第7話 背中に近づく影
美しい手が、あたしの頬を撫でた。
手は、やがて離れた。
暑い。
温かな毛布。
暑い。
額に汗がじわりじわりと浮かんで、枕に落ちていく。
暑い。
あたしは寝返ろうとした。
(だるい。やめておこう)
あたしは深く呼吸をした。
(ああ、駄目。苦しい。喉が痛い)
あたしは深呼吸をした。
(だるい)
あたしはそっと目を開けた。すると、メニーが濡れたタオルであたしの額を拭おうとしていた。
「あ」
メニーが微笑んだ。
「起きた?」
「……」
「気分はどう?」
「あたし、死ぬんだわ」
メニーがきょとんとした。
「あたしが死んだら、ガラスの棺桶に入れて、小人を周りにつけて、お花畑に置いておいて。そしたら、リオン様が気付いて、あたしにキスをしてくれるの」
げほげほっ!
「それで、はぁ。あたし、目が覚めて、ずびっ、リオン様と、ふぅ。……恋に落ちるの……」
「薬飲んで、安静にしてたら大丈夫だよ」
「もういいからほっといて。あたし、死ぬのよ。げほげほっ。もうだめ」
「吐き気は?」
「しまくりよ。だからあんたはあたしの面倒を見なきゃいけないのよ。はーーあ」
あたしは言った。
「いいこと。今日はつきっきりであたしの看病をしてちょうだい」
「それ、朝も言ってた」
「他の仕事は他の使用人達にやらせればいいわ」
「うん。みんなわかってるから」
「あたしは寝るから」
あたしはようやく寝返った。メニーに背を向ける。
「静かにしてほしいから鍵をかけておいて。誰にも睡眠を邪魔されたくないの」
メニーがあたしのシーツをかけ直した。
「本棚には本が沢山あって、机の引き出しにはキッチンから盗んだお菓子が沢山入ってるけど、実はもうネズミに食べられてる気がする」
この部屋には何でもある。
「あたし、寝るから」
あたしが寝ている時に、この部屋で誰が何をしてようが、あたしは知らない。だって、寝てるんだから。お菓子はネズミに食べられてるかもしれない。だから、食べられてたら、そういう事なのよ。
「あんたはトイレ以外でこの部屋から出ないでちょうだい。あたしがいつ起きても看病出来るように、この部屋にいるの」
「……」
「げほげほっ」
「また、そんなこと言って」
呆れた声が柔らかい手を伸ばし、あたしの頭を撫でた。
「もう寝て。お姉様」
「……」
「大丈夫」
手を握り合う。
「わたし、側にいるよ」
その体温だけが残る。
(*'ω'*)
――急に意識が戻った。
「……あっつ……」
体中しんどくて、目を覚ます。
(何これ……。だる……)
重力が重くて、体の中の神経と骨が痛い。ぴきぴき。
(うわ、何これ……。痛い……)
頭がぼんやりしている。
(嫌だ、汗かいてる……。最低……)
首の中が痛い。ああ、わかった。これ喉だわ……。
(最悪。喉まで痛い……。きっと腫れてるんだわ……)
怠くて起きれない。あたしは深呼吸をする。
(なんか変な夢を見た気がする。覚えてないけど。……ジャックが会いにきた? ああ、だめだめ。覚えてない。……そういえば、熱が出てる時って悪夢ばかり見るのよね。自律神経がこじれてるんだわ。はあ。最悪。あたし可哀想)
げほっ! げほっ!
(ああ! 喉が痛い! サリア! 水!)
……。
「……サリア……?」
(!!!)
あたしは気付いてしまった。……あたしの小鳥のさえずりのような美しい声が、汚いだみ声になってることに! ああ! 酷い! どうしよう! 世界の破滅だわ! こんなのってない! あたし、すごく可哀想!!
(全部風邪のせいだわ……。ずびび。……水……。水はどこ……?)
ベッドから起き上がり、隣の棚の上に置かれた容器からコップに水を注ぎ、自分で飲む。はあ! ここまでの作業をこの怠い中やるなんて、あたし……すごく偉い!
(喉がイガイガする。ああ、痛い。飲んだら余計に痛い。最低。喉の痛みなんてくたばってしまえ。……今、何時?)
時計を探そうと目を動かすと、窓に目が行った。広大な海の景色が広がっている。
(……いつものクルーズ船で見る景色と、また違うわね)
はあ。汗がすごい。
(……にしても、でかい部屋ね……)
一室というより、一軒家みたい。
(大きなバルコニーがある……。……はあ。元気だったらここにニクスとアリスを呼んで、パーティーでもしたかったわ)
あ、シャワー室がある!
