第三十六話 因縁
「他に何か案は?」
伊吹が部屋を見渡しながら言った。部屋には第一大隊の中隊長およびその補佐が来ていたが、その言葉に反応するものは特にいなかった。
「なら、今後はこの予定で進めようと思う。――皆、よろしく頼む」
伊吹がそう締めくくって、会議は終わった。
会合が終わると、部屋に一斉に弛緩した空気が流れる。
ざわざわとした空気の中、勇輝は会合の内容を帳面にまとめていた。
もうすぐ、大隊対抗戦が行われる。今日はそのための話し合いが行われていた。
と言っても、伊吹率いる第一隊は、奇を衒うことなく堅実に勝ちを取りに行くだけだ。それだけの実力はあると、ここに揃った者達は自負している。
「伊吹先輩。これでよろしいでしょうか」
勇輝は書き終わった帳面を伊吹に見てもらう。もう、何度も書いたので、書き方は分かっているが、この時間はいつも緊張する。
「いいですね。わかりやすくまとまっています。――ありがとうございます」
そして、こうやって褒めてもらうと、自分が何か価値のある人物になれたような気になって、嬉しくなる。勇輝は、この時間があるから、雑用も嫌いではなかった。
大隊対抗戦は、その名の通り、大隊同士で戦術を競う。決められた戦場で、大隊長指揮の元、各隊員が陣を組んでぶつかり合うのだ。
それは、大隊長の指揮力だけでなく、大隊の練度も重要になってくる。今から、大隊対抗戦までに、何度も陣を組む練習をして、練度を上げる予定だった。その練習の日取りや内容を詰めるのが今日の目的だ。
他の中隊長補佐が、皆に出した湯飲みを片付けようとしているのを見て、勇輝は声をかけた。
「あ、いいですよ。僕、食堂に持っていきます」
「そうか? 悪いな」
これから、各中隊は練習のために動き出さなければならない。それを見越して、勇輝が後片付けを引き受けた。
「伊吹先輩、ちょっとこれ、片付けてきますね」
「うん、よろしく頼むよ」
中隊長の一人と話し込み始めた伊吹に声をかけて、一人、食堂へと向かう。洗い場は、そこにしかないからだ。
秋も深まり、井戸の水は予想以上に冷たかった。冷たさに痺れる指の感覚は、冬の訪れを予感させた。
勇輝は、何と無しにうそ寒くなり、手早く人数分の湯飲みを洗うと、そこを後にした。
これから、先ほどの話し合いの結果を大輝・楓を含めた小隊で共有するのだ。それが終われば、今日の用事はお
伊吹の元へ帰る勇輝の足取りは軽かった。
先ほど伊吹に褒められたのもあるが、近習として上手くやっていけているのも大きい。
最近、楓は我儘を言わず、主人とはかくあるべし、という姿を勇輝に見せてくれていた。だから、勇輝は、このまま、主人と近習としていい関係を築いていけるのではないかと思い、それを嬉しく思っていた。
まるで、あの夜のことなどなかったかのように。いい先輩と後輩のまま、それが主人と近習置き換わったようだ。
自分の気持ちを自覚した勇輝にとって、それは少し寂しいことのように思えたが、楓の近くにいて、楓を支えられていると実感するたびに、これでいいのだと言う思いが湧き上がってくる。
実際に楓も、勇輝には他の近習に見せない穏やかな顔を勇輝に向けてすることがある。それを見るたびに、勇輝の心は喜びで満ちるのだった。
(小隊での打ち合わせが終わったら、すぐ夕餉だろ。あぁ、その前に、汗を――)
「雌犬が尻尾振って、飼い主のところにご帰還とくらぁ」
突如耳に飛び込んできた言葉に、勇輝の思考が凍りつく。
先ほどまでの浮かれていた気分が、冷水をかけられたように一気に冷えた。
(今、何と言われた?)
言われたことが信じられず、思考が停止する。
振り返ったそこには、先輩が二人立っていた。その二人は、悪意を湛えた嫌らしい笑みで勇輝を見ていた。
「『近衛』の次は、『三条』か」
「お前の兄貴も楽だよな。お前みたいな『使い出』のある妹がいてよ」
続けられた言葉に、ようやく何を言われているのか理解し、下がった血が一気に頭を突き抜けていく。
「
「違わねぇだろ。みんな言ってるぜ。お前ら、体使って、上手くやったなって。なぁ?」
そう言って、二人はニヤニヤと嫌な笑みを交わし合った。それは、まるで勇輝が知らない『勇輝の事実』を知っているとでも言わんばかりの表情だった。
「僕達は、そんなんじゃない!」
それは、勇輝達二人の努力に対する侮辱だった。そして、伊吹に対する侮辱でもあった。
伊吹は、優しく公平だが、それゆえ時には無情にもなる。その伊吹に、ふさわしくあろうとしたのだ、二人は。そのための努力は、並大抵のものではなかった。
なのに、その努力を認めず、体で取り入ったように言われるとは……!
