープの音を探せ」


 言われた通り、ソフィアが耳をすませた。魚の泳ぐ音が聞こえる。ああ、痛い。体中痛い。痛みでどうにかなってしまいそう。でも、耳をすます。ハープか。ハープってどんな音だっけ。ああ、笛が吹けたら一緒に演奏して、テリーにいいところを見せられたんだけどな。


 突然、ソフィアが浅瀬に置かれた。セイレーンが来る予感がして振り返ると、見事にセイレーンは姿を現してくれた。だからさっき拾った粘土のクマを顔にめがけて投げつけてやる。セイレーンが驚いたように一歩下がると、水に落ちた粘土のクマが視野に入り、クマが目の前に現れたのだと錯覚し、パニックになって悲鳴を上げた。


「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

「うるせえなー」


 あたしは再びソフィアを持ち上げると、ソフィアがくすすと笑った。


「……本当だ。良い音色……」

「何?」

「なんて……心地良い音」


 クマから逃げたくてセイレーンは酷くパニックになっている。心を取り乱している。


 ――心を取り乱したのなら、私の演奏はいかが?

 

 魔法のハープが鳴っている。


「っ!」


 あたしは息を吸い、ソフィアを持ち上げたまま走り出した。


「いた……。くすす。巨人さん、痛いです……」


 走れば音が聴こえるようになる。間違いない。魔法のハープだ! オラの――魔法のハープだ!


「……背後に……気を付けて……」


 耳打ちされる。


「来ますよ……」


 セイレーンが首から上を外に出し、そのまま、静かに速度を出して近付いてくる。まるでサメが獲物に近付くような泳ぎ方だな。


「ったく」


 あたしは振り返り、――片足を上げて、地面を踏んづけた。するとその反動で津波が起きて、魚達を奥へと追いやった。セイレーンが悲鳴を上げる。てめえは悲鳴を上げてばっかりだな。


「大人しくしとけや」


 あたしは再び振り返り、濃い霧の中、ハープの音が鳴る方へと走る。


「はあ……素敵な音色……。ふう。癒されてきた……」


 どんどん見えてくる。ハープが近づいてくる。


「あなたはこれを……毎日……部屋で……聴いていたのですね……。羨ましいです……」


 走れば走るほどハープに近付いていく。


「ああ……でも……体は……痛い……ままですね。……くすす……。こんなに痛いのは……、骨で……体が穴だらけに……なった時……以来です……」


 ハープがはっきり見えた。水が弾く音が響いた。


 ――オラのハープだ。


 今度こそ取り戻す。オラは手を伸ばす。


「来い。魔法のハープ」


 迎えに来たぞ。


「オラのハープ!」


 ――ハープに手を伸ばそうとした瞬間、ハープとあたし達の間に、セイレーンが割り込んできた。


「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」


 あたしの目がセイレーンを睨んだと同時に、ソフィアが瞼を上げた。黄金の瞳が輝いた。セイレーンがしっかりとその目に囚われた。ソフィアが命令した。――退け。


 セイレーンがどこかへ弾き飛ばされた。そのタイミングで、あたしはハープを掴んだ。



「やった! ようやく取り戻せた! オラのハープ」


 あれ?


「なんだ? どこに行った!? どこだ! 魔法のハープ!」


 オラは振り返る。


「どこに消えたんだ! オラのハープ!!」



 ハープの音に包まれていく。



(*'ω'*)



 ――はっと目を覚ます。

 永遠と浅瀬が続く大きな絵画の前で、あたし達はずぶ濡れになって倒れていた。あたしは慌てて起き上がり、振り返る。


「ソフィア!」

「あー……いたた……」


 ……きょとんと瞬きする。だって、ソフィアの体が元に戻っていたから。


「え」


 腕も足も折れてない。打撲の痕もない。ただ、肩の噛みつかれた痕だけが残ってる。


「あんた、体……」

「不幸中の幸い。……催眠が間に合ったんだ」


 ――幻覚を見る催眠だけなら、辛うじてかける事ができた。


「良かったよ。ほんと。はーあ。……まあ、幻覚とは言え、すごく痛かったけど……」


 あの異空間はセイレーンのもの。セイレーンが見た事が実現する。相手を殴ったら相手は殴られた痕がつく。だからソフィアは、殴られてなくとも、殴られた事が形として実現された。しかし、現実世界に戻れば、それは幻覚だからなかった事になる。だから、こうして元に戻ったのだ。


 ……あたしは溜まり切った息を吐いた。


「それなら、……。……良かったわ。ほんと」

「あ、テリー、さっきの所で何か拾ったんだ。これ知ってる?」


 ソフィアが拳を広げた。中には、ぐしゃぐしゃになった楽譜があった。


(……この楽譜……)


