第三十七話 決意
大輝が大隊で話し合いが行われていた部屋へ行った時、そこには伊吹だけがいた。
伊吹は、物憂げに窓の外を見ていた。
秋は、日が沈むのが早い。傾きかけた太陽の光を受けて、淡く光る輪郭。遠くを見つめる少し色素の薄い瞳。ほっそりとした指先が、何かを考えるように――何かを誘うように――薄い唇をつうっとなぞった。
それは部屋の静寂とも相まって、それだけで一幅の絵画のようだった。
大隊対抗戦が終われば冬が来る。そして、冬が終われば、卒業演習だ。それで伊吹は引退し、卒業してしまう。
こうやって、伊吹と一緒にいられるのも、あとどれほどあるのだろう。
大輝は最近、そのことばかり考えている。
考えているのだが、結論は出ない。腹は、括れない。
自分がこんなに臆病な男だったのか、と眠れぬ夜を何度も過ごしていた。
「――おや、大輝」
入り口で躊躇していた大輝の気配に気がついて、伊吹が声をあげた。
「どうしましたか。そんなところで止まって」
「……いや、考え事の最中かと思って。――邪魔しました?」
「いいえ。ただ、外を眺めていただけなので」
伊吹は、ふわりと笑うと、こちらへ来いというように、体をずらした。近くにあった
その、気安く隣を勧める様子に、そこまで近づく事を許されている優越感が湧き上がる。だが、その先は?
この人に、俺はどこまで近づいてもいいのだろう。俺は、どこまで近付きたいのだろう。
どこまでも近付きたいという欲と、この綺麗なものを綺麗なままで眺めていたいという憧憬が、大輝を
大輝は内心を悟られぬよう、平静を装って声をかけた。それくらい格好つけられなくてどうする。
「何が見えるんです?」
「特に、何も。ただ、山が色づき始めているので、もうすぐ紅葉狩りだなぁ、と思って」
伊吹のいう通り、近くに見える山は、色づき始めていた。もうすぐすると、ここから見える山は紅葉で一面、真っ赤に染まる。
「『紅葉狩り』って、何するンすか」
『紅葉狩り』という言葉は聞いたことあれど、そういう風流な催しとは縁のなかった大輝が尋ねた。
「……あぁ、『狩り』と言っても、実際に木を
「はぁ〜……」
大輝の相槌から「なんでそんな腹の膨れない事を」という気持ちが伝わったのか、伊吹が補足した。
「自然を愛で、風雅を味わうのが『紅葉狩り』の醍醐味ですよ」
「そんなもんなんすね〜」
『紅葉狩り』が大輝の心にちっとも響かなかった事を感じたのだろう。伊吹が話の方向を若干、変えた。
「一般的に『紅葉狩り』というと、紅葉を愛でる事を指しますが、楓の所――三条家は本当に狩りに出かけるんですよ」
「紅葉を?」
「いえ。鹿や猪なんかですね。――楓が生まれたのが、ちょうど紅葉狩りの季節だったので、三条家では『紅葉狩り』と称して、それはそれは盛大な宴を開くのです。その一環ですね」
生まれた祝いに宴を開く、という贅沢さに大輝は目眩がした。そして、それをなんでもないことのように言う伊吹との差を感じる。
きっと、お貴族様――否、伊吹が生きてきた世界では、それくらい当然なのだろう。
なんだかんだ言って、
伊吹は、努めてこちら側に寄り添おうとしてくれているが、ふとした瞬間に格差が顔を覗かせる。
それは、伊吹が無神経なわけではない。息吹の想像の埒外に、自分達の生活があるのだ。
そういう時、大輝はそれを指摘しない。それは大輝なりの伊吹への敬意の表し方だった。
だから、何でもないことのように問う。
「伊吹さんも行ったことあるんですか」
「えぇ。毎年、招待されています。……今年も、来て欲しいと楓から言付かっています」
なんとなく、歯切れ悪く伊吹が付け足した。そして、その次を言おうか言うまいか、迷っているような雰囲気を出した。
行ったことがあるかどうかは、聞いてはいけないことだったのか?
