第十一話 齟齬

「君は勇輝に何をしたか、わかっているのか」

「女にしてやりました」


 伊吹は強い調子で責めたが、楓はなぜ怒られているのかわからないようだった。

 気を失った勇輝の手当ては、大輝に任せた。その間、伊吹は別室で楓の話を聞いていた。だが、話せば話すほど、『通じなさ』に頭が痛くなってくる。


「そこに同意があったとは言わせないよ」

「同意? 同意はありましたよ」


 平然と放たれた言葉に、伊吹はクラクラした。

 勇輝が同意する?普段の二人を知っていれば、そんな関係でないのは明らかだ。だが、楓に嘘をついている様子がない。――それが、怖い。


「なら、なぜ勇輝は拘束されていた?」

「あぁ……。……なぜでしょうね。気になるなら、朧に聞いておきますが」

「……君がいう同意とはなんだ」

「それは……。伊吹兄様。閨でのことを、話しても構わないのでしょうか」

「……今日は構わない。それに、私は君たちのことを見たから」

「なら、勇輝も嫌がりましょうから、他言は無用でお願いします」


 そうやって、勇輝のことを気遣う素振そぶりすら見せる。しかし、続いた言葉に、伊吹の頭痛はひどくなった。


「女は、同意の証にほとを濡らす、と言います。勇輝の陰からも、蜜がとめどなく溢れておりましたので」

「それが、君の言う『同意』……?」

「はい」


 伊吹を真っ直ぐ見つめる視線は、迷いがなかった。

 だから、伊吹もそれは生理的な反応だろう、とか、焚き染められた香の効果じゃないのか、とは言えなかった。


「……君は、今日まで勇輝が女だとは知らなかっただろう」

「えぇ。それは、私も驚きました。……ですよ。勇輝は」


 楓の目には、本気で勇輝を哀れむ色があった。


「それは、どう言うことだい?」

「だって、女なのに、渾天院にいるのですよ。確かに、女が渾天院に入ってはいけないと言う決まりはない。わずかではありますが、女もいます。――しかし、普通、そんな選択はしないでしょう。きっと、大輝が無理を言ったのですよ。まったく、あいつは何もわかっていないのだから」


 そう言って、大輝に憤慨する。それも、本気だった。


 だが、勇輝がかわいそう?勇輝は全て自分で選択し、誇りを持って伊吹隊で神司を務めているのに?


「君は、勇輝の何を見てきたんだ」

「そこは面目ないと思っています。もう何ヶ月も一緒にいるのに、勇輝が女だと気がつかなかったことは」


 伊吹の問いかけは、楓には届かなかった。楓は、優越感をにじませて続ける。


「……でも、伊吹兄様も、勇輝が女だとご存知なかったでしょう?」

「どうして、そう思う?」

「だって、ご存知だったら、私より先に勇輝に情けをかけてやっていたでしょう? お優しい伊吹兄様のことですから」

「私が? 勇輝に? なぜ?」

「え? だって、女の幸せは戦にはありませんよ。女の幸せは子を成し、家を守ることでしょう。それができないのは、かわいそうだ」


 楓は、勇輝を本気で哀れんでいた。

 だが、楓が哀れむ『勇輝』とは、一体誰だ?少なくとも、伊吹が知る勇輝ではない。なぜなら、伊吹が知る勇輝は、子を成し、家を守ることを幸せと思うような人物ではないからだ。


