私も今でもあなたが好きです。
観月
・
どこかで聴いたような昭和歌謡が流れる居酒屋で、私は喉に脈拍を感じる程緊張していた。飲み物のメニューもソフトドリンクを念頭に入れずに選んだ。「何か食べる?」と差し出されたメニューも、どれも喉に何かが引っかかって食べられる気がしない。
バイトがそろそろ終わろうとしていた。
閑散とした待合室のニュースは天気予報を写している。
「いやね。明日は冷えるって」
「雨じゃなければなんでもいいです」
「あら、お出かけ?」
「恋人とデートの約束をしていて」
ちょっと動くだけで熱くなるお年頃を自称するおばさんの顔が微笑ましそうに笑う。
「いいわね、じゃあ土日はお泊まり?」
「いえ、当日解散で…」
泊まりというワードに何となく後ろめたいような気持ちになった。
私は彼の家を知らない。
そこから先はおばさんと旦那さんとの関係の惚気話に終始した、四六時中通話やLINEをしていないと気が済まないし、土日も必ず一緒に過ごすそうだ。
そんなにはいいかなとは思いつつ、そんなに甘えられるのは羨ましいなとは思った。それに「彼が仕事でも自分の休みなら、彼の家でご飯作って待ってたりしたものよ」というおばさんの言葉が私にはとても苦かった。いつもなら「実は家知らなくて」なんて愚痴っぽく言えるのに、このおばさんなら、きっと思った事を口に出すだろうと思うと言えなかった。それがまた私の後ろめたさに拍車をかける。
「お互い自分の時間も大事にしたいんですよ。少し寂しいけど、寂しいって好きってことだから、私は幸せな時間だと思います。」
と、適当に終わらせて「私なら耐えられないわぁ」と嘆くおばさんを横目に店締めの作業に戻った。
『今日少しだけ話そうよ』
仕事終わりにどうしても気持ちが晴れなくてメッセージを送った。明日デートなのに、わざわざ今日通話しなくてもいいじゃないかとも思った、けどどうしてもモヤモヤして、
『どうして家を教えてくれないの?
どうして家に行っちゃダメなの?
せめて納得できる理由くらい教えてよ』
そんな質問を早く突きつけたかった。
何度もはぐらかされてきた質問。何度もそういう人もいる、常識や私や世間が理解できないことが全て不正や不道徳では無いからと言い聞かせてきた自問自答。
でも、結局何も言えなかった。他愛もない、明日が楽しみになるような、いつもの通話。早く会いたくて、明日の服装やメイク、髪型に頭を悩ませてるうちに眠っていた。
「薄々気付いているだろうけど、既婚者です。」
さんざん躊躇して、いつになく弱って見える彼の口から、存外はっきりとした声で発されたそんな告白が、ストンと胸に落ちた。もう悩まなくて良いんだと安堵にも似た気持ちは、不思議なくらい穏やかなものだった。
「そう、ですか…奥さんとは上手くいってますか?」
もしも上手くいってなかったらなんなんだという話ではあるが、そんなよくある話なのかなという推測の確認がしたかった。
「そうね、上手くいっている方だと思う。」
「それなのによく休日やお盆に外泊なんて出来ましたね。」
「多分、あの人は俺に興味が無いんだと思う。」
どこか遠くをみているような、何も見ていないような顔で「家庭で必要とされている気がしない」と、彼は続けた。だから私から好きだと言われ、必要とされることに舞い上がって、その気持ちに応えたくなったのだと。
私は、ただ冷静にそれを聞くしかなかった、何かを考える余裕がなかっただけかもしれない。でも言うべきことは分かっていた。
「小さな子供いますよね?通話中に一度だけ声を聞きました。慌てて電話を切ったの覚えてませんか?」
「全く覚えてない…」
お酒が入ると断片的に記憶をなくす癖が面白くて、頭を抱える彼をいつも通りからかうように笑ってやった。
「まだ小さいから気持ちや言葉は上手く伝えられないかもしれないけど、子供にとってお父さんは絶対に必要です。子供がいるから親は性別を捨てなければいけないわけじゃないけど、それでも基本は子供軸でなくてはいけないと思います。」
私はきっと自分の親にそう言いたかったのかもしれない。そんな私だからきっと伝えられることがあるはずだと信じたかった。
「そうね」と答える彼が何を考えているのか私には分からなかった。でも、私が知りたかったことも、言いたかったこともこれが全てだったと思う。私はどこまでも子供だけど、彼の子供よりお姉さんだから、欲しいからって取り上げるようなことをしちゃいけない。
その後も「なにか質問があれば」と言われたけど、大して何も聞かなかった。意味があった質問はきっと「部屋着はお返ししましょうか?」くらいだ。別れを明確に告げる言葉より幾分スマートで、マシな表現が出来たと我ながら思ってる。(因みに、いらないとの事だったので、私の部屋着として再利用することにした。)他に聞きたかったことあるがとすれば「本当に私の事好きでいてくれましたか」とか「ちゃんと失恋してくれましたか」とかそんな事だったけど、きっと野暮だし、そんなことを聞く女だという印象を残したくないなんていう背伸びで聞けなかった。
私はこの人といる間ずっと大人の振りをしてきたけど、こんなに強がって背伸びをした夜は初めてだったように思う。
それにあんなに弱られては、私が強くいるしかないじゃないか。
駅までの道すがら鞄に添えていた手も、もうあの握れもしない彼の手の感覚ばかり懐かしくて「クリスマスプレゼントくらいもらってから別れれば良かった」なんて、冗談を言って誤魔化してもどうしようもなかった。
「それじゃ」と反対のホームに降りる背中を見守る余裕もなく早足に過ぎ去ったのは、こらえた涙が限界だったからで、それでもホームに降りてから対岸を盗み見ようとしたのは本当は泣き顔を見て欲しかったからかもしれない。なんの背伸びも嘘もない私を最後くらいは知って欲しかったのかもしれない。私は強く見せるために背伸びをするんじゃなくて、背伸びをしなくていいんだよって言って欲しくて背伸びをしてたんだって、最後くらいは当てつけてやりたかったのかもしれない。
でも、彼の背中は行き交う電車に阻まれてついぞ見つけられなかった。
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