大輝が無言で続きを促すと、伊吹は思い口を開いた。
「あの、その宴に、今年は勇輝も参加するのはご存知ですか」
ご存知も何も、宴があること自体が初耳なのだ。それを伝えると、伊吹は意を決したように続けた。
「楓の家の宴は、警備が厳しく、招待された人物とその随従しか入ることができません。勇輝は楓の近習なので、今回参加します。……それで、もし……。もしなんですけど、大輝も参加したいというなら……」
そこで伊吹はいったん言葉を切った。そして、勇気を絞り出すように一息で尋ねた。
「私のっ、近習になりませんかっ」
「は?」
言われた内容が、あまりに自分に都合が良すぎて、大輝は驚いた。伊吹は、近習を作らない主義だったのではないのか。それが、どういう風の吹き回しだ?
「いや、あの……」
大輝が戸惑っていると、伊吹が慌てて言い添えた。
「あの、近習と言っても、その、宴の間だけでも構わないのです。――そうしないと、宴には行けませんから」
その言葉を聞いて、大輝は納得した。優しい伊吹は、勇輝のことが心配だろうと宴に連れて行ってくれる気なのだ。
その伊吹の気遣いに大輝は感謝した。
「俺――」
がらっ。
大輝が口を開きかけた瞬間、部屋の扉が開かれた。
なんとなく出鼻を挫かれた気になって、そちらを見ると、肩で息をした勇輝が立っていた。その顔は真っ赤だった。走って来たのだろうか。
「勇輝?」
どうしたんですか、と伊吹が言うより早く、勇輝が「わぁ、すみません! お邪魔しちゃいましたか?」とやや戯けて声を上げた。その視線は、どこにも定まらない。まるで、瞳を覗きこまれたらよくないことが伝わると言うように。
「――何かあったのか」
勇輝の異変をいち早く察知した大輝の厳しい声に、勇輝の視線がより一層忙しなく移動する。明らかに動揺している勇輝に、大輝は焦った。
「おい!」
立ち上がりかけた大輝に観念したのか、勇輝が口を開いた。
「――えぇと、その……先輩に、絡まれて?」
何でそこが疑問形なんだ、と大輝が突っ込む。
「多分、絡まれたんだと思うんだけど。なんか、声かけられて……」
だが、話しているうちに気持ちが落ち着いてきたのか、物事が整理されたのか、勇輝に確かめつつ話すようなところは無くなっていった。
詳細はぼかされていたが、食堂からの帰りに先輩二人に声をかけられたらしい。
大丈夫だったのかと問いかける前に、楓の名前が出て来た。すると、途端に勇輝の口調が怪しくなる。
「それで、その、楓に……、楓に……助けられて?」
勇輝があぁ、そっか、助けられたんだ、と口の中で小さく呟く。その事実に今気がついたようだった。
「先輩って……」
伊吹がその絡んだと言う先輩を確かめた。
「あの、それが……和倉先輩と、山崎先輩なんです」
勇輝が言いにくそうに絡んだと言う先輩の名前を言う。その様子を見て、大輝は、「勇輝は優しいから、告げ口するような真似が嫌なんだな」としか思えなかった。
だが、その名前を聞いた伊吹の反応は違った。
「和倉と山崎が?」
そんなことはありえない、とでも言うように再度、確認する。勇輝も、その疑いを当然のように受け止め、それでもはっきりと言い切った。
「そうなんです。明らかに『僕』とわかって、それでも……」
大輝には、二人が何を問題にしているのか、わからなかった。それでも話は進んでいく。
「勇輝が狙われた? それとも?」
「多分、僕は口実で……。その、『近衛』も『三条』も口にされました」
「どちらかは隠蔽か、それともどちらもか……」
「あの、僕の感触ですが、どちらも……というか、『伊吹隊』が狙われたような気がします」
「私達が? それはどうして?」
「いや、あの、何となくなんですけど……」
