4、好きな鳥
次の授業も、その次の授業も、何ごともなく進んだ。
冬美にせよ彼女の両親にせよ、休憩時間に交わした会話もごく普通の内容だったし終わりの挨拶も理にかなったものだった。
その内時計塔のことも記憶の隅に押しやられ、ごく平凡に毎日が過ぎた。
また日曜日が来た。
友人と遅くまで遊び、日付が変わる直前に家路についた。その道すがら、岡田は対向車線をすれ違った自動車に見覚えがあるのを感じて少し注意を向けた。
そのまま車を走らせながら、三分ほどしてはっと気づいた。車にいたのは冬美の両親だ。運転していたのは父親の方だ。冬美はいなかった。
何かあったのかなとは思ったが、すぐに忘れて部屋に戻り、ベッドに転がり込んだ。
二日後。
彼は授業で大沢家に来ていた。休憩時間になって、ふと日曜日の一幕を思い出した。
「そういえばこの前親御さんの乗った自動車とすれ違ったな」
「そう。うちの親、そういうとこは若いんだよね」
「どこか旅行にでも行ってたのかな」
「時計塔だと思うよ」
呟くように彼女は答え、両目の焦点を岡田からテーブルに移した。
「時計塔?」
声も表情も、怪訝にならざるを得ない。
「先生も知ってるでしょ」
その通りではある。……だが、どう答えるべきか?
「学校の授業ね、良くわかるようになって面白いよ」
冬美は自然に話題を変えた。渡りに船とばかりに、それ以上追及する気がなくなった。
「何よりだ」
人並みな感性の持ち主なので、ほめられれば素直に喜ぶ。
「でももうすぐ転校しちゃうのよね」
「折角友達がいるのに残念だな」
「うん。先生の授業も結構気に入ってたけど、気に入るってちょっと偉そうだけど、ちょっと辛いよ」
彼女はそこで少し視線をずらし、庭の木を眺めた。
「ああ、俺も悲しいよ。そう言えば、前に教えてくれてた人は?」
「死んじゃったの。事故で」
普段気さくに話しているせいもあるが、彼女が悲しそうにうなだれると、あたりの空気までしょぼくれるように思える。
「お気の毒に」
常識に沿った返答をしつつ、非常識なことを考えた。
以前時計塔で感じたあの溶けるような暖かみが、今思い返すと不思議でもあり……不気味でもあった。
職業柄、生徒の性格を掴むのはそれなりに得意なつもりだ。しかし、彼女のペースはまるでわからない。
「先生、鳥は好き?」
また話題が変わった。
「嫌いではないが、意識して好きだと思ったこともないな」
「あたしね、鳩が好き」
「それは可愛らしいから?」
「うん、そう。だからあの鳩時計も大好き」
「親ごさんも鳥は好きなのかな」
「うん。好きだよ」
「どうでもいいけど、俺この頃鳩に縁があるみたいなんだ。この前も鳩の羽根をここの帰りしなに拾ったし」
「そう。良かったね。好かれてるじゃない。この家の周りはとくに鳩が多いよ」
その日の授業は終わった。
どこか重い気分をぬぐえないのが足取りにも出ていて、帰り道にカーラジオをつけた。せめて無関係な話でも聞いて気分を改めたい。
『次に、死亡事故についてお伝えします。本日夜八時頃、歌手の江藤 喜美子さん二十一歳、本名同じが乗っていた乗用車をガードレールにぶつけ頭を強く打ち、病院に運ばれましたが間もなく死亡しました。自動車の前輪左側には鳩の死体が巻き込まれており、警察ではこれが事故の原因ではないかと見ています。また、彼女は亡くなる数日前、鳩に呪われているなどと周囲の人にもらしており、ノイローゼ気味だったとのことです』
ラジオを消した。自然とアクセルに力が入った。背中が妙にむずがゆく、鳩の羽根が入っているかのような錯覚を覚えた。
今さら授業を辞めるつもりはなかった。プライドにかかわる問題である。しかし、何とも言えない落ち着かなさが、彼をすっぽり包み込んだ。
鳩、鳩、鳩……。どこにでもいる、平和と繁栄のシンボル。つきまとわれるのは、むしろ喜ぶべきことか?
