第二十三話 神降ろし
「――撤退、しましょう」
伊吹が山の主だったモノを見つめながら言う。これは、自分たちが手に負えるものではない。
それは冷静な判断だった。神にも近しい存在を、たった八人でどうこうできるわけがない。撤退したとしても、全員無事で逃げられるかどうかすら、わからなかったが、生存の可能性が高いほうに賭けるしかなかった。
伊吹の言葉に、皆の足がじりっと下がった時、声が聞こえた。
『
それは勇輝の口から発せられていたが、人の声にはない不思議な響きを伴っていた。
勇輝が伊吹達を振り返る。その瞳からは、涙が流れ落ちていたが、顔からは一切の表情が消えていた。
『戦いにその身を委ね、戦うことを喜びとする者共よ。あの哀れな生き物を恐れるのか。あの悲痛な声が聞こえぬのか』
勇輝の瞳は、全てを見ていたが、何も見ていなかった。全てを俯瞰し、一切を通り過ぎていた。
「神が……、降りてきた……」
大輝の口から、呆然とした声が漏れる。彼の言葉通り、勇輝は今や神と同化していた。
これは、『神託』どころではない。都の第一位の
その余りに神々しい光景に、皆は息をするのすら忘れていた。
その身の内から淡い光を発しながら、勇輝の姿を借りたモノは命令する。
『
『出来ぬとは言わせぬ。人の子よ。同じ人の咎を、その身で償う機会をやろうぞ』
勇輝の隣で、オオカミが口を開いた。二人は同じ光に包まれ、それは紛うことなく神であった。
りぃーーーん
何処からか甲高い鈴の音が鳴り響いた。それを合図に、勇輝が鉾鈴をしゃん、しゃんしゃんと鳴らす。
勇輝の口から漏れ出たのは、単音で構成された古語による
それはこの国に暮らす人々の原風景だった。
ざぁっと葦原が目の前に広がり、そこを風が通り抜ける。鳥になった皆は、神の視点から地上を見下ろし、そこに生きる人と動物の間を抜け、葦原を飛び出すと、山へと駆け抜ける。木々の間を通り、山の生命の息吹を感じ、時間も空間も曖昧になった頃、ここに戻ってきた。
空間が浄化され、四肢に力が
『我が依り代と
その言葉に、大輝が動いた。大輝しか、動けなかった。
彼は、勇輝の身の内にあるソレを畏れると同時に、怒っているようだった。爛々と目を光らせたまま、確かな足取りで勇輝の前へ進み出た。
勇輝のようであって、そうでない者の目を見据えたが、ソレから視線が返って来ることはなかった。
茫洋とした瞳のまま、ソレは言った。
『お主に、我が力の一部を分け与えよう。太刀を』
大輝は、それの命令通り、すらりと太刀を引き抜くと、両手で掲げ持った。
『我が依り代と縁の在る者よ。主は光だ。全てを照らし、導く光であると同時に、大きすぎるが故、無慈悲な光熱を併せ持つ。力に驕ることなく、我が依り代を照らすものであれ』
勇輝の掌が太刀の上を滑る。それに伴い、太刀が
それは春の陽射しであり、夏の炎陽であり、秋の木漏れ日であり、冬の暁光でもあった。
『……主は炎陽だな。こちらが焼かれてしまいそうぞ』
ソレは愉快そうに言葉を紡いだ。だが、大輝は反応することなく、頭を垂れ謝意を表すに留めた。その不敬でないギリギリの仕草に、勇輝の中の神は大いに喜んだ。
戦神であるそれは、従順なだけの眷属は望まない。
勇輝の顔で、勇輝が見せたことのない表情で破顔する。愉悦の中、ソレは言った。
『
その言葉とともに、時間が動き出す。
猪が
いつの間にか、山猪の群れが戻ってきていたが、彼らの敵ではなかった。
神から力を賜った大輝を先頭に、偃月の陣を敷き、次々と山猪を屠っていく。
鬼神もかくやという勢いの大輝。そして、それを脇から支援する他の者達。彼らが討ちもらした山猪は、狼によって屠られていく。
彼らに守られながら、勇輝は舞った。神に捧げる戦いの舞を。
ゆるり、ゆるりと袴がなびき、五色絹が空を横切る。しゃんしゃんとなる鈴の音に合わせて、勇輝が詠う。
