第3話 教室

 冬に入りかけの秋の終わり頃。中3の生徒は皆、受験にまっしぐらであった。寒い教室で厚着をしてもなお凍えながら、クラス内の全員が今までより一層真面目に授業に取り組んでいる。錦もその一員で、もう少し成績を上げないと志望校に入れない焦りは彼を勉強への熱意に駆り立てた。

そんな寒いある日の朝のホームルーム前のことである。

 「・・・やべ」

 友人たちが錦の机を囲んで雑談していたとき、ふと錦は自分の机の中を探りながらそうぽつりとつぶやいた。

 「どうした?」

 すぐに友人が声をかけてくれた。錦はその友人の方を見ながら、静かに言った。

 「なんか今日俺が持ってきた教科書、狂ってる」

 「は?」

 錦の友人たちは「何言ってんだこいつ」という顔をして錦を見つめている。錦は机の中からすべての教科書とノートを取り出し、ドサッと机の上に乗せた。勢いでその教科書の山は崩れ、それぞれの表紙が少し見える形にきれいに机上に広がる。それを見て、友人たちは錦の状況を一瞬で察した。

 「・・・これお前金曜の時間割じゃね?今日木曜だぞ」

 「いやマジでやらかした。クッソ」

 完全に今日が金曜だと思い込んでいた錦は、今更今日が木曜だということに気づいた。錦は頭をフル回転させて、どの教科書が必要で、どれが必要ないのかを考えた。

 「1、2時間目は家庭科だから教科書置き勉してあるオッケー。3時間目は国語だっけ?」

 「あー、でも今日古典の模擬テストやるって言ってたから教科書なくていけるんじゃね」

 「じゃあ国語いける。4時間目の日本史は木曜の時間割にもあるからここにある、5時間目の英語・・・。やべぇ英語がない!」

 「お前6時間目の数学は大丈夫なのかよ?」

 「数学は金曜の時間割にもあったからここにある。いける。でも英語だけねぇんだけど」

 ものすごい早口になっているのが自分でもわかる。今日使う教科書の中でただ一つ、5時間目の英語だけが足りない。英語は教科書をとてもよく使う授業であり、何より先生が意地悪で、教科書を忘れると授業点を減らす先生なのである。どうしようかと考えていたが、方法は一つしかない。他のクラスから借りてくることだ。友人たちもそれを考えていてくれたようで、「今日英語あるクラス他にあったっけ」と相談し合ってくれている。すると一人の友人が思いついたように錦に話しかけてきた。

 「俺木曜に英語忘れた時、4組から借りたことあったな」

 「4組か・・・。知り合いいたかな・・・」

 錦がうんうんと唸って考えていると、ふと思いついた。

 (バスケ部が4組にいるじゃん。昼休みに行こ)

 バスケ部の友人たちが4組に所属していたことを思いついて、安心して笑顔になった。そして錦の机を囲んでいる複数の友人たちを見上げる。

 「お前らサンキュー。なんとかなりそう」

 「おー、よかったじゃん。焦ってる錦めっちゃおもしろかった」

そして鐘が鳴り、今日は珍しく担任が鐘と共に教室に入ってきた。寒さに少し身を震わせてから、今日も一日が始まった。



 錦は(予想外に教科書が必要になる授業があったらどうしよう・・・)と内心不安になっていたが、すべて朝に想定した通りに授業は進んで行き、無事に昼休みの時間を迎えた。教科書を昼休み中に4組に借りに行かなければならないことを考えて、いつもより早く給食を食べ終えた。

 錦の中学3年生の教室は少し変わった風に配置されている。3階建ての校舎で、中1のクラスは1階にすべて入っており、中2は2階に入っている。しかし中3だけ、2階と3階に分裂してクラスが入っているのである。3年1組と2組は2階に入っており、3組と4組は3階に入っているという、なんともめんどうなことになっている。錦は1組に所属しているため、英語の教科書を借りに1つ上の階へ行く必要があった。

 錦は給食を食べ終わると、一目散に3階を目指した。早く食べ終わったと思っていたが、何人かの生徒はすでに食べ終わって廊下で雑談に花を咲かせている。彼らを後目に最初は小走りをしていたが、あんまり走っても目立つから歩こう、と改めて気持ちを落ち着けてゆっくりと階段を上っていく。