「……どこで見つけたの?」

「催眠をかけようとした時に見つけた。どこにあったかは知らない。いつの間にか……持ってた」

「……」


 あたしは楽譜を受け取って、ぐしゃぐしゃになった紙を伸ばした。まだ読める。


(全部で六枚って言ってたわね)


 四枚目。あたしは立ち上がった。


「ソフィア、クレアに会いにいきましょう。今のこと言わなきゃ」

「……私、少し疲れたから、テリー一人で行ってくれないかな」

「何言ってんのよ。……立って。行くわよ」

「くすす。私だって疲れるんだよ」

「……?」

「はあ。酷い目に遭った……」


 あたしはずっと顔を押さえるソフィアに違和感を感じ、再び座り込んで――ソフィアの顔を覗きこんだ。


「ソフィア?」


 ソフィアが顔をあたしから背けた。けれど、返事はする。


「ん? 何?」

「……ねえ、どうしたの?」

「……あー、そうだ。テリー、行く前に誰か呼んでくれない? 無線機あるよね」

「……あんたが呼べばいいんじゃないの?」

「私、疲れてるから」

「ねえ、さっきからなんで顔隠してるの?」

「……。私、今すごい顔してるの。くすす。好きな子に見られたくないんだよ。こんなの」

「ソフィア、手退けて」

「やーだ。見ないで」

「ソフィ……」


 血が滴る。


「……ソフィア?」

「テリー、誰か呼んで」


 あたしは無理矢理ソフィアの腕を掴んで、下ろした。


「……」


 ――皮膚がめくれ、整われた唇から血を出し、鼻から血を出し、閉じられた両目から血が垂れる。体は綺麗でも、顔の皮膚は垂れて、血も垂れて、――その顔は、まるでゾンビのようにボロボロだった。あたしが――絶句するほど。


「……あんた……それ……」

「こら。いけない子」


 ソフィアが微笑んだ。


「見たな?」

「……」

「誰か呼んでくれる?」

「……」

「テリー」


 ソフィアが精一杯の笑顔を浮かべながら言った。


「君は、怪我してない?」


 ソフィアの手が、あたしの手を握り締めた。


「目が、すごく痛くて、開けられないんだ。だから、君を見る事ができないの」


 教えて。テリー。


「君は無事?」

「……ええ」


 手を強く握り返す。


「無事よ。あんたが戦ってくれたから」

「くすす。それは良かった」

「怪我もしてないわ。……濡れただけ」

「そう」

「無傷よ。……あたしはね」

「良かった」

「……」

「良かったよ」

「……ソフィア」


 ソフィアの手を――大事に握り締める。


「言ってるでしょ。善人は報われないのよ」

「恋しい君に何もなければ、それでいいよ」

「あのね」

「テリー、これは貸し一回。カドリング島でデートして」

「……だ」

「君が好き」


 あたしが断る前に、血だらけのソフィアが言った。


「ごめんね。でもやっぱり好きなんだよ。テリーが誰を好きで選んだかわかった上でね」

「……」

「そうそう。そうやって困っちゃえ。あーあ、私、テリーの為にこんな顔になっちゃって、せっかくの美人が台無しになっちゃった。くすす」

「……。……」

「痛いなー。すごく痛いなー。心も目も、なんだか感覚がなくなってきた。あー、痛い痛い」

「……。……、……」

「あーあ、どうしよう。私、もうお嫁に行けないかもしれない。あーあ。どうしようかなー」

「……。……。……」

「ね。デート一回。駄目?」

「……」


 ……。


「……」


 ソフィアが言葉を詰まらせて黙るあたしの手をにぎにぎと握った。


「テリー」

「……。……。……」

「デートは?」

「……」


 あたしは――ようやく――掠れた声を出す。


「……デートは、……。……駄目」

「ああ、またフラれた。悲しい」

「でも」


 あたしは無線機を持った。


「島の隠れスポットを、……友達として、二人で歩くならいいわ」

「おや、それは……くすす。楽しみ」

「……やましい気持ちはない。……それだけは覚えておいて」

「うん。それでもいい」


 ソフィアがあたしの肩に頭を置いた。


「君の側にいられるなら、何でもいい」


 そして、咳をして、血を吐いて、あたしのドレスにソフィアの血が付着し、それに気付いてないソフィアが笑いながら言った。


「愛してるよ。恋しい君」


 あたしは無言のまま、無線機のボタンを押した。


「……、クレア」

『ああ、あたくしのダーリン、ハロー。今メニーと一緒にそっちに向かって……』

「誰か呼んで。美術館よ」


 報告する。


「ソフィアがやられたの」

「きゃあああああああああああああああ!!」


 悲鳴が響き渡る。


「人が……、人が死んでるわ!!」


 地面に書かれた海底の絵の上で、まるで模型のように、頭と骨と足だけが残された男が干物のように吊るされていた。


 美術館の時計の針が動いた。16時35分。


 人々の騒ぐ声を聞きながら、あたしはソフィアを抱きしめ……その背中をそっと撫でた。


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