異界渡りの魔術師二人
雨天紅雨
黒い狐のクロ
魔術師二人
第1話 黒い狐のクロ
私には名前がなかった。
仲間もいないし、家もない。親もいない。死んでたまるかと、その一念で草を食べ、泥水を飲み、虫を食べて命を繋いでいた。
他人は怖い。
街に入るなど自殺行為、とてもじゃないができるはずもなく――。
――だったら。
どうしてこの人に拾われたのかと問われれば、私にもよくわからない。
黒色の
「おいで」
一言だった。
本当に、たったそれだけの言葉に、どういうわけか私は頷いてしまったのだ。
事情を聞くのでもなく、先を示すのでもなく、ただそれだけ。
森を抜けて街道の傍にまで出ると足を止め、私は見上げるよう顔を見るが、目元を隠す赤色が混ざったアイウェアのせいで、何を考えているのかはわからない。
しばらくすると、彼女と同じ服装の女性が街の方から歩いてきた。
「――なんだ貴様、また拾ったのか?」
「またってなによ」
「ふん。さて、お前の名は?」
「……ない」
本当はあった。そう、あったのだ。
けれどそれは両親から貰い、両親を失った時に捨てた。
「ふむ」
「なんだ話せたのね」
「ではクロと呼ぼう。黒色の狐とはなかなか悪くない」
頭に手を乗せられ、耳の傍を触られた。
不思議と嫌な気はしない、なんて思ってから触れられていたことに気付き、一歩下がる。
「安直な名前」
「ほう? 文句があるなら私が熟考した上で、エッダシッドと――」
「やめて!」
「うむ、ならば文句を言うな」
「ったく……それで?」
「レベルが上がれば能力上限が上がるらしいから、魔王の領域とやらに行くぞ。俗称は魔族領だ。ところでクロはスキルを使えるのか?」
「……使えない。覚えない」
そう、だから黒色の狐は迫害される。
弱いから。
「それは良い」
「まったくね。ステータスなんて数字に囚われて、世界が定めたプログラムを引き出すだけのスキルなんて、最悪の組み合わせ。まだ
「見えるからこそ縛られるのは、何も定期試験だけではないからなあ」
「じゃ、移動しましょ。行くわよクロ」
まばたきが、一つ。
私はそこが、空の上であることを一瞬、気付かなかった。
「――っ」
耳が立つ。怖がりながら下を見ると、尻尾が躰の前にくるりと回った。
――怖い。
死ぬ。落ちたら死ぬ。
「クロ、見ておきなさい。足元にある森が、あんたの暮らしていたところよ」
腰が抜けそうになるのを堪えて下を見ると、確かに森があった。
「小さい……」
あんなに広く感じたのに。
「さて、どの方向にあるのかしら」
「おおよそ二時の方向だ。竜もいるらしいぞ、私はまだ狩ったことがなくてな」
「まあいいけど」
よくはない。よくない。自殺行為だ。
けれど私に拒否権などない。
そこから何度か、移動をした。
空を飛んでの移動ではない。いつの間にか周囲の景色が変わっていたので、私にはよくわからなかった。どうして上空かと聞いたら。
「地上よりもこちらの方が、よく見渡せられるだろう?」
なんて言われた。
その通りだと頷けば良かったのだろうか。
「なんて呼べばいい?」
「ふむ、そうだな……では、こいつのことは鷺城先生と呼べ」
「あんたが決めるな」
「貴様はそうやって、いちいち私の言葉を否定する癖をどうにかしたらどうだ? 大した文句もないのにな。そして私は朝霧芽衣だが、そう、中尉殿と呼べ」
「ちゅーいどの? 先生?」
「うむ、それで良い」
それが軍における階級のことだと知るのは、もっと先のことで、今の私にはわからない言葉でしかなかった。
「私たちが、いつまでここにいられるかは知らん。知らんが、その間にお前が生きられるよう育ててやる。――嬉しいだろう?」
「感想を強要しないの。どう考えても速成じゃない」
「だからまずレベルを上げようと、こうして相手を探しているのではないか」
「拾った責任くらい取るわよ」
「当然だ」
何度か移動を繰り返したかは知らないが、いつの間にか地上にいた。十五分くらいなものだろうか。
目の前には、森があった。
森だ。
「……怖い」
「ん? なんだ、怖いことを素直に言えるとは、なかなか良いぞ。まあこれだけ空気が濃ければ、何事かと思うわけだが――鷺城」
「入り口はもう少し先ね」
「では向かおう」
木がそれなりに密集しているためか、足元の雑草は極端に少なく、大きな木が多い。戦闘を中尉殿、私、後方は先生だ。
歩く速度は遅かったが、私はその場の空気に慣れるのに必死だった。
重い。
苦しい。
人間に必要な成分が実は少ないんじゃないかと、そんなことを思うほど、重苦しい。
ここにあるのは、ただの空気なのに。
「姿勢が悪いのよ。クロ、背筋を伸ばす。呼吸は深く、回数を落とす。――そのうち慣れるわ」
「ん」
「ああそうか、失念していた。さすがに魔力濃度が高いか」
「魔力なんて言葉があるのかどうかは、知らないけれどね」
「魔法スキルがある」
「言葉の意味は通じてるわね。世界法則のスキルなら、魔法スキルだもの」
「ふむ……」
「……?」
何を話しているのか、わからない。
「クロ、お前は常識をどのくらい知っている?」
「常識? ある程度は教わった」
「ならば、しばらく忘れた方が良い。そんなことよりも現実が先だ」
大きく風が吹いた。木が揺れて音が鳴る。
黒色の獣が中尉殿を喰った。
その勢いのまま、獣は木にぶつかって大きな音を立てる。
目を丸くした私の視界に、何かが落ちた。
「――ひっ」
息が詰まる。
尻尾を抱き寄せようと手を動かすのに、ちっとも尻尾が前へ来ない――本当の恐怖に直面すると、躰が動かないことを知った。
そして。
「デカイ犬がいたものだな。どれ、血抜きをしたら食えるかもしれん。鷺城、火の準備をしろ。どうせクロはろくに飯を食ってない」
「そうね。じゃあちょっと休みましょうか」
この二人は、先ほどと何も変わらなかった。
化け物だ。
私は今、人の形をした化け物の傍にいる。
「ふむ? どうしたクロ、怯えているようだが――なに、安心しろ。竜より、魔王より、魔物より、私や鷺城の方がよっぽど恐ろしいと、すぐ気付く」
躰が震える。
今度は怖さではない、ぐるりと視界が回るような
両手が尻尾を探す。
全身の毛が沸き立つような不快感――これを、私は知っている。
レベルアップだ。
でもこれは。
「ん? なんだ怖がっているわけではないのか」
いえ怖いです。はい、とても。でもそうじゃなくて。
「レベル、上がって、る」
「なんだそうか、ふむ、目論見通りだな」
「あー、さすがに私らに経験値は入らないか。パーティなら一人総取り?」
「わざわざとどめを刺させる必要がなくて結構だ」
「まあそうね」
一分ほどでレベルアップの感覚はなくなったが、落ち着かなくて尻尾を撫でる。
「はふ……」
「どのくらい上がったか、わかるものなのか?」
「普段は。今はわからない、十とか二十とか」
「それはお前のレベルが低すぎたせいだろう。あの程度の犬で、それほどレベルが上がるものか」
「そうね」
もしかしたら。
――私はとんでもない人に拾われたのかもしれない。
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