 同じ学年の教室を訪れるとは言えど、階数が違うためまったく3組と4組とは交流がないのが其の実である。それ故に、今まで2度のクラス替えがあったにも関わらず、顔も名前も知らない同学年の生徒がちらほらといるのだ。ただでさえ同じ階にいる中2とも面識がまったくないのに、3階にいる2年と3年がウロチョロとしている空間に行くことは居心地がとても悪い。

 階段を上り切り、3階に足を踏み入れる。構造などは錦がいる階とまったく同じはずなのに、まるで異世界に来たような違和感を覚える。給食を食べ終わって騒いでいる男子生徒の声もまったく聞き覚えがない声だし、階段近くで話に盛り上がっている女子生徒も一度も見たことがない顔ぶれである。階を1つ移動しただけなのに、錦は完全なアウェーを感じていた。

 (誰かについてきてもらえばよかった・・・!)

 錦は少し後悔しながら4組へと足と進める。すれ違う生徒の視線が錦に注がれているのがわかる。普段目にしない1組の錦がいるから、気になってしまうのであろう。浴びせられる視線を無視しつつ、4組の手前までやってきた。あとは教科書を借りるだけなのだが、錦の中では最難関の問題が待ち受けていた。

 それは、どうやって4組のバスケ部員にコンタクトを取るかである。扉のところに立っていきなり大声で教室内のバスケ部員の名前を呼ぼうものならば、教室内の生徒の視線が一気に錦に集まって、シーンと静まり返ることは予想できることであった。しかし、無言でつかつかと4組に入っていく勇気もないし、入っていけばそれはそれで教室内の視線を浴びることもなんとなく脳裏に浮かぶ。扉はすでに開いているから、錦が自主的に開ける必要がないことに少しホッとした。恐る恐る4組の教室の扉の前に立ってみる。

 ざわざわとしている教室内を見渡してみるが、バスケ部員の姿が見当たらない。給食も食べ終わり皆それぞれが自由時間を過ごしており、立っている者もいれば教室内を走っている者もいるし、座っている者もいるし、とても落ち着いてバスケ部員を探せる状況ではなかった。唯一の救いは、4組内がうるさすぎて扉のところに立っている錦を誰も意に介していないところである。錦はそれにまた安堵しながら、ゆっくりと教室内を見渡した。

 ふと、そのとき、目が合った。雑談に花を咲かせている女子グループの中、その子は友人に囲まれながら席についている。無意識のうちに、目を大きく見開いた。

 (あのときの、女バレの部員だ)

 4組の教室の扉から遠い奥の方に、あの女子バレーの部員が座っていた。彼女も錦の存在に気づいているようで、お互いに驚いた顔をしながら目をしばらく合わせた。卒業までにまたどこかで会えたらラッキーだな、と、もう今生会うこともないであろうと思っていた彼女が4組にいる。そのときは視界に入る動くものすべてがゆっくりに見えて、喧騒など何も聞こえなかった。

 (ど、どうしよ。手とか上げて挨拶すればいいのか?笑えばいいのか?)

 友人でもないしましてや知人と言えるレベルなのかもわからない。ただお互いに目が離せないままどうすればよいか錦は考えあぐねていると、彼女の友人が彼女に声をかけたようで、そちらに反応してこちらを向くのをやめてしまった。彼女は友人の方を向いて笑顔で会話をしている。目を離された瞬間に、少しがっかりしてしまった自分がいることに錦は気づいてしまった。しかしあのまま目を合わせ続けたところで、お互いに何もアクションは取らなかったであろうし、困ってしまうことも予想できたから、あれでよかったのかなと思った。少し俯いたその瞬間、4組の中から自身の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。

 「あれ、錦じゃん!」

 顔を勢いよくあげると、そこにはバスケ部員たちが一つの机を囲んで雑談している様子が目に入った。その中の1人がこちらに手を上げて「入って来いよ~」と言いながら手招きをしている。先ほど穴が開くほど4組の中を見渡したのに、まったく彼らを見つけられなかったのは一体何なんだ、と思いつつ、向こうからこちらに気づいてくれたことにありがたく思って4組のクラス内に足を踏み入れた。

