16
「行ったんだ? デート」
髪留めを渡すとミキちゃんははしゃぎ声を上げた。教室内だったので、私は静かにするよう注意したが、ミキちゃんは全く意に返さない。「どこに行ったの?」から始まり、食事や買い物や天気に至るまでこと細かく聞かれた。観覧車ではキスしたかとまで聞かれ、うっかり正直に答えそうになった。ミキちゃんが暴走しないよう、私はできるだけ素っ気なく答えた。途中からミキちゃんは羨ましがって
「私も連れてってもらいたい」
と言いだした。もちろんそれは恋人に、ということだから私が連れて行くんじゃ意味がない。そのうちいい人できるよ、なんて言うのも古臭くて無責任すぎる。
「でもまあなにしろ遠いよ海は」
適当な言葉をつぶやいて、そろそろ授業再開と思ったところで、ミキちゃんが急に改まって
「遠いよね。海」
とつぶやいた。机に肘をついて、頭をその上に載せ気だるそうにする。何か言いたいことでもあるのかと思って、黙って次の言葉を待っていると
「うちの妹、見たことないんだよね、海」
と大人びた顔をして続けた。
「家族旅行とか行かないの?」
「行かない」ミキちゃんは一瞬口を緩めた。
「いつもそうなんだ。去年の軽井沢も、キョウちゃんだけ、おばあちゃんに預けて。キョウちゃんは病気だから、なんて言うけどそんなの嘘だ。本当は他の人にキョウちゃん見られるのが恥ずかしいんだ。お父さんは真面目な顔をして『キョウちゃんがいたらミキの行けるところも少なくなっちゃうよ』なんて言ってくるし。わたしはそれだっていいのに、そう言うと怒られた。うちのお父さんとお母さん、本当最低なんだ」
最低、の部分に力をこめてミキちゃんは言い切った。そして椅子の背もたれに寄りかかり、顎を引いてじっとしていたが、そのうちにバッグからもこもことしたミッキーマウスのハンドタオルを取り出し、それを目に当てた。嗚咽は全く聞こえない。ただ、傷口をふさぐみたいに、目頭を押さえているだけだ。
どんな言葉をかけていいのか、それとも何も言わないでおくべきなのか、あるいはこんな場面を兼山や他の講師や笠奈に見られたら厄介だなという下衆な考えが浮かび、仕方なくミキちゃんのいつもの黄色いシャーペンを眺めていた。シャーペンは角ばったデザインで、持ち手の部分は少し黒ずんでいる。クリップの銀色も薄汚れて見えるが、これは元々のデザインなのかもしれない。
「ごめんなさい。授業、始めてください」
やがてミキちゃんは、小さな声で謝った。涙声ではなかった。ハンカチをどけると、目は赤いが、泣いていたようには見えない。私は参考書を閉じて、ミキちゃんと同じように椅子にもたれかかり、目を閉じた。
「いつかさ、ミキちゃんが連れてってあげるといいよ。海でもどこでも。きっと喜ぶと思う」
「そうだね。わたしもそう思うよ。そうしてあげたら素敵だと思う。でも、わたしはあの人たちの子どもだから。いつか同じような人間になっちゃうに決まってる。それがイヤだ。怖い」
「そんなことないよ。親子だからって同じになるとは限らないよ」
「それはそうだけど。わたし、もうイヤだ。家にいたくない」
ミキちゃんは再びハンカチで目頭を押さえて、全く声を上げずに泣いている。背筋を伸ばし、余程近くに来なければ泣いているとわからない。ひょっとしたら、家でもこんな風に泣いているのかもしれない。そうなった理由を考え、私は背筋が寒くなった。
私は授業は取りやめにし、残りは雑談タイムにすると宣言した。ミキちゃんは「すっきりした」と言って、元通りになったことを何度もアピールしたが、私はそれを聞き流した。心配そうに「今日の分は全部宿題にするの?」と聞いてくるので、宿題もなしにする約束をした。申し訳無さそうにするので、私は