とはいうものの、しばらくは何ごともなく過ぎた。江藤の事故死はそれなりに世間で取り上げられたが、そうした類の事件をいちいち自分に結び付ける趣味はない。
冬美を受け持って以来三回目の日曜が来た。
その日は雨だったし、予定もないので自分の部屋でテレビゲームをしながらあくびをかみ殺していた。
ゲームも一段落するといよいよやることがなくなり、キッチンで茶をいれて部屋まで持って上がった。
ベッドに腰かけてカップから昇る湯気を顎に当てながら、窓の外を見やる。
雨に濡れた道路を、何台かの車が走っては去っていく。春の気配を感じて少しずつ活気をつけてきた草花が、雨に打たれてうなだれているようだった。
空がごろごろ言いだした。前触れと思う間もなくぴかっと光り、派手な音を立てて雷が落ちる。
家がびりびりしたところを見ると近くに落ちたようだ。もう一条、凄まじい稲妻が空に輝き、体を揺さぶるほど大きな衝撃が伝わってきた。
冬美の家のある方だなとは思ったが、それ程心配はしなかった。
余程貧しい家でもない限り、落雷で家が損害を受けるようなことはまずない。まして彼女の家は大変贅沢に出来ていた。
その時だった。鳩時計の、場違いにものんびりした声が聞こえてきたのは。
思わず腕時計を確かめた。午後五時ジャスト。ちょうど五つ鳴って、あとは激しくなった雨の足音に任された。
下に降りて自分の母親に鳩時計の音を尋ねたが、空しかった。父親も一緒にいたが、答は同じだ。部屋に戻ると、ベッドの枕もとに羽根がー鳩の羽根が一つ置かれている。落ちているのではなく、誰かの手で置かれたとしか思えなかった。
部屋の窓はすべて内側から鍵がかかっているし、もちろん家の玄関からは誰も入っていない。羽根をつまんで持ち上げた。コンビニで捨てた物と何となく似ていた。あまり根を詰めるのは健康に良くない。彼は羽根を窓から捨てた。
その晩。彼は夢の中で、パン屑になっていた。
鳩時計のある丘で誰かの手で袋から放り出され、地面に転がっている。たちまち何羽もの鳩が舞い降りて、彼をついばみだした。
鳩のくちばしが迫ってくるにつれ、それは担当の顔になったり、冬美の両親の顔になったりした。
岡田はうなされた。鳩に食べられているのか、担当や冬美の両親に食べられているのかわからなくなってくる。
「やめて! もう人を食べるのはやめて!」
鋭く強い制止が鳩たちの動きを止めた。ベンチの前に冬美が立っている。いや、ただ漠然と彼女だと思っただけで、おぼろげな人の影が人のように動いているだけだ。
「どうしてこんな風になったの? あたしはどうなっちゃったの? ねぇ、教えて……」
答ようとして口を開いた瞬間、我と我が身の絶叫で目を覚ました。
寝汗で髪が肌にまとわりついている。
右手で自分の顔をなでて、ベッドから洗面所へと向かう。電気をつけないまま手探りでコップに水をつぎ、口に当てて急な角度で傾けるとようやくほっとした。
目が暗闇になれ、鏡にうすらぼんやりと映った自分の姿を見て苦笑をもらした。たかが夢じゃないか。
そう思ってコップを置いてから何気なく手で肩を払った。その途端、何かが肩を蹴った。翼がはばたいて空気を切る音も聞こえた。
叫ぼうとして、声帯が麻痺してしまっているのをようやく悟った。震える手で電気のスイッチをまさぐる。頭の周りを鳥が旋回している。羽が顔を打つ感触をすら感じる。
電気のスイッチをようやく探り当て、目をつぶっておそるおそる力を入れ……まぶた越しに光を感じた。鳥の気配も消えた。
やれやれ俺もどうかしているなどと安堵しながら目を開けると、目の前の鏡に、鳩と化した自分が写っていた。
いや、それはほんの数十分の一秒のことで元の自分自身が映っていた。
両手で頭をかきむしった。疲労による幻覚だと心の中で繰り返し、ベッドに戻った。
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