 手招きしているバスケ部員の元へ向かおうとしてふと気づく。バスケ部員が固まっている机のすぐそばに、例の女子バレー部員がいるではないか。どうやら錦の友人のバスケ部員から通路を挟んですぐ横が彼女の席らしく、彼女は席についたままで、その周りを彼女の友人たちが囲んでいるようだった。スタスタと手招きしている友人の元へ向かうつもりだったが、それに気づいてからギクシャクとした歩き方になってしまった。少し気まずいと思いつつも、ラッキーと内心ガッツポーズを決める自分がいる。

 (あいつらから教科書借りるついでに、名前とかが偶然聞こえてきたらいいのにな)

 バスケ部員の机にたどり着くには、どうしてもその女子部員の机を横切る必要があった。距離が近くになるにつれてドキドキと心臓がうるさくなってくる。自身が彼女の近くにいたところで特に何もないが、近くにいることに気づいてほしいと思っている自分がいた。バスケ部の友人が連呼する自分の苗字が彼女の耳にも入っていればいいな、と思っている自分もいた。

 (俺だいぶキモいかもしれん・・・)

 そう思いつつ彼女の机を横切る。なんとなく緊張と自己嫌悪が入り混じって、近くを通り過ぎたが彼女の方を一瞥することはできなかった。そして目の前にはバスケ部員たちがいて、笑顔で錦を迎え入れてくれた。

 「あれ?錦じゃん!どうした、暇か?」

 「暇っちゃ暇だけど違くて。悪ぃんだけど、英語の教科書貸してくんね?今日忘れてさ」

 バスケ部員たちが囲む輪に加わって、申し訳なさそうにそう言った。輪の中心には誰かが買ってきたであろう少年週刊誌が広げられている。一人のバスケ部員がすぐに英語の教科書を取ってきてくれて、「ほい」と渡された。

 「サンキュ。・・・ていうかお前ら大丈夫かコレ。バレたら内申点響くんじゃないの?」

 バスケ部員たちは特に隠す様子もなく堂々と机の上に雑誌を広げている。もちろん中学校であるから、雑誌などを持ち込めば没収の対象になるし、親が呼び出される事態になることは明白である。そして、受験を控えたこの時期にこのような内申点に大幅な影響を与えることをしているのは自殺行為と言っても相違ない。錦は心配な気持ちもあって、警告の意味も交えてそう尋ねた。

 「大丈夫大丈夫。この教室騒がしいから誰も気づかねぇし。結構前から持ち込んでるけど誰かにチクられるとかもないから」

 囲むようにして部員が集まっている机の椅子に座る友人が、あっけらかんとした様子でそう答える。こいつら勇者だな、と思ったのも束の間、錦の横にいたバスケ部員が少年誌の巻頭ページを見せながら聞いてきた。

 「なぁ、錦はこの中だったら誰が好み?」

 そこには今流行りのアイドルが複数人映ったページがあった。どのアイドルも清楚なワンピース姿をしており、こちらに向かって微笑んでいる。錦はアイドルにはまったく興味がなく、誰が誰だかまったくわからない。

 「うーん、俺アイドル興味ないからわかんねぇ」

 「わかんなくてもいいから。ほら、直感でさ」

 そう促されて、しぶしぶそのページと向き合う。テレビで見たことあるなぁ、くらいの印象しか錦の中にはなく、好みと言われても正直よくわからない。しばらく悩んだ結果、一人のアイドルを指さした。

 「この人かな・・・?」

 「え!!意外!!マジか」

 「意外ってなんだ」

 錦が指を指した瞬間に周囲のバスケ部員がワッと盛り上がる。周りのテンションについていけず、はてなを浮かべながら左右の部員たちを交互に見つめた。

 「ちなみに錦はなんでこの子を選んだん?」

 一人のバスケ部員にそう尋ねられて、また頭を悩ませる。直感で、と言われたからそれ以外の何でもないのだ。何と答えようか、と考えてからゆっくりと口を開く。

 「強いて言うなら、髪の毛長いから・・・?多分」

 そう答えるとまた周囲から「なるほどねー」「錦はロングが好きなのねー」などというリアクションが飛んでくる。なんだその上から俺のリアクションを楽しんでいるような感じは、と錦は少しイラっとした。

