3、公園の鳩時計
コンビニで羽根をゴミ箱に入れるついでにジュースのペットボトルを買い、駐車場から車を出さないまま一口飲んだ。
気分が心地好く弛緩するはずなのに、不快感をまじえて収縮していく。不覚にも、ジュースに紅茶を選んでしまったせいであの母親を思い出した。
緊張したにしても、あれは度を越してはいなかっただろうか。慇懃無礼とさえ受け取られかねない態度は、一体何の為なのだろう。自分がへまをやらかしたのだろうか……。
飲みかけのペットボトルの蓋を閉め、少し乱暴に助手席に放り出してから、岡田は自動車を出した。
彼女の授業は週に二回、火曜と木曜にあった。最初の授業は木曜だったから、次は週明けになる。就職先が決まったとはいえ同じ県内だし、引っ越しもたいした荷物がないので時間は山ほどあった。
土曜日のー最初の授業から二日目の昼下がり、車でぶらりと出かけることにした。友人と遊んでも良いが、毎日そうだとどこかあきてくる。たまにはぼうっと一人でいるのも嫌いではない。
しばらくドライブを楽しみ、最後に丘のふもとにある駐車場に車を止めた。
駐車場から公園まで延びる階段は、石を組んで造られていたが、古びてこけむしている。まだ肌寒い季節なのでダウンジャケットに手袋を身につけていたが、風がないのは嬉しい。
階段を上り切ると、ジャングルジムやブランコなどを通して時計塔がある。ちょうど午後四時で、鳩が穏やかに時を告げていた。
塔に近付くと、陰に誰か立っているのがわかった。さらに近付いて冬美なのを悟る。
スラックスにコットン製のハーフコートを着ていた。寒いのか頬が赤くなっている。手を振ると、向こうもそれと気付いて手を振った。
「先生もここを知ってたの? 結構いるね、知ってる人」
挨拶がわりに彼女は言った。
「そうだな。俺はこの塔の地味だけど落ち着いた雰囲気が気にいっててね」
「先生、あたし、ここで鳩が鳴くのを聞くのが好きなんだ」
彼女の柔らかい声音に接すると、地味な場所でもじわじわと暖かみが出てくる。どこか自分と同じ浮き世離れの仕方を踏んでいるような気がして、共感したのだろう。
「ふーん。そうだ、下にジュースの販売機あるけど何か飲む?」
彼は勧めた。
「ううん、いらない。有り難う」
しばらく二人は、春先のまだ弱々しさが残る太陽が沈んでいくのを黙って見守った。
まだ桜や新緑にはほど遠い。芝生はそこそこ綺麗だった。早春の夕陽に頼りなげな緑が映えるのは何となく物さびた風景で、ダウンジャケットの暖かい着心地にもかかわらず岡田は小さく身震いした。
「先生、風邪? 寒いの?」
「あ、いや……。ここはどれ位前から知ってた?」
「生まれた時から。母さんね、うちの父親と良くここに来てたって言うから。赤ちゃんのあたしをここに連れてきたこともあるんだって。……先生、ごめんね」
「え? 何の事?」
「この前、うちの親がみっともないことしちゃったから」
「それなら別に、気にしてないよ」
と言いつつコンビニで味わったた感覚が舌から蘇ってくる。
「そう。許してくれるのね」
「別に怒ってないって」
事実、彼女にあたるのはナンセンスだ。
「それよりさ、この塔って、いつ頃からあるんだろうね」
「さぁ……。でも、この塔の言い伝えなら知ってる」
どこか憂欝そうだった。
良く感情の変わる娘だなと思ったものの、突然怒ったり泣きわめいたりするのでもなし、感受性の揺れやすい年頃だろうと一人で納得した。
「言い伝え?」
「昔からね、この時計塔に何かを捧げてお祈りしたら大抵のことはかなっちゃうんだって。だからね、何年か前にあたしのいる学校とかでもひそかにブームとかになって、夜に女の子が何人か連れ立って来て色々あったって聞いたよ」
「それはそれは。ちなみに何を捧げるんだ?」
「一番いいのはね、人間」
風が吹いて、彼女のショートカットを巻き上げた。彼女は片手で髪を押さえた。
岡田は首筋に何か感じて手を伸ばした。鳩の羽根だ。この前コンビニのごみ箱に捨てたのと何か似ている。
「……その、騒ぎになった女の子たちは何を捧げるつもりだったのかな」
岡田は羽根を捨てたが、鳥肌が泡立ち始めた。どうにもうすら寒かった。
「さぁ。あたしは知らない」
彼女は視線を岡田から外して、遥かかふもとの家並に目を移した。
「あたし、そろそろ帰る」
「俺も帰るよ。自転車で来たのか?」
「うん」
「そうか。じゃ気をつけて」
「はい」
彼女は岡田より先に丘を降りて行った。
後に続こうとしてふと稜線沿いに目を走らせた。彼女がさっき眺めていたところを同じようにちらっと見る。彼女の家が……正確には中庭にある木がかすかにわかった。
冬美が去った後、一人でたたずむ岡田の背中を時計塔が見下ろしている。その機械室には、あの担当OLの姿があった。……そして、冬美の両親が彼女の後ろに従っている。
「予定どおりで、結構なことだわ」
冷ややかな満足感を込めて、担当は言った。茶色く染めた髪をうなじに沿ってなでると、締まりの良い顎がかすかに斜めに流れた。
「娘がいまだに言うことを聞きませんが、どうしましょう?」
冬美の母親が、落ち着かなげに両手を臍の前でもみしだいている。
相変わらず和服で、その肩の上には白と緑と茶の混じった絞り立ての絵の具のようなものが小さな染みを作っている。鳩の糞だと本人も知っているにもかかわらず、ぬぐうどころか気にもしていない。
「ふん、あんな小娘どうにでもなるわよ。それより、岡田君にもっと圧力をかけなさい」
背中ごしに担当は命じた。
「はい、かしこまりました」
ぎこちない口調で、冬美の父親が答える。
一体この三人は何をしているのだろう? 良く観察すると、機械室の端々には髪の毛や赤黒い染みが散っている。鳩の羽根も撒き散らされていた。
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