勇輝は否定したが、二人には全く届かずに、虚しく消えた。そもそも、相手は勇輝の言葉を聞く気がない。
「何言ってんだ。三条の坊ちゃんにあんなに尻尾振って付き纏っておいてよぉ」
「ガキので満足できてんのか?」
「――!!」
二人は、話しながら勇輝の傍まで移動していた。勇輝を廊下の壁に挟むように取り囲む。だが、先程の言葉に衝撃を受けている勇輝は二人の接近に気が付かなかった。屈辱に身を震わしながらも、はっきりと否定する。
「僕は、楓の近習だ。それ以上でも以下でもない」
「近習……? 近習、ねぇ」
勇輝の言葉に説得力がないのは、自分でもわかっていた。
なぜなら、もう、楓とは、三度、関係を持ったからだ。だが、それは、体で取り入ろうとしたからではない。
それに、色々あったが、もう二人は『主人と近習』になったのだ。これまでのように馴れあわず、適切な距離を保っていくつもりだ。
「近習ってか、小姓だろ」
「なんッ――!!」
楓と関係を持ったことは、伊吹隊以外の者は知らないはずだった。
なのに、なぜ、この二人は、それを知っているかのように話すのだろう。
伊吹や大輝が他人に話すわけがない。なら、……楓? そんな、まさか……。
ぐるぐると疑念が頭の中を渦巻く。
それに気をとられていた勇輝は、二人が巧みに勇輝の動きを制御していることに気がつかなかった。
彼らは、勇輝が会話に気を取られている隙に、動きや言葉で勇輝を威圧して、思った通りの方向へと誘導していく。
『思った通りの方向』。それは、あまり人の来ない、使われていない部屋が並ぶ方向だった。
勇輝は、先輩たちの思惑通り、おもしろいくらいにふらふらと移動する。その姿はまるで
◇ ◇ ◇
勇輝本人の自覚のないまま、このまま空き部屋に連れ込まれるかに思われた、その時だった。
「お前たち! 何をしている!」
鋭い声が廊下に響いた。その声の主は、ずかずかと三人に近づくと、遠慮なくその間に割って入った。
「楓!」
「――チッ」
そこに現れたのは、楓だった。声同様、鋭い表情で先輩二人を睨みつける。
勇輝の驚いた声に紛れて、舌打ちの音がした。だが、それも一瞬で、二人は、先ほどとは違う、にこやかな表情に打って変わった。
「――これは、これは。三条家の楓様ではないですか!」
「どうされました? そんな怖い顔をされて」
「……ふん、白々しい。今、お前たちは何をしようとしていた!?」
だが、楓はそんな様子を一顧だにしなかった。さらに強い調子で詰問する。
それに気圧されたのか、先輩の一人が、勇輝に助けを求めるように話を振った。
「何って、ただ話していただけですよ。――なぁ?」
「なぁ?」と言われても、勇輝に彼らを助ける義理はない。ふるふると首を振ることで、否定の意を表した。その勇輝の様子に、楓の目が細められた。
「――ほう? 到底、そうは見えんかったが?」
「ちょ、楓……!」
楓はそう言うと、勇輝の腰をグイッと引き寄せた。二人に見せつけるように密着する。
久しぶりの体温に、勇輝の心臓が違った意味で脈打ち始めた。
――のも、束の間。
「悪いが、これはもう俺のでな。女が欲しいなら、いい店を紹介してやっても構わんが?」
「楓!」
楓の言葉に、勇輝から悲鳴が上がる。だが、誰もそれを気にしている様子はなかった。
「……いやぁ」
「俺達は……別に……」
勇輝に何をしようとしていたのかを見透かされた先輩二人は、顔を見合わせてもごもごと誤魔化そうとする。
その二人に、楓は嘲りを隠さない表情で付け足した。
「――あぁ、すまなかった。お前達は三両侍だったな。そんな禄では、女も買えんか」
「なッ……!」
明らかに馬鹿にするようなその言い草に、先輩達の顔色が変わる。
「何をいきり立つことがある? 実際、そうだろう? お前達の中には、金に困って身内の女に内職させている者がいるとも聞いたぞ? ……あぁ、そうか。その辺に立ってる夜鷹の中に、お前らの姉や母が混ざっているから、怖くて女を買いにもいけんのか」