「おい! 勇輝! 貴様、近習のくせに主人を放っていくとは、いい度胸だな!」
いい加減焦れた大輝が口を挟もうとした時、楓が怒りながら入って来た。
だが、伊吹は楓の怒りに取り合わなかった。
「楓! 勇輝が絡まれたと言うのは、本当ですか? あなたは大丈夫でしたか?」
楓は、伊吹の勢いに一瞬驚いたものの、すぐに平静に戻った。
「えぇ。でも、私が一言言ったら、すぐにしっぽ巻いて逃げましたが」
楓は、どこか誇らしげだった。だが、伊吹はそれに取り合わず考え込む。
「『和倉』と『山崎』が、『三条』に絡む……? 何かあるのか?」
考え込んだ伊吹に、その思考を手助けするように勇輝が自分が知っている『事実』を提示する。
「あの、以前、お二人と『柳原』先輩が話しているのを見たことがあります。その時は、そう言うこともあるかと思って流してしまったのですが、今思えば……」
勇輝が叱責を恐れるように、おずおずと口にした。だが、大輝はその内容の何が悪いのかはわからなかった。
勇輝が口にした『和倉』も『山崎』も『柳原』も、話したことはないが顔くらいは知っている。
皆、平凡で取り立てて問題にするような先輩たちではなかったはずだ。
その三人が話していたことの何が問題なのだ? 同じ渾天院に所属しているのだ。言葉を交わすことくらいあるだろう。
伊吹が考えこんだ事を契機に、三人の会話が途切れた。それで、大輝は、こっそりと勇輝に訊ねてみた。
「なんかまずいのか」
「まずいって言うか……まずくなりそうって言うか」
勇輝の説明はこうだった。
和倉も山崎も、家格は低いけれど、近衛家、つまり伊吹の派閥に属する者である。一方の柳原は、近衛とはあまり関係のよくない、――明言すれば、対立している松殿家とかなり懇意にしている家である。
それが、用もないのに立ち話などするはずがない。
どういう思惑かわからないが、松殿家は、下流とはいえ近衛家の一派と接触した。
そして、接触された彼らは、今日、行動に出た。
それを無関係だと思うのは、よっぽどの
大隊対抗戦を控えたこの時期。対抗戦で何かあるのか、それとも他の思惑か。
三人は、大輝を置き去りに話し合った。そして、その結果、
「相手の考えはわかりませんが、軽々に判断しないほうがよろしいでしょう」
と伊吹がまとめた。
本当に松殿家が動いていたのなら、それは家同士の駆け引き、政治的な判断が必要になり、慎重な対応が求められる。
だが、そうではなく、和倉と山崎が、彼らの愚かしさから勇輝にちょっかいをかけただけなら、それは家が出るまでもない。渾天院内部で処理すべき事案である。ただの火遊びに家まで動かせば、それは彼らの将来に傷をつけてしまいかねない。
「俺の勇輝に手を出そうとする奴らなど、容赦してやる必要はありません」
伊吹の弱腰な結論に、楓はそう反論したが。
「楓はもう少し、政治を覚えたほうがいいよ。『柳原』単独で動いているならそれでいいかもしれないけど、後ろに『松殿』がいるなら、慎重になるべきだ」
「勇輝がそう理解してくれていて、ありがたい。彼らの愚かな振る舞いを決して許すわけではありませんが、少し調べる時間をください。下手を打って『松殿』につけ込まれても面倒です。――勇輝、あなたが受けた侮辱の贖いは、必ず彼等に取らせると約束します」
渾天院に入ってから今まで、伊吹に薫陶を受けた勇輝は、伊吹とよく似た思考回路をしていた。
二人の間で話がつく。そうすると、楓も二人の意見を曲げてまで自分の意見を通すつもりはなさそうだった。
◇ ◇ ◇
勇輝が絡まれたと言うのに、そして、それは伊吹にも関係がある事だと言うのに、大輝には自分に関係がある話に思えなかった。