「!」
あたしは中に入って、ぽぽいと着ていたものを脱いで、シャワーを浴びた。
(らんらんらん♪)
タオルで頭を拭いながら、シャワー室から出た。
(はあ。ちょっと気分が良くなった)
血行が良くなったのかしら。怠いけど少し楽になった。
(……換気しようかな)
あたしは窓を開けてみた。冷たい風がびゅうと吹いて、部屋に入ってきた。
(あ)
太陽が登る青い空。
空の色に影響された青い海。
カモメが飛ぶ中、走るマーメイド号。
(……この船が沈んだのよね)
あたしの髪の毛がふわふわ揺れる。
(今頃、リオンの騎士達がクルーに紛れこんで船内を見回ってる。心配はない。……寝ようかな……)
あたしは窓を閉め、ベッドに横になってみる。……寝付けない。
(寝すぎて目が冴えてる)
……。
(……そういえばあたし、この船を直接見た事ないのよね)
あたしは再び起き上がった。
(運動したら自然と眠くだろうし)
サリアもいないし、
(少しばかり、トラブルのあった場所でも見学してみる?)
マーメイド号ツアーミッション、噂のトラブル箇所巡り。
(動きやすそうなドレスがあった。これでいいや)
バンダナを下から上に巻き、頭の上でウサギ耳のように結ぶ。何もしないよりマシでしょ。女の子にとって髪型は大事だからこれくらいはね。肩からポーチバッグを下げて、愛用しているハンカチで口を押さえながら部屋から出る。廊下には赤い絨毯が敷かれ、窓の代わりに絵が飾られている。
(サリア、どこに行ったのかしら。メニーもいない。ずびび。……ああ、待って。……そうだわ。確か、どこかのパーティー会場で社長のママが挨拶する予定だった。多分……それの付き添いね)
一度目の世界ではあたしの熱によって叶わなかったけど、今回はきっと、まあ、派手に挨拶してることでしょうね。この船を造るきっかけ話からしてるに違いない。ママの栄光に浸った話なんて、ぐだぐだしてて長そう。
(……クレアも見てて、欠伸してそう)
――あたし達、夜になったら人気のない薄暗いデッキに行って、ダンスを踊るの。船内だとキッドのままだろうから、月の光る下で、外に漏れてくるオーケストラの演奏を聴きながら、クレアとなった彼女と優雅に大人なダンスをするのよ。一応、ドレスも用意してるの。クレアはあたしの膨大で壮大で巨大な魅力に瞳をきらきらさせて、こう言うに違いないわ。ダーリン、月が綺麗ね。でも月よりもあなたがいいわ。あたくしね、あなたにメロメロなの。寝る時も起きてる時もあなたの事しか考えられないの。ダーリン、好きよ。だから、お願い。……キスして……?
(……ぽっ)
「げほっ! げほっ!」
そんな幻想はあっという間に打ち砕かれる。今のあたしは残念ながらお風邪中。畜生。なんでよ。この一年間で行った厄除け聖域巡りの旅は無駄だったわけ? 行ったら厄除けになるって雑誌に書いてあったのに。なんでよ。畜生。ウイルスめ。菌め。くたばっちまえ。畜生。
(あ、地図だわ)
廊下の突き当りの壁に飾られた地図を見上げた。
(えっと……)
あたしは指で絵をなぞる。こっちが船の後ろ。右になぞっていき、ここが前。この下の、ここらへん。下部に指をとんとん叩かせる。第六ボイラー室。それと、その後ろのこの箇所と、この箇所。一度目の世界では、ここに氷山が当たってしまったと聞いてる。そして、はたまた噂では、エンジンを止めて舵を回すはずが、前進したまま舵を回して突っ込んでしまったなんて説もある。この四つの区画から水が狭い通路に流れていき、関係ないところにまで行き届いてしまい、水の流れを止める事が出来なかったため沈んでしまった、なんて説もある。
(噂は噂。だけど念のため、三日目はこの四つの区画に要注意だって、リオンが言ってた。噂があるくらいだから、それっぽい跡が残っていたのかもしれないって。……真相はわからないけど)
げほっげほっ!