「もっと嬉しそうにしなさい」
と笑いながら注意した。
「ていうか、今度キョウちゃんに会いたいな」
「本当に? そしたらキョウちゃん喜ぶよ。キョウちゃんはね、絵が得意なの。一度見た景色は絶対忘れないんだよ」
目を輝かせながら、ミキちゃんが教えてくれる。
「じゃあ海とか連れて行きたいよね。海が無理なら、川とかでもいいよね。近いし。利根川でかいし」
「あ、社会科見学で行ったことある! 男子が落ちた」
「えっ? 川に?」
「まさか。用水路だよ」
ぎょっとする私の顔を見て、ミキちゃんはさも愉快そうに笑った。
別れ際、途中まで一緒に歩くことを提案したが、Mステにオレンジレンジが出るからと断られてしまった。キョウちゃんの件は、とりあえず親に話してみるとミキちゃんは言った。
「宿題は本当になし?」
「なし、ていうか、キョウちゃんのこと親に話すのが宿題」
「おっけー」
「じゃあ、来週ね」
ミキちゃんはカゴに荷物を放りながら、返事をし、自転車にまたがった。雨は降っていなかったが、歩道には所々に水たまりがあり、ミキちゃんはそれをうまく避けながら進み、やがて闇に消えた。来週には梅雨が明けると、天気予報が言っていた。
ミキちゃんが死んだのは夏休みに入ってすぐで、夏期講習のカリキュラムが組まれた直後だった。講習は理科と社会がなかったので、私は担当を外され、笠奈が3教科を見ることになった。笠奈が前期試験に追われていたため、引き継ぎは電話で簡単に済ませた。結局お台場以来、まともに会ってもいなかったので、試験が終わったら海へ行く約束をした。笠奈が新しい水着が欲しがったので、選んであげると言うと
「あのね、そういうのに普通男は来ないの。あと高校生みたいなの選ばれても困るし」
と笑われた。行き先も宿も笠奈があっという間に決めてしまった。
ミキちゃんはあれ以来キョウちゃんの話をしなかったので、私も黙っていた。想像以上に頭の固い両親なのかもしれない。海でお土産を買ってから、改めてミキちゃんと作戦を練ろうと思った。絵はがきを買って、プレゼントすれば喜ぶに違いない。私の授業の2日後に笠奈の授業があって、その週の土曜日の早朝に、ミキちゃんは自室のカーテンレールに紐をかけて首を吊った。特に遺書などはなかった。その事を兼山から電話で聞いた時、すぐに自閉症の妹の事を思い出し、それから授業中に声を出さずに泣いた場面を思い出した。妹のことが、少なくとも原因のひとつであるのは間違いないだろう。自分でもわかるくらい血の気が引いてるくせに、冷静に原因を探ろうとするのが奇妙だった。
「受験のストレスなんだろうな」
と全く見当はずれな理由をつけ納得する兼山が憐れだった。だが、私の方が彼女の本心を知っていたのだから、手を差し伸べるべき人間は私で、結局のところ自分がそれを怠ったから彼女が死んだような気がしてきた。
通夜は葬儀場の都合と、友引を挟む関係で3日後に行われるとの事だった。塾からは、兼山と笠奈と私が参列する。気分が落ち着いてから笠奈に電話をして、とりあえず当日は4時半に迎えに行くと言った。笠奈は思ったよりも冷静で「実感がない」とコメントした。
笠奈はミキちゃんの妹の件は知っていたのだろうか。付き合い出してからミキちゃんの話はしなくなったのでわからない。本当は「俺が殺したのかもしれない」と弱音を吐きたかったが「受験ノイローゼだったのかな」と適当な事を言って誤魔化した。
「ていうか、意味わかんないんだけど」
笠奈は私を責めるような口調で言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます