第十二話 本陣

 どこかで鳥がピィと鳴き、次いで、飛び立つ音がした。

 勇輝は、その音に反応して空を仰ぎ見たが、幾重にも折り重なった梢に阻まれて、鳥の姿は確認できなかった。


「大丈夫か、勇輝。気分悪いなら、休ませてもらえ」

「ありがとう、大輝。でも、大丈夫」


 顔色の悪い勇輝を心配してか、大輝が声をかけてくれたが、勇輝はその場から動こうとしなかった。

 勇輝達の視線の先――本陣から少し下った所――は、山の中だというのに、大木はなく、視界が開けていた。今からここに毀猿をおびき出し、それを三条家の私兵達が叩くのだ。


 毀猿討伐の本陣は、山の上の方に張られた。

 山の戦いで、上を取るのは基本だ。矢を射るにしてもなんにしても、上からの方が威力が増す。その為に、わざわざ、毀猿に気づかれないように別の山から登って、峰伝いに歩き、ここへたどり着いたのだ。

 その行軍は、傷ついた勇輝には大変な行程だったが、それでも一切、弱音を吐かなかった。


 それは、意地だ。そして、誇りだった。

 あんな事があったのに、否、あんな事があったからこそ、渾天院の神司として、任務を遂行しなければ。

 その想いだけで、勇輝は山の上に張られた本陣までやってきた。

 山肌を、ざぁっと風が駆け上っていく。その風の中に、あの妖の匂いが混じっていたような気がして、勇輝は眉を顰めた。




 八ノ瀬山は、三条家の所領だ。三条家は、山に大物の妖が出た時のために、このように拓けた場所を山の中にいくつも作っているそうだ。


 楓は、今までにここに来た事がなく、また、戦の前とあって、高揚しているようだ。瞳はキラキラと輝き、頬は興奮でか、赤くなっていた。そして、父親――三条家当主の横で、如何にもといった顔つきで、その采配ぶりを見ていた。

 その様子だけ見ていると、楓は全く子供だった。渾天院に入っているとは言え、成人していないということを思い起こさせた。

 久しぶりに父親に会えて浮かれている様子も、その父親に成長したところを見せようとして背伸びをしている様子も。今までだったら、親子の一場面として、微笑ましく見守れたのだろうが。


 ズキズキと下半身の痛みが増した。あの夜のことは現実だと、体は主張する。

 痛みに伴って、不快感とも焦燥感とも言えない感覚が増す。

 それが、体の不調によるものか、何かよくない事が起きる予兆なのか、今の勇輝には、判断がつかなかった。


 楓が、父親に話しかけられて、生真面目に答えている。

 そのぴんと張った背筋も、いかにも真面目そうな顔つきも、父親といられる喜びが隠しきれていないところも。

 どこを取っても、勇輝には好ましく思えた。やはり、『可愛い後輩』だと、思ってしまう。


(……やっぱり、僕は楓を憎めない。憎めないなら、朝の選択は間違いじゃない。間違いじゃないはずなんだ――)


 勇輝は、体の痛みを意志の力でねじ伏せて、しゃんと胸を張って決戦を待った。


  ◇ ◇ ◇


「勇輝……、その……大丈夫か?」

「『大丈夫』? 大丈夫だと思う?」


 その日の朝、勇輝の体は、泥のように重かった。

 体の節々は痛いし、下半身には違和感しかない。縛られていた手首だけでなく、吸われたり、噛まれたりした所にも跡が残っている。

 一昼夜では、何も元に戻らないのだ。それが、あの夜の慈悲のなさを表しているようだった。

 勇輝のツンケンした物言いに、大輝が目に見えて落ち込む。

 それを見て、勇輝はハッとなった。


「……ごめん。大輝が悪いわけじゃないのに」

「いや。俺も分かりきったこと聞いて、悪かった」


 そのまま、沈黙が二人に重くのし掛かる。


(あぁ、ダメだ)


 勇輝は、二人でこのまま落ちていきそうな感覚に陥った。二人の間にあるのは、ずぶずぶと沈んで、浮き上がれない沼だ。

 勇輝の、否、二人の人生には、そこかしこにこの沼があった。この沼は、『親なし』や『貧困』など、形を変えて二人の前に何度も姿を見せた。

 二人は孤児だ。子供の頃は『便利屋』と称して、妓楼の姐さん方のお使いをこなしたりして、生きてきたが、それだけで二人、十分に食べていけるわけではない。

 長じて、活計たつきをどうするか、となった時、春を売らずに、命を賭ける道を二人は選んだ。二人一緒なら、どの道でも構わないと思ったのだが、どうせなら、闇に沈むより、光に向かって這い上がりたいと、そう思ったからだ。