(多めの石炭の注文の件も、実際用意してもらえたのかもわからないし、いいわ。くらくらするけど、ボイラー室なんてあまり見たことないから、見学に行ってあげる)
噂では出航して一時間くらいで火災が起きてたなんて説もあるくらいだし。……本当に起きてたら、リオンが手を回してる騎士か兵士がなんとかするだろうから、見るだけなら行っても大丈夫でしょ。
(で、ボイラー室ってどうやって行くの?)
地図を見てもわからない。
(こういう時は、案内人が必要だわ。で、……クルーはどこ?)
廊下を見ても誰もいない。
(ああ、そうだ。良い機会だわ。『噂の見張り台』にも行ってみよう。双眼鏡がなくて裸眼で見てた噂があったから、双眼鏡を多く設置するよう注文したけど、それもどうなってるか気になる。……見張り台はデッキの近くね)
で、ここからデッキってどうやって行くの?
(……クルーいないかしら?)
くるりと見回しても、このエリアには誰もいない。
(役に立たないわね)
……あら、近くにスタッフルームがあるわ。あたしは指でなぞって確認する。
(誰かいるかも)
咳をしながら、地図に書かれたスタッフルームへ向かう。一本道の廊下からメイン広場に出ると、お金持ちそうな人が大勢いて、優雅な顔をして階段を下りたり、上ったり、歩いたり、窓を眺めたりした。
あたしはその横を通り過ぎ、クルーしか入れないスタッフルームのドアを開ける。中はとても静かだった。
(……誰かいないの?)
数個のテーブルとくつろげそうな椅子。筋トレが出来るスペースまであり、本やボードゲームも数多く揃っている。長く働いていても、暇になる事はなさそうだ。
(クルーの休憩部屋にしては贅沢過ぎない?)
休憩スペースを通り過ぎ、――とあるものを発見する。
(あ)
セキュリティルームだ。中では様々な金庫や大事な鍵が厳重に管理されている。
(マスターキーがある)
きらきら光ってる。
(……うん。マスターキーがあれば、何かと役立つかも……)
あたし、社長の娘だし、いいわよね?
そう思って、ドアの取っ手に手を伸ばすと、はっと気がついた。
(げっ。錠がされてる。パスワード付き)
そりゃあ、セキュリティルームだものねー。厳重よねー。
(でも、マスターキーがあれば移動が楽になる。あれはきっと今のあたしにとても必要なものなんだわ。あたしが求めてるんだから間違いないわ。さて、そうと決まれば誰かに開けてもらおう。誰かいないかしら?)
あたしは振り返った。
――定規のように棒立ちする男が、あたしを見下ろしていた。
「ぎゃーーーーーーーーーーーー!!」
悲鳴を上げて数歩後ろに後ずさり、背中がセキュリティルームの壁にくっついた。
「げほげほっ! うえっげほっげほっ! だ、だれよ!? おまえっ!」
「クルーです」
「げほげほっ! げっほげほっ!」
咳をしながらざわめく胸を押さえ、男を見上げれば、確かにクルーの制服に、クルーである証のバッジをつけている。
「はー……。……げほげほっ、おどろかせないでよ……」
「どのようにお声をおかけしようか考えておりました。振り返っていただけて良かった」
「ずびっ」
「お客様、恐れ入りますが、ここは関係者以外立ち入り禁止のクルーの休憩室となっております。ここには求めるものは何一つないかと存じます」
「……もとめるものならあるわ」
あたしは錠に指を差した。
「あれ、あけて」
「出来ません」
「あら、どうして?」
「パスワード管理は上の者しか存じ上げません」
「あなたはしらない?」
「ええ」
「わかった。いいわ。だれがしってるの?」
「お客様にはお教え出来ません」
「おきゃくさまじゃないわ。あたしはテリー・ベックス。……ずびっ!」
「……」
「……げほげほっ!」
「……」
「……ずびっ。……テリー・ベックスよ。しゃちょーのむすめの。げほげほっ!」
「……はあ。テリー・ベックス様。……えー。……すみません。マニュアルを失礼」
クルーが制服の内ポケットからマニュアルを取り出し、一ページ目を見た。社長、アーメンガード・ベックスの名前が書かれている。クルーがマニュアルを制服の内ポケットにしまった。
「確認致しました」
「ずびっ。けっこう」
「社長の娘様、ここへはどのような御用でしょうか」
「ようじがあってクルーをさがしてたの。げほげほっ」
「用事とは」
「……」