「『かわいそう』? それは勇輝のこと? 君は今まで勇輝の何を見てきたんだ。勇輝は家に入る事を望んでいないだろう?」

「そんなこと、あるわけがないでしょう。勇輝とて、女ですよ。女の身でありながら、戦さ場にあるのは辛いことです。助けられる者が助けてやらなければ」


 楓は、自分の言を心から信じているようだった。真っ直ぐな目で伊吹と対峙した。

 だが、伊吹も自分の正義を信じていた。それは、勇輝と過ごした年月に裏打ちされた理だった。


「それは、その者が望んでいる場合だろう?勝手な判断で、気持ちを押し付けてはいけない」


 勇輝を助けたいと言う楓と、勇輝の意思を尊重すべきだと言う伊吹。

 言葉だけ交わすなら、どちらも一理あるが、楓はそのための手段が問題だ。

 だが、楓は、自身の強引さも理屈あっての事と説く。


「伊吹兄様。下賤の者は、そもそも選択肢がないのです。考える余地がないのです。彼らは、今日を生き抜くことしか考えられません。そのために、戦うしか道はないと、思い込んでいる。思い込まされている。彼らは、先のことが考えられないのです。それは愚かではありますが、生まれた環境ゆえ、仕方がない。なればこそ、先を考えられる者が導いてやる必要がありましょう」


 先のことが見えぬ故、今は泣かせることもあるが、きっと将来感謝する時が来ると楓は主張する。


 だが、その理論は独善的で到底受け入れられるものではなかった。何より、


「勇輝は愚かではないし、先のことも考えている」


 伊吹の言う通り、勇輝は将来のことも考えていた。

 確かに、女でありながら、四至鎮守軍に所属するのは、困難を伴うだろう。

 だが、四至鎮守軍にも渾天院にも女がいないわけではない。むしろ、神司を担う者には女性も多い。

 それに伊吹も大輝も付いている。勇輝自身、人当たりも良く、周囲の者との関係もいい。彼らも何くれとなく助けてくれるはずだ。

 だから、全くの茨の道というわけでもない。

 安易に勧められる道ではないが、勇輝にとってはその道が必ずしも不幸な選択とはいえないし、何より本人が望んでいるのである。であるのに、なぜ、別の道へ進まなければならないのか。


 それを説明したが、楓の考えは変えられなかった。


「選択肢がないまま決めた将来に、人の意思があると言えますか」

「他者が押し付けた将来に、当人の意思はあるか」


 二人は己が主張を口にすると、その主張で相手を打ち負かそうというかのように睨み合った。

 兄のように、師のように敬愛された男と、弟のように、僚友のように愛顧された男は、今や完全に対立していた。

 どちらも、自分が正しいと信じている。だからこそ、お互い引かない。引く気がない。


「……子を成す、ということが、どういうことがわかっているのか」

「えぇ。私にはまだ早いと思っていましたが、朧が大丈夫だと申しましたので」


 何がどう大丈夫かは、楓はわかっていないようだった。なのに、自信満々に言い切る。


「勇輝も、私との子なら、不満はないでしょう」


 続けて、これも得意満面に言い放つ。


「どうしてそう思う?」

「どうして、と申されても……。まぁ、伊吹兄様の近衛家に比べれば、我が三条家は確かに格が下がりますが、それでも三条家ですよ。本来なら、勇輝のような名もなき家の者がもらえる子種ではないのです。それのどこに不満がありましょうか」


 その、話の通じなさに、伊吹の胸に、諦めに似た落胆が広がっていく。


「子を成す、ということは家を作るということだね。君は、勇輝をめとるつもりなのか」

「娶る……」


 そこで楓はしばし思案した。


「いや、伊吹兄様。気が早いですよ。そこまで考えていません」


 なら、なんで、勇輝に手を出した、と言おうと思った伊吹の声が遮られる。


「でも、娶るにしても、正妻ではないでしょうね。家の格がありませんから。めかけ……か何かになるのかな」

「勇輝が妾だって!? そんなことは許さない!」


 今まで我慢してきたが、その一言で伊吹の怒りが爆発した。思わず声を荒げる。

 伊吹の怒りは、大切な隊員であり、仲間でもある勇輝を、正妻ではなく、妾に貶めることに対する怒りだったが、これもやはり、楓には通じなかった。


「伊吹兄様でもそう思われるんですね。やっぱり、身分がないと妾も難しいか……」


 楓は、身分のない者を妾にすることに対して叱られた、と思った。


「その辺のことは、おいおい相談していこうと思います。まぁ、でも」


 続けられた言葉に、伊吹は目の前が真っ暗になるような絶望を感じた。


「私は勇輝の体を気に入りました。男っぽいですが、脱がせてみるとなかなか具合がいい。勇輝も満更でもないようでした。だから、勇輝を私のものにしようと思っています。構いませんよね、伊吹兄様?」