「……大輝。僕は、今回のことは忘れる。だから、大輝も忘れて」

「お前っ……! それでいいのかよ!」


 大輝は泣きそうな顔をしていた。

 あぁ、昔、無茶をしてこんな顔をさせた事があったな、と、勇輝は、場違いにも思い出していた。

 あの時は無茶だったが、今回は違う。忘れるだけだ。忘れて、今まで通り、何もありませんでしたという顔で笑っていればいい。


「だって、僕たちはこんなところで止まっていられないだろ」


 二人して沼に沈むのは簡単だ。だが、そうしたくないと選んだ道だ。

 こんなところで――こんな事で終わるわけにはいかない。

 勇輝の強い視線を受けて、大輝は怯んだ。


「俺は……、俺はッ……」


 そう言うばかりで、後が続かない大輝に笑ってみせる。


「大丈夫。大した事ない。こんな事、全然大した事ないんだよ」


 それは大輝に、と言うより、自分に言い聞かせるかのようだった。


「だって、夕霧姐さん達が、毎日、いろんな男の人相手にしている事じゃないか。僕だって、いつか、誰かとするはずだった。それが昨日の夜で、相手が楓だったって言うだけだ。それだけの事だったんだよ」

「――『それだけ』じゃねぇだろ」


 大輝の苦しげな呟きに、勇輝は苦笑した。


「大輝。。僕は、渾天院をやめないよ。渾天院は、僕たちが少しでもマシな『何か』になるために、絶対必要なんだ。だから……お願い」


 僕のために、全てを忘れて。怒りも、悲しみも、――その後悔の全てを。


 それは、真っ直ぐな大輝にとって、何より苦しい選択だとわかっていた。完全に泣き寝入りすると、そう言う事だからだ。


「俺は……」


 大輝の拳は、力が入りすぎて真っ白になっていた。

 勇輝は、その手をそっと包む。


「……ほら。そろそろ討伐隊が出発する頃だろう?行こう?伊吹先輩のところに。僕たちの隊長が待ってるよ」


 それは、日常に戻ろうという合図だった。これまでの、何もなかった日常に。


「…………」


 大輝は、何も答えられぬまま、それでも勇輝に手を引かれて、暗い部屋から外へと出て行った。

 屋敷の外には、薄く雲が浮かんでいるものの、抜けるような青空が広がっていた。

 その空を、一羽の鳶が飛び去って行った。


  ◇ ◇ ◇


「そろそろ始まるぞ」


 その声に、具合の悪そうな勇輝を見ていた伊吹は、ハッとなった。

 声の方向を見ると、三条家当主――三条様が、おもしろいものを見た、とでも言いたげな顔で伊吹を見ていた。


(いつから観察されていたのだろう)


 伊吹の背を冷たいものが落ちていく。

 三条様の横では、楓がなんだか不満げな様子でこちらを見ていた。三条様の関心が伊吹に移ったのが不満なのだろうか。それとも――。


「毀猿、間も無く姿を見せます」


 遠見役が叫び、本陣が一気に緊張する。


「いよいよ来るか」


 そう言って笑う三条様は、いたずらをした時の楓と同じ表情だった。三条様は、楓と違い、がっしりした武人なのだが、そういう顔を見ると、やはり親子なのだな、とわかる。


 伝令が慌ただしく行き来し、三条家の近習たちの緊張が最高潮になった時、木々の間から転がり出るように、一人の人間が飛び出してきた。彼は足を止める事なく、正面に配置された陣へと向かっていく。

 そして、その彼を追って、森の切れ目から毀猿が姿を現した。目の前に陣があるのに、臆する事なく彼を追う。

 毀猿が彼に手をかけようとした、その時だった。

 ピィーと甲高い笛の音がしたかと思うと、陣から一斉に矢が放たれた。それは、一射で終わらず、二度、三度と放たれる。


「速い!」


 伊吹の声に、勇輝の声が重なった。勇輝も同じく弓を扱う者として、弓兵の動きに驚いたようだ。


「四至鎮守軍では、これくらい出来て当然よ」


 賞賛を含んだ驚きに、三条様は揚々と答えた。

 次々と飛来する矢を、毀猿は両腕でぎ払おうとする。だが、数が多く、その体に何本も刺さってゆく。


「ウ、オオォォォ……!」


 腹に響く低音が本陣まで届いた。

 矢は痛みは与えたようだが、それでも毀猿の突進は止まらなかった。毀猿は唸りを上げると、身を低くし、一息に飛んだ。彼我の距離が一気に縮まる。


 ピィ、ピィーーー!