それは、端で聞いている勇輝でさえ、「これは……」と思うような、あまりにもな言い草だった。
「貴様!!」
先輩二人は、勿論、平静ではいられない。顔を赤黒く染めて、楓に詰め寄る。
しかし、自分よりも体格のいい人間に襟元を掴まれても、楓は落ち着いていた。
「なんだ? 俺と事を構える気か? ――お前らが?」
最後の一言は、これまでの『楓』ではなく、『三条家次期当主』として発せられた。
その一言は、たった一言であったのに、犯すべからざる高貴さが漂っていた。
格が違うとは、こういう事を指すのだろう。
ガラリと変わった楓の雰囲気に、思わず気圧されたのは、勇輝だけではなかった。
先輩たちも、楓の襟元を掴んだまま、動きが止まる。その表情からは、逡巡が見てとれた。
確かに、楓の指摘通りだ。ここで楓を殴ろうものなら、事はこの場だけでは収まらないし、楓もおさめるつもりはなさそうだ。
そうなれば、渾天院で話は止まらず、必ず家まで話は縺れ込むだろう。そして、それは楓の家、『三条家』と正面切ってやりあうのか、と言う話になる。
一瞬の静寂が廊下に落ちる。だが、それも一瞬だった。
「おい、やめろ。……行こうぜ」
比較的冷静だった一人が、楓の胸ぐらを掴んだ方を止める。彼は、そこまでの覚悟はなかったようだ。
友人の言葉に、もう一人も胸ぐらを掴んだ手を離した。だが、腹の虫が収まりきらなかったのだろう。
「――チッ! 女連れて、化物退治たぁ、お貴族様は優雅で結構なこった」
捨て台詞を残して、去って行った。
「……ふん。なんだ。羨ましいなら、羨ましいとそう言えばいいだろうに」
楓の面の皮の厚さもなかなかなもので、先輩の嫌味は全く効いていなかった。
だが、勇輝は違った。
「勇輝、お前は何をしてるんだ。遅いと思って見に来れば。あんな奴ら、さっさと
これだから、心配でお前を一人にできないんだ、と楓は続ける。
その顔には、勇輝の危機を救った誇らしさのようなものが見えた。
それに対して勇輝の口から出たのは、感謝の言葉ではなかった。
「……楓、なんで、あんなこと言うの?」
「は?」
勇輝は、腰を掴む楓の手をバシッと払い除けた。
その強さに、楓は顔を顰める。
「何がだ?」
「僕が……、僕が、楓の、おっ、女……だとか言うの」
勇輝は、顔に血が上る、と言うのを初めて経験していた。鏡を見なくても、顔に血が集まり、真っ赤になっているのがわかる。
それは、怒りか、羞恥か。そのどちらでもあるのかもしれなかった。
ぐちゃぐちゃした感情で、頭の中は沸騰していた。
「言ったら、悪いのか。お前は、もう、
「僕は、
強い声で否定すると、目に見えて楓の機嫌が悪くなった。だが、それがなんだというのだ? 先に馬鹿な事を言ったのは、楓の方だ。
「何を、今更。お前は、俺の物になると言ったのではなかったか」
「僕は、楓の近習になるとは言ったけど、楓の物じゃない! 小姓みたいに扱わないで!」
せっかく、いい主従関係が築けると思っていたのに。
このまま穏やかに、従者として楓の成長を間近で見守っていこうと思っていたのに。
楓はそうではなかったのかと、裏切られたような気になっていた。
近習と小姓では、役割が全く違う。だから、楓から近習にならないかと言われた時、近習ならと承諾したのだ。
なのに、ただ、楓は渾天院において、小姓が認められていないから近習と名をつけて側に置いているように振る舞った。
勇輝の気持ちを知って、その気持ちを拒んだのにも関わらず、だ。
それが勇輝には許せなかった。
じわりと、目の端に涙が
「ゆう――」
「楓の顔なんか、見たくない!」
涙を見られるのが嫌で、胸の中のぐちゃぐちゃで楓を傷付けたくて、勇輝はそう叫ぶと楓の制止を振り切って駆け出した。
叫んだ後の楓の顔は、見ていなかった。
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