あたしは適当に答えた。
「かぞくはおきゃくさまへのごあいさつでおいそがしいようだから、んんっ! あたしがかぞくのだいひょうとして、ずびびっ! はたらくせんいんのみなさまにごあいさつにまわろうと。こんにちは。クルーさん」
「はい。こんにちは」
「これからいろいろであるかなきゃ。ずびっ、というわけでマスターキーがあたしのやくにたつとおもったの。すぐそこにひっかかってるやつよ」
マスターキーはセキュリティルームできらきら光っている。
「そうだ。ちょうどよかったわ。げほげほっ。このあと、ボイラーしつにいこうとおもってたの。あなた、第六ボイラーしつの行きかたをごぞんじ?」
「第六ボイラー室ですか?」
「ええ。第六ボイラーしつには、石炭倉庫があるでしょう? ごあいさつがてら、ぜひ見にいきたくて。げほげほっ」
「お止めになった方がいいと存じます。ボイラー室は石炭と火の熱でそれはそれはお暑いこと。ボイラー員はそれはそれはお熱くて野蛮な言葉遣いをする者しかおりません。しかし彼らのお陰で船が動いているのは事実」
「げほげほっ」
「ご認識の通り、ただいまなかなか忙しい時間帯でございます。クルーは忘れ物のメモ帳を偶然取りにきた新人のわたくししかいません」
「あんないくらいはできるでしょ?」
「ええ。案内くらいでしたら」
「ならいいわ。つれてって。げほっげほっ、いったん、マスターキーはいいから」
「……かしこまりました。えー、……すみません。マニュアルを失礼。……『それでは、本件、わたくし、クルーのマチェットがお受け致します』」
新人クルーのマチェットがマニュアルをジャケットの内ポケットにしまった。
「第六ボイラー室へご案内します。こちらへどうぞ」
マチェットと共にスタッフルームから出ていき、赤い絨毯が続く廊下を歩く。先頭をマチェットに歩かせ、あたしは廊下の壁に飾られる絵を眺めてみた。……犬の絵がある。今にも舐めてきそうだわ。棚に飾られた花瓶と花。よく見てみると、偽物だわ。枯れないように飾ってるのかしら。壁のデザインもなかなか高級そうだこと。手が凝ってるわね。こんな所に手をかけるくらいなら、沈没しないようにもう少し壁を強化するべきだと思うんだけど。
「こちらです」
マチェットが硬くて重たいドアを開けた。その先には下に繋がる狭い非常階段とスタッフ用のエレベーターがあった。マチェットと一緒にエレベーターに乗り、彼が地下一階のボタンを押した。エレベーターが動き出す。
「げほげほっ。ボイラーしつってここからでないと入れないの?」
「いいえ。こちらから以外にも様々な道があります。しかし、特等室エリアでしたら、ここからの方が無難で近道です」
「そう。ずびっ」
やがてエレベーターが止まり、目的地に踏み込む。
その先にある硬くて重たいドアをマチェットが開けると、今度は大量の熱い煙があたし達にかけられた。あたしは熱気で息が出来なくなり、むぐっと息を止める。熱すぎて頭がぼうっとしてくるが、目的を忘れてはいけない。
(石炭倉庫は……)
「マチェット、げほげほっ! 石炭倉庫はどこかごぞんじ?」
「……マニュアルを失礼」
「さすがにないわよ。……いいわ。ずびっ。先にあいさつにいきましょう」
中に入ると、煙の中から人の怒鳴り声が聞こえる。
「おい、早くしろ!」
「動け!」
「何やってんだ! しっかりしろ!」
「寝ぼけてるんじゃねえぞ!」
マチェットがボイラー員とぶつかった。
「邪魔だ! おい! こんな所で何やってるんだ!」
「すみません。この方がここに用があると」
一人のボイラー員があたしを見た。
「誰だ?」
「こんにちは。げほっ。あたくし、しゃちょーの娘のテリー・ベックスと申しますわ。げほっ、げほっ! 母がいそがしい身なので、かわりにみなさまにごあいさつを……」
「ああ。そいつはどうも。……おい、そこ! 早く動け!」
「ついでにボイラーしつを、げほっ、見てあるいてもいいかしら?」
「構わないが用が済んだら出ていってくれ。みんな忙しいんだ」
「わかりました。それで、ずびっ。石炭倉庫はどこかしら?」
「石炭倉庫?」
「見たいの。どちらかしら」
「あそこにレンガの壁が見えるだろ。あれが石炭倉庫だ」
指を差す方向を見ると、煙に包まれる中、レンガで作られた倉庫が見えた。乱暴なボイラー員が汗を拭った。