 次の笛の合図で出てきたのは、弓兵の後ろに控えていた槍兵だった。

 横一列になって毀猿へ突っ込んでいく。

 このまま槍衾にされて終わりか、と思ったが、毀猿の爪の一薙ぎで、突き出していた槍の大半が半ばほどから折られてしまう。

 それでも、槍兵達は焦らず、前列が駆け抜け、その後ろにいた者が前面に出てきた。そして、毀猿に致命傷を与えようと何度も槍を突き出す。

 だが、毀猿もただ黙ってやられているわけではない。飛び跳ね、爪や足を自在に使い、槍兵達を次々と倒していく。幸いなことに、まだ死者は出ていないようだったが、それも時間の問題だろう。


 伊吹は、このままの力押しでは毀猿を倒せないだろう、と三条様を見たが、彼は余裕の表情だった。

 なぜ、と思った瞬間、神司特有の神々しい光が目に飛び込んできた。


「あれがうちのお抱えの神司達の力よ」


 三条様が得意げな声を出すのも道理で、その力強い光は、かなり神位が高いと思われた。

 その身を鎖で拘束され、毀猿の動きが、目に見えて悪くなる。

 それとは対照的に、槍兵の攻撃が入り始め、このまま押し切れるかに思われた時だった。


「ガァアアアアアア……ッ!!」


「あぁっ!」


 毀猿は咆哮一つで、その身を戒めていた鎖を断ち切った。それを見て、伊吹は思わず声を上げた。

 毀猿は、火事場の馬鹿力を発揮し、周囲の者を次々と薙ぎ倒していく。


「――どう見る?」


 窮地にも関わらず、三条様が楽しげに問うた。


「……槍兵には十分に加護がかかっていない様子。ここは一旦引いて、体勢を立て直すべきかと」

「……楓は?」

「――私も、伊吹兄様と同じです。このまま、数の力で押したところで、アレを倒すのは難しいかと……」


 楓は、父の失態を指摘するのが心苦しいのか、言いにくそうだったが、はっきり意見を述べた。

 その答えを聞いて、三条様は満足そうに頷いた。


「楓はまだ幼いから仕方がないが、伊吹殿は来年には四至鎮守軍だろう。そんなに素直に、見えることしか見ていないようでは、まだまだ青いと言われるぞ」


 その言葉に、何かあるのかと周囲を探ってみたが、毀猿討伐は見渡せるものの、そもそも本陣から遠いので、気配を感じるなどという話ではなかった。


「先輩、あそこ。地面が何か変です」

「地面?」


 会話を聞いていた勇輝が、背後からそっと耳打ちした。


「ほう。気が付いたか。なかなか目がいい。――それとも、勘がいいのか」


 思わず出した伊吹のつぶやきに、三条様が正解だと笑った。そして、近くに控えていた伝令に合図を出す。


 ピィ、ピッピッピーー……ピィ! ピィ! ピィ!


 最後の笛の音とともに毀猿周辺の地面が捲れ上がり、武装した兵が飛び出してきた。

 それは、数こそ多くはなかったが、一人一人、かなりの術の使い手で、しかも加護もしっかり掛けてあるようだった。


「なんっ――!?」

「あれが三条家の『山武士』よ」


 飛び出してきた兵の刀が、次々と毀猿の毛皮を切り裂いていく。


「山武士?」


 聞きなれぬ言葉に、伊吹は鸚鵡返しをした。


「そう。三条家の領地は、山が多いだろう。その山での戦いに特化した兵のことを『山武士』と呼んでいる」


 彼らは、山を識り、時には山と同化することで、妖と対峙する時の切り札となる存在だった。


「彼等が身に纏っているのは……獣の皮ですか」


 楓が嫌悪感も露わに三条様に尋ねた。その身に獣の皮を纏うなど、正気の沙汰ではない。だが、三条様は、平気そうに笑った。


「よくぞ気付いたな」


 山に出る妖は、鼻が効くモノが多い。また、それでなくとも妖は金気かなけに敏感なものだ。だから山武士達は、金属でできた鎧を身につけず、人の匂いを誤魔化すために毛皮を身に纏っていた。


「伊吹殿のところにもおられるだろう。自領に適した私兵が」


 確かに、伊吹の所にも自領に出る妖に特化した私兵がいた。

 伊吹の実家である近衛の領地は、水が豊かで、川や池が多く、水練ができるだけでなく、水中ですら戦える兵がいた。


「その……我が私兵と全く違いましたので……驚きました」


 先程は素直だと苦言を呈されたが、素直な賞賛は構わないらしい。三条様は、豪快に笑った。


「ほれ、見ろ。じきに終わる」


 山武士が出てきてからは、一方的だった。彼らの刀が振られるたびに、毀猿の分厚い毛皮が切り裂かれ、血が飛び散る。とうとう、毀猿は地面に倒れ伏した。その背に、刃が次々と突き刺さってゆく。

 それでもなお、動こうとする毀猿だったが、とうとう首が撥ねられ、完全に沈黙した。


「正攻法で行けるなら、それに越したことはない。だが、妖退治というのは、得てして正攻法が通じん。通じなかった時、どうするか。その為に、二手、三手と手を打っておくのが大将の仕事よ」


 この討伐は、渾天院とは、何もかもが違った。兵の練度も、策も、――大将の器も、だ。


 楓は、自分の父親の見事な采配を単純に賞賛しているようだったが、他家の者である伊吹は違った。

 いつか、この人と肩を並べなければならないのか。

 そう思うと、身の引き締まる思いがした。

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