 玩具をねだるような軽い調子で続けられた言葉に、伊吹は二の句が継げなかった。


  ◇ ◇ ◇


「このような事態を招き、お詫びの言葉もございません」


 伊吹は襖に向かって両手をつき、深々と頭を下げた。

 襖の向こうには勇輝がいるはずだ。だが、そこからは衣擦れの音ひとつしなかった。

 襖の前では、大輝が全身に怒りをたぎらせながら、伊吹の後ろに控える楓を睨んでいた。きっと、伊吹や勇輝がいなかったら、とっくに楓に手を上げていただろう。だが、それを辛うじて抑えていた。伊吹はその驚くべき理性に感謝した。


 楓は、自分のしでかしたことの重要性がわかっていない。

 女性の尊厳のこと、勇輝の自由意志のこと。あの後も、懇々こんこんと説明したが、全く話が通じなかった。それでも、伊吹が勇輝に謝罪をしなければならないと説得すると、渋々だが同意した。

 それで、目が覚めたという勇輝の元へ、二人してせ参じたというわけだ。




「このような可能性に思い至りながら、こちらの怠慢で勇輝殿に傷をつけてしまったこと、心より深くお詫び申し上げます」


 謝罪の言葉を述べながら、こんな薄っぺらな言葉で、勇輝の傷が癒えるのか、とも思う。だが、自分ができるのはこれくらいしかなかった。

 それを見透かしたかのように、襖の向こうから勇輝のかすれた声が聞こえた。


「……先輩。もう、謝らなくてもいいですよ。先輩が悪いわけじゃないし」


 その声は弱々しく、涙に濡れていた。


「……勇輝。今回は本当に私の落ち度だ。私にできることなら、なんでもする。楓にも、できる限りのことをさせよう。君の気が済むようになんでも言ってくれ」


「伊吹兄様!」


 その全面降伏の言に、同じ武家出身である楓が反応した。こんな、生殺与奪全て相手に預けるような謝罪は尋常ではないと知っているのだ。

 だが、その抗議の声を伊吹は冷たく切り捨てた。


「黙りなさい、楓。あなたはそれほどのことをしたのです」

「――楓、が、いるのか……?」


 襖越しでもわかるほど、勇輝の声が怯えた。続いて、押し殺したような嗚咽が漏れてくる。


「勇輝? 勇輝、大丈夫か!」

「大輝……、だいちゃん……!」


 幼い頃の呼び方なのだろう。愛称で呼ばれた大輝は、躊躇なく襖を開けると、勇輝の元へ飛び込んで行った。


「ゆうちゃん、大丈夫。大丈夫だから。俺がいるから……」


 勇輝を抱きしめ、あやす大輝の声にも涙が混じっていた。

 大輝にすがって、わぁわぁ泣く勇輝は、幼子のようだった。

 だがここは泣かせてやったほうがいい。下手に感情を押し殺せば、行き場のない悲しみで、勇輝の心が壊れてしまうだろうから。

 身を切られるような思いで伊吹は勇輝の泣き声を聞いていた。


  ◇ ◇ ◇


 だが、楓は致命的にわかっていなかった。本当に、全く、これっぽっちもわかっていなかった。


「なぜ、泣く!」


 気がつけば、楓は開け放たれた襖のところで、仁王立ちしていた。


「なぜ、泣く! いくら兄妹とて、なぜ俺以外の男の胸で泣くんだ!」


 そう怒鳴って、勇輝のところへズカズカと近づいていこうとする楓を、慌てて伊吹が羽交い締めにした。


「待ちなさい、楓!」

「やだぁ、やだっ、だいちゃん!」


 勇輝は怯えて、大輝に縋り付いた。それを守るように臨戦態勢に入る大輝。


「なぜ、泣くんだ、勇輝! お前だって、悦んでいただろう!」

「黙りなさい、楓!」