その表情は戦いの喜びに満ちていた。血の臭いに酔い、断末魔を玉音とし、生と死の狭間の攻防を愉しむ。生の昂りも、死の絶望も等しく受け止め、己が糧にするその様は、人ではなく。正に軍神の顕現だった。
山猪の屍の山が築かれ、大輝達はじりじりと山の主だったものに迫っていった。
自らの不利を悟ったのか、山の主だったものが大きく鳴き、前脚を高く上げ威嚇した。
「大輝。行きなさい」
「ここは任せろ」
両脇から伊吹と楓の力強い声がした。それに背中を押されるように大輝は駆け出した。
「うおおおぉぉぉ!」
「ギイィィィィィ!」
彼の口から発せられた咆哮は、獣と寸分違わなかった。それに呼応する様に猪も負けじと吠える。
大輝は、もはや自分が人か獣かわからなかった。ただ、大いなる力に導かれ、その力を振るうだけであった。
大輝は山の主だったモノに真正面から向かって行った。相手も猪だ。猪突猛進。真っ直ぐしか進めない相手に、小細工を弄するなど卑怯だ。
人と猪が正面から相対する。この一撃が全てだと、お互いの瞳が語っていた。
大輝は、猪の牙に貫かれる直前、グッと沈み込むと、飛び上がった。
「
大輝の太刀が眩い赫に染まり、猪を、山の主だったものを脳天から真っ二つに割った。
大輝が飛び上がったその下を、猪の巨体が通り過ぎていく。
山の主は、その命を散らされながらも、勢いはすぐには止まらなかった。
どどっ、どどっと駆けた後、地響きをさせながら、倒れ込んだ。その勢いで、ビシャッと脳漿が飛び出す。どくどくと地面に赤い染みが広がる。
断末魔の悲鳴すら残さず、山の主だったモノは、その
その後ろで、はっ、はっ、と荒い息をしながら、大輝が片膝をついた。太刀を地面に突き刺し、それにすがりついていなければ倒れ込んでしまいそうな有様だった。その身に余る力を使い、消耗したことは明らかだった。
すうっと刀身から光が消えていく。光は消えたが、大輝の中にその力は感覚として残った。
そして、大輝は知った。この力は、ただ滅するだけのものではない。
――なら、まだ仕事は残っている。
◇ ◇ ◇
「大輝!」
猪を倒し、片膝をついた大輝を見て、伊吹が悲鳴に近い声を上げる。
山猪達は、まだ駆除し切れていない。立つのもやっとの有り様であれば、その牙に貫かれるのは時間の問題だ。
伊吹は、なんとか大輝の近くへ行こうとするが、山猪の群れに阻まれて辿り着けそうになかった。
「大輝! 立ちなさい!」
無理とはわかっていても、そう叫ぶ。こんな所で、大輝を失えない。
焦燥にかられる伊吹の横を、すうっと光が通り過ぎた。それは、勇輝だった。否、神か。
その威容に、思わず手を止め、魅入った。それは伊吹だけでなく、その場にいた全てのものも同じだった。
勇輝は、戦場を悠々と歩き、山の主だった
そして、着物が汚れるのもかまわず、その血だまりの中へと足を踏み入れた。
その横たわった骸を見下ろすと、傍に膝をつく。
『
そう呼ばれ、大輝がぐっと立ち上がった。
気力を振り絞っているのだろう。ゆっくりだが確かな足取りで、ソレの元へ行く。
大輝が見下ろす先で、猪の目は、まだ光を失っていなかった。びくびくと四肢を痙攣させ、命が尽きるのを待っている。
『主にやった力は、滅するだけのものではない』
ソレの言葉に、大輝がこくんと頷く。のちに大輝は説明してくれた。この力は、浄化するものだと。
「――楽に、してやります」
大輝はそう言うと、両手で太刀を握りしめ、猪の心臓を一突きにした。大輝の下で、びくんと体が硬直し、徐々に力が抜けていく。
『よくやった。
勇輝の身を借りたソレは、あやすようにその毛皮を撫で、そっと瞳を閉じてやった。瞳を閉じると、猪の骸は眠っているかのように安らかに見えた。
一匹の獣として生まれ、山の主になり、その最後は恨みと苦痛に支配されていた。そこから解放するには、終わらせるしかなかったとは言え、後味がいいものではない。
自然、皆の頭が下がり、偉大なる山の主だった猪の冥福を祈る。
いつの間にか、狼も勇輝の隣に寄り添い、山の主を送っていた。