それも当然だ。大輝にとって喧嘩は、その場で売ったり買ったりするもので、権謀術数とは縁がなかった。向こうが売って来た喧嘩を買うか買わないかに、腕力以外の要素を考えたことがなかった。
伊吹隊に入って以降、因縁をつけられる事もあったが、全て腕力でねじ伏せて来た。自分の役目はそうだと思っていたし、実際、周りからは腕っ節の強さを求められていた。それで、強くなることには熱心だったが、頭を使う事、つまり、上流階級特有の面倒臭い駆け引きなどは、全て勇輝に丸投げしていた。
その結果が、これである。
これでよく、伊吹の隣に立ちたいなどと言えたものだなと肝が冷えた。
伊吹の隣にあるためには、腕っ節だけでは駄目なのだ。
将来、彼は老獪な、魑魅魍魎とでも呼べる者達に取り囲まれるだろう。
その時、自分の浅はかさで彼の足元が掬われるようなことになりでもしたら……。
それは想像するだに恐ろしいことだった。
今まで、自分にはどこか甘えがあった。
伊吹と勇輝と、俺。
その三人で、ずっとどこまでも行くのだと思っていた。
だが、ここに来て、急に勇輝が自分の手から離れて行った。
それは勇輝自身の選択だし、それについて大輝はどうこう言うつもりもないのだが。
勇輝が手の中から消えてから、大輝は初めてそういう
小さくてかわいい俺の『
最初に守られたのは自分の方だったというのに。
いなくなって初めて、勇輝にどれほど甘えていたかわかった。勇輝が何でもないことのようにこなしていたことの大変さを、一つずつ実感している。
◇ ◇ ◇
「大輝、それで、あの……」
勇輝と楓が退室した部屋で、伊吹がおずおずと切り出した。先ほどの宴の話だろうということはすぐに見当がついた。
この結論を出すのがもう少し早ければ。大輝は二つ返事で了承していただろう。
だが、気がついてしまった。それなら――。
「伊吹さん。申し出はすごくありがたいんですけど、俺は行かねぇ、です」
「え?」
断られると思っていなかったのだろう。伊吹が驚いた声を出した。
大輝自身も断るとは思っていなかったから、当然だ。
大輝は苦笑しながら続ける。
「や。確かに勇輝のことは心配ですけど。それであんたの信条を変えさせるのもおかしな話でしょ」
「そんな! 遠慮しなくても……!」
「あー、遠慮とかじゃなくて。今の俺は、
さっきまでだったら何も考えず、喜び勇んで首を縦に振っていただろうと思うと、自分の浅はかさが嫌になる。だが、そのおかげで気がつけた気持ちもあった。
「誰がそんな事を!」
「どうどう。俺ですよ、俺。俺がそう思ってんの」
自分の気持ちを認めると、こうも落ち着くのか。楓に好きだと伝えた時の勇輝も、こんな気持ちだったのかとふと思った。
この気持ちが少しでも伊吹に届くようにと、彼の目をひたと見据えて言葉を紡ぐ。
「伊吹さん。俺はあんたの近習になりたい」
なら! と勢いこむ伊吹を目線で制す。
「でも、そこに情けはいらない」
「――っ!」
そうだ。様々な理由をつけて、誤魔化して、伊吹の近習になる事はできる。だが、大輝はそうしたくないし、伊吹をそんなことする人間にもしたくない。
どうせ隣に立つなら、堂々と。誰にも文句を言わせない
この人の隣には、俺しか立てないと。他の奴では力不足だと。
「勇輝のことは心配だけど、あいつはあいつで何とかするだろ。……俺はいつか、正々堂々とあんたの近習になってみせるから」
だから、首を洗って待ってて、と言うと、伊吹は泣きそうな顔で微笑んだ。
「それを言うなら、『首を長くして待っていて』、でしょう?」
伊吹はそう言うが、『首を洗って待ってろ』であっているのだ。
本当にそうなった時には、もう絶対に伊吹を逃さないと決めたのだから。
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