「下手に触らないでくれよ。石炭倉庫では火災が多いんだ」
「かさい」
あたしはきょとんとした。
「まだおきてないの?」
「今のところはな。だが、いつ起きるかわからねえ。火災なんて珍しい事じゃないからな」
「そうですか」
おかしいわね。噂ではこの時点で火災は起きてる話だったんだけど……時差かしら。いずれ起きるのかもしれない。
(ま、……リオンがいるから平気でしょ)
「げほげほっ。ごあんしんを。ごめいわくになるようなことはいたしませんわ。見るだけですもの」
「なら、好きにしな。社長の娘だからと言って何かされちゃ適わねえ。ここは俺達の作業場だ。くれぐれも何も触らないように……おい! お前ら! 何やってるんだ! ぼうっとしてんじゃねえぞ!」
(触らないわよ。手が汚れるし、火傷しそう)
ボイラー員の背中を見送り、あたしはレンガの石炭倉庫を覗いた。
(……ふーん。こうなってるのね……)
多くの石炭が積まれている。注文通り、数は多いようだ。
(……ふーん。ここまで近くで見るのは初めてかも。……興味なかったし……)
石炭倉庫を一通り見てあたしは満足する。げほげほっ。
「いいわ。げほげほっ。マチェット、でましょう。ずびびっ。ここの方々がめまぐるしいくらいいそがしいみたい」
「ええ。その方が良いと思います」
暑い暑いボイラー室から出ていく。はあ。やっと落ち着いた。空気が冷たくて涼しいわ。再びエレベーターに乗りこみ、あたしは咳をした。
「げほげほっ」
「……お風邪ですか?」
「……ええ。けさからたいちょうがあまりよろしくないの。ごめんなさいね。うつしたりしないからあんしんして」
「もし、お辛いようでしたら診療室がございます。そこには医療を専門しているクルーがおりますので、一度そちらに行かれてはいかがでしょうか。マスクもあるようです」
「マスクきらいなのよね。くるしいから」
エレベーターが上に上がっていく。
「でも、いちおうかくにんしておくわ。どこにあるの?」
「……パンフレットはお持ちですか?」
「パンフレット?」
「地図が載っております。ご挨拶回りをされるのであれば、地図を持っていた方がいいかと」
マチェットが腰につけているポーチから折り畳まれたパンフレットを取り、あたしに差し出した。それを受け取り、中身を眺めてみる。細かくイベント行事のスケジュールや、施設の説明や、船内の地図が載っている。
(ふーん。これは役に立ちそう。見学ツアーには持ってこいだわ)
「ありがとう」
「いえ」
エレベーターが止まった。あたしとマチェットが下り、廊下に戻ってくる。マチェットがあたしを見下ろした。
「ご用は以上でしょうか」
「ううん。あとは、げほげほっ、みはりだいにいきたいの」
「見張り台よりも先に診療室に行かれることをお勧めします。今のあなたは顔色が悪く、それはそれは見れるものではありません」
「……」
あたしはにっこりと微笑んで、マチェットを見た。
「マチェット、それは、しゃちょーの娘であるとわかったうえで、げほげほっ、あたしに言ってる?」
「菌が飛び散るのでマスクをしてない状態であまり喋らないでください。本日はマチェットのクルーデビュー日でございます。風邪になりたくありませんし、あなたの風邪が誰かに移って人手が足りなくなるのは恐ろしい事です。仲間たちへの挨拶は結構です。必要ないのでお部屋でゆっくりとお休みください」
「……」
「御用は以上ですね?」
マチェットが手で廊下を差した。
「特等室でしたら、帰り道はあちらかと」
あたしはじっとマチェットを睨んだ。
「それでは、さようなら」
マチェットがあたしに背を向け、歩きながらインカムを取った。
「マチェットです。持ち場に戻ります」
マチェットがいなくなった。
(……なに、あの態度。信じられない。新人クルーですって? 教育どうなってるの? マチェットね? 覚えたからね! ママにチクってやるからね!)
あたしはぐっと拳を握りしめ、――また咳を出す。
「げほげほっ!」
(……報告は後でいいや。今は見学よ)
あたしはパンフレットを眺め、見張り台の場所を確認した。
(ここから近いわね。なるほど。こう行くのね。いいわよ。一人で行ってやるから。べー、だ)
あたしは目的地まで歩き始めた。
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