第二十二話 山の主

 どどっ、どどっと地面が揺れる。

 それは、さながら山全体が震えているようだった。

 

「来た」

「来ましたね」

「来たか」

「来い」


 それぞれが、その存在を思いながら、口には出さずに戦闘準備に入る。


「勇輝、頼みます」


 伊吹の視線を受けて、勇輝がこくりと頷いた。狼は、作戦がわかっているのか、いつの間にか勇輝の背後に陣取っている。


「あいつ、なんであんなに勇輝に懐いているんだ」

 不満げな楓の呟きを聞き流しながら、勇輝は集中した。


 しゃんしゃんと鉾鈴を鳴らし、周囲を浄化していく。

 浄化されたせいか、森の匂いが薄くなり、気温が下がったように感じる。


(なんだろ。今日は調子がいい……?)


 いつもに増して、強い神気が溢れ出る感覚に勇輝は違和感を覚えた。だが、調子がよくて悪いことはない。勇輝は周囲を祓い終わると、結界を張る舞を神様に奉納し始めた。


 どどっ、どどっ、と言う地響きは、だんだん近づいてくる。

 否が応にも高まる緊張感の中、勇輝の凜とした声が辺りを包んだ。


掛巻かけまくもかしこ建御雷之男神たけみかづちのおのかみよ。萬物よろずもの禍事まがごとから、我らを守り給う障壁を祈願こいねがいたてまつることを聞こし召せとかしこみ恐み白す!」


 勇輝が周囲に舟形の結界を張るのと、山の端から黒い波が押し寄せてきたのは同時だった。

 否。それは波ではない。殺気をみなぎらせた山猪の群であった。

 それが、一群となって勇輝達に襲い掛かる。彼らは、彼我の間にある障害物に目もくれず、一心に勇輝達を目指して駆け下りてきた。

 土砂崩れのような轟音。殺気立った瞳と、凶悪な牙。それらが、障壁にゴン、ドカンとぶち当たって来る。


「くっ!」


 結界に衝撃を受けて、勇輝の体が揺れる。その背に、大輝がそっと手を添えた。


「――これくらい、軽いだろ」


 当然のように、無茶を言う。だが、勇輝はその言葉に、にやりと笑った。

 大輝の無茶は、いっつもだ。それに応えられないようでは、こいつと双子なんてやってられない。


 勇輝は、正面からこの群れを受け止めると言う無謀なことをしなかった。先端を尖らせた舟形の結界で、一直線にこちらへ向かって来る奔流を二つに分け、背後へと流していく。

 ドカドカと土煙を立てて駆け抜けていく山猪達が過ぎ去ると、その場は奇妙な静寂に包まれた。

 当面の脅威は去ったと、勇輝が障壁を解除する。



 ふっと神様からの加護が消えた時、山の端から現れたのは、一体の猪だった。



  ◇ ◇ ◇


 現れたのは、山猪などではなかった。


 妖である山猪が子供に見えるほどの巨体。それはごわごわとした毛皮に覆われ、下顎から突き出た牙は、凶悪なほどに鋭かった。

 そして、その瞳は、怒りに満ち、こちらを睨んでいた。


 その瞳に、周りから息を飲む音が聞こえた。


 これと対峙するのか……。


 畏れにも似た空気が、の間に広がっていく。


 伊吹達は、刀に添えていた手をいつの間にか離してしまっていた。そんなこと、経験豊富な伊吹達からは考えられない行為だった。迂闊だとそしられてもしかたがない。だが、彼らは、その猪を一目見て、戦意を喪失していた。正確に言うと、怯えていた。


 そんなの中から一人、勇輝が一歩、歩み出た。その脇に、まるで勇輝を守るように狼が寄り添っている。


 勇輝は、その瞳の怒りに触れ、涙を流していた。はらはらと涙を流しながら、その巨体へと近付いていく。


「カッカッ。……カッカッカ」


 猪は、その巨体から、ずっと威嚇音を出している。しかし、勇輝はそんな音に注意を払っていなかった。

 なぜなら、猪の巨体には、幾本もの矢が突き刺さり、そこからじくじくと腐った体液が流れ出ていたからだ。



 猪は、明らかにこの山の主であった。



 ……主で『』。



 過去形である。


 この山をいつくしみ、はぐくみ、あまねく生き死にを統括する山の主は、今やただの恨みによって動いていた。

 山の主ほどのものが、ただの矢傷でこうなるわけがない。きっと、あの矢には、毒が塗ってあったのだろう。確実に、息の根を止めるために。



 なぜ、こんな目に。これがこの山を守ってきた事に対する人の仕打ちか。

 痛い。悲しい。辛い。酷い。恨めしい。……寂しい。



 瞳を通じて、猪の絶望が勇輝に流れ込んできた。

 つう、と勇輝の瞳から涙がこぼれ落ちた。それを慰めるように、狼が勇輝の手に身を寄せる。


 その時、勇輝と狼、勇輝と山の主は繋がった。想いが、痛みが、慈愛が、絶望が入り混じる。


 そして、それらを凌駕するように、勇輝の中に流れ込んできたものがあった。

 それは、怒りだ。人ではない、神々の、天地あめつちの姿さえ変えると言われている怒りだった。


(あぁ、カミサマ――)


 そこで勇輝の意識は薄まった。

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