「伊吹兄様も兄様です。なぜ俺を悪者のように扱うのです! もう勇輝は俺のものだ! 伊吹兄様にだって渡さない!」

「黙りなさい!」

「十月十日もすれば、勇輝は俺の子を産む。そうすれば、またタネをやる。そうやって、勇輝はずっとずっと、俺の子を産むんだ! 勇輝は、俺だけの子を産むんだ! 勇輝は、俺だけの……、俺だけのものだ!」


「楓!」


 ぱんっと、乾いた音がした。


 黙らせなければ、と思った伊吹は、気がつけば楓の頬を叩いていた。


 楓の顔がくしゃりと歪む。それは泣き出す寸前の子供の顔だった。

 それを見て、ずきりと伊吹の心が痛む。

 こんな子供がなぜ、このようなことをしでかしたのか。否、しでかせたのか。

 その背後にある大人の思惑に、怒りが湧いてくる。

 彼らは全て、自分の思い通りになると思っている。そのおごりが、勇輝を傷つけ、こうして楓も傷つけている。


「楓。落ち着きなさい。勇輝は物ではない。だから、楓のものにはならないよ」

「嘘だ!」


 楓は、伊吹の手を振り解くと、勇輝の前にぺたんと座った。初めて、不安げな瞳で勇輝を見つめた。


「伊吹兄様の言うことは、嘘だよな、勇輝。もう、お前は俺のものだよな?」


 勇輝は、ボロボロ涙を流しながら、それでもきっぱりと言った。


「僕は、僕のものだ。誰のものにもならない。――もちろん、楓、お前のものでもない」

「――そんな!」


 楓の悲鳴が上がる。


「何が悪かったんだ! 気持ちよくなかったのか?そんなわけないよな。お前だって、あんなに悦んでいたじゃないか!」

「言うな!」

「黙れ、楓!」

「だって、だって、違うんだ、大輝……!」


 その楓の様子に、大輝は何か感じるものがあったようだ。


「何が違うんだよ!」

「だって、大輝、勇輝は俺ので、俺は勇輝を……」


 そこから、楓は何も言えなくなってしまった。必死で言葉を探すが、何も出てこないようだった。


「……まさか、好きだとか、愛しているとか言うんじゃないだろうな」


 助け船のつもりか、大輝が尋ねた。その言葉は、伊吹の願いでもあった。こんなことをしでかした動機が、愛や恋なら、少しの救いはあるだろう、と思う程度に伊吹は夢想家だった。

 だが、楓は違った。


「違う、違う……」


 混乱したように頭を振る楓。


「違う、そんなんじゃない……。……わからない。わからないんだ。でも、もう、勇輝は俺のだ。俺のじゃないと、嫌なんだ!」


「ふっざけんなよ、てめぇ!」


 どんっと大輝に肩を押されて、楓が尻餅をついた。

 「だって……、だって……」と繰り返す楓は、駄々っ子だった。

 玩具を前に、これが欲しいと泣く子供そのものだ。それを手に入れるための対価を払わずに、ただただ欲しいと泣く子供。


 楓は、呆然とした様子で勇輝を見ていた。だが、勇輝の視線が楓に向けられることはなかった。

 勇輝のすすり泣く音だけが、部屋に満ちる。

 伊吹は、これ以上、ここに居続ける事はできないと判断した。


「――楓。下がりましょう。……大輝、勇輝。騒がせてすみませんでした」


 伊吹が腕をとって促すと、楓はふらふらと従った。それでも諦めきらないかのように、チラチラと勇輝を伺う。だが、その視線から守るように、大輝が勇輝を背中にかばった。




 襖を閉める瞬間、「なんで勇輝だったんだよ……」と言う呟きが聞こえた。それに答えられるものは、ここにはいなかった。

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