第三話 八ノ瀬山
おぉい、と言う声を最初に聞いたのは、大輝だった。
八ノ瀬山の哨戒任務も大半が終わり、この調子なら、予定通り帰還できるな、と話し合った日のことだった。
道ともいえぬ獣道を進み、次の結界の確認へと向かっている時、どこからか人が呼ぶ声がしたのだった。
おぉい、おぉいという声は、後から思い起こせば、どこか空虚に響いていたように思う。だが、その時、彼らは気がつかなかった。
「なんか、聞こえません?」
「……確かに」
大輝の声に、伊吹が耳を澄ませた。
四人は、顔を見合わせた。
(――こんな山奥に、人?)
どの顔にも、そう書いてあった。
今、四人がいるところは、人里からかなり離れている。この山中に、集落があるという報告もない。猟師が迷い込んだことも考えられるが……こんな奥深くまで?
「……ここで、考えていても仕方がありません。聞こえてしまった声を無視することはできませんから、確認に行きましょう」
ただし、慎重に。
伊吹の決断に、四人は声のした方へ歩みだした。
こんな所に、まず堅気の人間がいるわけがない。盗賊か、どこかの領地から出奔した者か。どちらにせよ、面倒なことには変わりない。
そう思った四人の予想は、見事、裏切られることになった。
◇ ◇ ◇
八ノ瀬山は、古くは『八背』を書き、その名の通り、八つの峰が連なる連峰だ。
と言っても、山自体はそれほど高くはなく、植生は豊かで、その麓に住む人々に十分な実りを与えていた。
里の者は、山の中腹辺りまで。それより奥は
だから、中腹より上へ行くと、途端に道が細くなる。道の両側から木々が枝葉を伸ばし、蔦が垂れ下がる。人が行き来しなければ、すぐに山に飲み込まれてしまうであろうこの道を整えるのも、今回の任務の目的の一つであった。
「あ。キノコがある」
打った枝を、道の脇に捨てようとした勇輝が声を上げた。
「先輩、これって、食べられますか?」
「あぁ、これはおいしいですよ」
興味津々、瞳を輝かせてキノコを見つめる勇輝。その脇から覗き込んだ伊吹も声を弾ませた。
「本当ですか? じゃ、今夜はキノコ汁ですね!」
そう言って、群生して生えているキノコを次々と腰の籠に入れていく。しかし、その籠には、先ほど摘んだヤマボウシの実も入っており、すぐに一杯になった。
それに気がついた大輝は、勇輝に声を掛ける。
「おい、もう、その籠、一杯だろ。俺のと交換しろ」
ぶっきらぼうに発せられた声だったが、弾んだ調子は隠しきれなかった。
大輝や勇輝にとって、山は何度来ても新鮮だ。
彼らは、今の家に引き取られるまで、『
鱶河城はこの都最大の貧民窟だ。『城』と名が付くものの、城ではない。無数の建物が有機的かつ無秩序に組み合わさってできた『街』のことを指す。
増築に増築を重ね、改築に改築を施し、ある家は倒壊し、建物の上に建物ができる。その結果、街が一つの大きな城のように見えるので、『鱶河城』の名が付けられたのだった。
そこに行けば叶えられぬ欲望はないと言われている。
酒に女に金。ご禁制の薬すら手に入るとの噂もあった。
そんな貧民窟の比較的安全な外縁部が二人の寝床だった。寝床と言っても、家があるわけではない。雨露を
鱶河城には、軒があり、野生動物は存在しなかった。その一方で、碌な食べ物はなく、常に腹をすかせていた。
あの頃、山でこんなに食べ物が手に入ることを知れば、多少危険と分かっても山へと入って行っただろう、と思う。それくらいこの山は、この山の実りは、二人にとって魅力的だった。
「今日はここで野営をしましょう」
楓の案内で野営に適したところに着いた一行は、手際よく野営の準備を始めた。山は日が落ちるのが早い。だから、まだ日があるうちから準備するのは鉄則だった。
伊吹が今夜の寝床を作り、楓と勇輝が火を
勇輝が周りの石や枯れ枝で簡単な
と、そのうち、勇輝の視線に気付く。
「何だ。何を見ている」
「んーん。待ってるだけ」
そう言う勇輝は、特に楓を急かすでもなく、その手元を見守っていた。
その視線に励まされるように石を打っていると、うまく火種が火口へと飛び移った。それを消してしまわぬよう、慎重に息を吹きかける。十分に火が育ったところで、勇輝が作った竃の中へ放り込むと、あっという間に大きな炎へと成長した。
「上手くなったね、楓」
「ふん。いつのことを言っている。俺はやればできるんだ」
勇輝が言っているのは、渾天院に入ってすぐの話だ。
それまで他人に傅かれ、世話されるのが当たり前だった楓は、当時、火ひとつ満足に熾せなかったのだ。
それでは今後の任務に支障が出ると、野営のイロハを教えてくれたのが勇輝だった。
上手くできなくても決して苛つかず、成功するまで根気強く、何度も繰り返し教えてくれた。過剰な手助けはせず、できた時はきちんと褒め、やる気を出させることに長けていた勇輝は、以前、教師でもやっていたのかと思ったほどだ。
何となく照れ臭くなった楓は、その場を勇輝に任せ、伊吹の手伝いに行った。
その日の夕餉は、携行食に、昼間獲ったキノコで作った味噌汁がついていた。
今まで屋敷では出たことのない、
◇ ◇ ◇
ソレは、いっそ滑稽と言えた。
人ではあり得ない体高。ひょろりと長い手足。その全身は、茶色く短い毛に覆われていた。その毛は、顔と手の平には生えておらず、真っ赤な皮膚がのぞいていた。
明らかに、妖であるソレは、信じられないことに着物を身に
体の大きさが違うため、一枚の着物では、上半身が隠せないのだろう。右腕、左腕には別の着物を引っ掛けて、余った身ごろが背中でぶらぶらと揺れていた。また、下半身には、元は袴であったと思われる布の残骸が纏わり付いていた。
人の真似をして、だが人になりきれなかったソレ。
ソレが身にまとわりつかせている着物は、茶色い汚れに
泥汚れだと考えるのは、
猿にも似たソレは、大きな岩の裏で、おぉい、おぉいと声を上げていた。
ソレは知っていた。こうやって、音を出せば、二本足の獣が寄ってくることを。
二本足の獣は、食い手はないが、時々、
その甘露を味わいながら、二本足を食べるのが、最近のソレの楽しみだった。
――おぉい、おぉい。
ソレが出せる唯一の声で、ソレは獲物を待っていた。
――おぉい、おぉい。
ソレの声は空虚に森の中に響いて、消えていった。
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