第3話 ふたりの出会い

 それは、初めは単に小さな発見だったのだ。クラスメイトのからかいから逃れた先が、大学の文学館だった。そこは静かで、暗く落ち着いた空間だったので、数学の課題をこなすにはもってこいだった。

 数式を解いて凝った頭をふともたげたとき。マリノーの視界の端に、見覚えのあるネクタイが映り込んだのだった。書架の間に、緑と金、白の特徴的なストライプが行ったり来たりしている。

(いけない、クラスメイトに見つかった…?)

そう感じたマリノーは、身を固くしたのだった。いつもの癖で、目は泳ぎ、ただただノートの空白を見つめるしかない。


 しかし、いつまで経っても、マリノーのことを脅かすことは起きなかった。不思議に思ったマリノーが再び顔を上げると、例のネクタイは窓際の席にあった。

 それがユースタスだった。いじめっ子ではないと知ってほっと安堵したのだが、同時に好奇心と驚きが内混ぜになってマリノーの胸に湧いた。


 時折濡れたような黒髪を払いながら、何か難しそうな本を広げて、熱心にページを捲っている。どこか大人びた、怜悧で利発そうな顔立ちは、大人ばかりの文学館でも浮いて見えた。そんなユースタスを眺めているうち、「あの」ユースタスと一緒の空間で、同じ時間を過ごしている、ということがマリノーの心に小さな灯を点したのだった。本来なら近付きがたいはずの、皆の羨む存在と−いっしょにいる、ということ−


 声をかける勇気はなかった。

 近い席に座る度胸もなかった。

 ただ、ここに一緒にいる、そのことが面映いような、一種の恥じらいと優越を伴ってマリノーの心を満たした。

 それは、いわば映画スターに抱くような憧れと尊敬だった。


 次第に、マリノー自身知らず知らずのうちに、数学をやるためでなくエマニュエル・ユースタスを目当てにして文学館に通うようになっていった。


 鐘の音の澄んだ音が、夜明けの清らかな光を浴びて鳴り渡った。春のまだ遠い、白く冷たい空気のなか、生徒たちは目覚める。校舎の離れに建つチャペルで、礼拝するのが毎朝の決まりだった。


「主よ、私たちはまた新しい一日を迎えました。私たちの日々の行いが、勉学においても私生活においても、実りあるものとなりますように。…父と御子、聖霊の御名において。アーメン。」

「では聖書を開いて。本日は…」

頭を垂れる生徒たちの頭上に、説教を始めた神父の低い、ゆっくりとした厳かな声が降りる。早起きをした生徒たちの中には、船を漕ぐまいと必死に頭を上げている者もいる。

 マリノーは、しっかりと目を開けて聖書の文字を追っていた。手にはロザリオをかけ、耳は神父の声を余さず拾っていた。

「…つまり友こそはあなたの心の光となるものなのです…」

 この説教を、背筋を伸ばして聴いているのはマリノーだけではなかった。ユースタスもまた、熱心そうに神父の顔を見上げ、相槌など打っているのを、マリノーの目は捉えた。

 やがて、ステンドグラスの光が柔らかに強まるころ、少年たちはまばゆい光の中、校庭へと出てゆく。それはマリノーの栗色の髪や、鳶色の目を刺した。

 しっかりと聖書を抱きかかえながら校舎にもどるマリノーの背後から、それは降ってきた。

−きみ、としょかんにいたろう。

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