祈りが終わると、ソレは皆に告げた。
『勝負はあった。戦いは終わりだ。各々、武器を収めよ。これ以上の流血は、無意味だ』
ソレの言葉を理解したように、山猪達が、一匹、また一匹と山の中へ姿を消してゆく。
武器を手にしていた伊吹達も、逆らえないものを感じて納刀していた。
戦いは終わった。心地よい興奮と安堵が、去来する。
と、伊吹の視線の先で、大輝の体がぐらりと
「大輝!」
大輝は、勇輝の目前で、ばしゃりと血だまりの中に手をついた。なのに、勇輝は身じろぎもしなかった。無感動な目で、睥睨する。
「大輝、大丈夫ですか」
伊吹が駆け寄り、大輝の顔を覗き込むと、彼は玉の汗を額に浮かべていた。
「――大丈夫っす。ちょっと、疲れた、だけっす」
ふう、ふうと荒い息を吐く大輝は、全力疾走した後のようだった。
それも仕方がないだろう。あれだけの力を行使したのだ。伊吹の力と同等、いや、上回っていたかもしれない。東雲隊の四人も、大輝に駆け寄り言葉をかけた。
楓も、さすがに大輝に水筒を差し出し、体調を確かめる。
「くっそ。楓に心配されっとか、雨降んじゃねーの」
「いいから、黙って飲め」
楓にもらった水筒を一気にあおった大輝は、ぷはぁ、と息を吐くと、おっさんくさい仕草で口元を拭った。
「や、本当、大丈夫っす。怪我もなんもねーし」
それでも心配そうに見つめる面々に、大輝はパタパタと手を振った。
そして、立ち上がり、うえ〜と両手を見て顔を
血だまりに手をついたせいで、その両手は血まみれだったからだ。
「……あぁ、手を
そこでふと思い出す。猪の骸を撫でていた勇輝の手も赤く染まっていたことを。
「……あぁ、勇輝。あなたも……」
振り返り、勇輝が立っていた場所を見たが、そこには誰もいなかった。
「勇輝?」
伊吹の声は、虚空へ消えて行った。
「――おい! 勇輝! どこへ行く!」
大輝の鋭い声に仰ぎ見ると、勇輝がオオカミとともに山奥へ向かって行くところだった。
大輝の言葉に、勇輝が振り向いた。だが、その顔に彼女の意思は一切宿っていなかった。神々しい、否、神をその身に宿した勇輝は、人を超越した微笑みで、我等を見下した。
『次の山の主に請われた。依り代は、主と共に行く』
「なんっ――、……如何なる理由で」
大輝が反射的に叫び返そうとして、神の視線に射竦められ、思い出したかのように言葉を改める。
大輝の質問に答えたのは、次の山の主――オオカミだった。
『神であれば。我と共にあるのがふさわしい』
『神』の言葉は、絶対である。それは、人の思考すら変えてしまう。
彼女が、自分達の同胞であることすら忘れ、そういうものかと納得しかけたその時――。
「そいつは、『勇輝』だ。俺の妹だ。神じゃない!」
大輝が噛みつくように叫んだ。何を馬鹿なことを、という思いで、皆が彼を見やる。
だが、大輝は恐れる事なく勇輝へと近づいていく。
「――勇輝。お前は勇輝だ。泣き虫の割に、負けず嫌いで、誰よりも勇気がある俺の妹だ」
ザクザクと落ち葉を踏みしめながら、大輝が斜面を登っていく。
「俺の妹の証に、俺の名を一つ、お前にやっただろ。勇気。――勇輝」
『……なるほど。お前が縛っているんだな』
オオカミが得心したように呟いた。
「――それが勇輝の望みだ」
大輝が斬りつけるような視線で答えた。
『今回は、そう言う事にしてやろう』
オオカミはその獣の顔で器用に笑うと、独り、背を向けた。その尻尾は、機嫌良さそうに揺れている。
とん、とんと駆けて行き、山の奥へと消える刹那、オオカミの声が響いた。
『人の子よ。我らはいつでも依り代を歓迎する』
オォーン、オォーンと遠吠えが木霊した。
それは新たな主の誕生を
その遠吠えを聞きながら、絶対連れて行かせるものか、とばかりに、大輝は勇輝の体を抱きしめた。
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