 「そういえば確かにロングはこの子しかいないな。今回はショート多い」

 逆に先週はロングの子ばっかだったよなぁ~という声が聞こえてきたが、錦はもう話についていけず、ひたすら呆れ顔で友人たちを見続けた。すると、一人の友人から声をかけられた。どうやらこのページの中の一人の子が推しらしい。

 「錦~お前もこの子推してくれよ~ショートはダメなの?」

 「いやダメとかじゃねぇよ。強いて言うならロングかなってだけで、特にこだわりとかねぇし。ていうか俺どのアイドルもマジで知らないから何とも言えねーよ推しとか」

 戸惑いつつそう答えると、「わかったわかった」と隣に立っているバスケ部員に肩を優しく叩かれる。なんなんだこいつらは、と少しぶつくされた後に、もうこれ以上ここにいる必要もないだろうと思い1組に戻ることにした。

 「そんじゃ教科書借りるんで。明日の朝返しに来るわ」

 「あー、いや、今日は久々に一緒に帰ろうぜ。そのときに返してくれれば」

 「お、久しぶりだな。おっけー、そんじゃあな」

 そう言ってから机から離れようとすると、一人の友人がふざけて腕を掴んできたので、「はい、ホールディング~退場~」とあしらうと、「いきなり退場かよ」と笑いながら腕を離してくれた。 4組の扉を出る間際に後ろから

 「また来いよ~」

 と声をかけられたので、手を振って返事をしておいた。廊下に出てみると、先ほどよりも人数が増えている。給食も皆が完全に食べ終わり、雑談の時間と化している。もうあとは1組に戻るだけだ、と思うと心が軽くなった。

 引退してから会う機会がめっきりと減っていたバスケ部員たちだったが、やはり久々に会うと嬉しい気持ちになる。受験シーズンも迫ってきていて、ピリピリとした空気しか最近感じていなかったからか、久々にあのような気の抜けた会話ができてかなり気持ちが楽になった。

 行きと同じようにアウェーを感じながら階段へとたどり着く。小走りで階段を降りていたそのとき、突然に頭の中で一つのことが思い出された。。

 (・・・あのアホの極みみたいな会話、彼女に聞かれてたんじゃね・・・?)

 階段の踊り場までたどり着いて、ふと歩を止める。一瞬のうちに、4組でのあの会話を彼女に聞かれていたらという想像を脳内で繰り広げた。その瞬間に恥ずかしさがこみあげてきて、持っていた英語の教科書で顔を隠しながら、階段の踊り場の壁にゆっくりと近づいていって頭をゴンとぶつける。踊り場には誰もいないのが幸いであった。

 (マジで?!いや待って・・・。マジで?受験控えた時期に学校に雑誌持ってくるアホ集団の仲間と知った上に、しかもあのアホなやり取りを聞かれてた?)

 錦の頭には一つの考えしか浮かばなかった。

 (絶対、幻滅された)

 薄ら笑いを浮かべながら、壁に頭をぶつけたままの姿勢で静止する。あのときの水道場の別れできれいに終わっていた方がよかった・・・とか、いやもう会う機会ないだろうし、どうでもいいのか・・・といろんな考えが頭の中を回る。俯きつつ、先ほどまでの軽やかな足取りとは打って変わって足に重りでもついているかのような足取りで階段を降りていく。

 (・・・そういや、彼女の名前も耳に入ってこなかったな。まぁいいか・・・)

  「どうせもう会えないし」

 ぽつりと、小さな声が口から出て、誰の耳にも入らずに消えていった。





 そして時は過ぎ、3月。錦が中学を卒業する日がやってきた。受験の方はというと、第一志望に合格して、無事にその高校に進学することになった。担任から「今のままだとちょっときついぞ」と言われていたからこそ、合格発表を見に行った時の喜びはひとしおであった。

 たくさんのストーブが設置されていても尚凍える寒さである体育館で、厳かに卒業式は進んでいく。錦は、いつも部活で使っていた体育館がパイプ椅子と人いっぱいになっている光景が珍しくて、着席した後はしばらくキョロキョロと周りの様子を伺った。そして校長や学年代表の話を聞きつつ、錦は今夜の友人との焼肉が楽しみでしょうがなくて、卒業式の間はずっと焼肉で何を食べようか考え込んでいた。そうこうしているうちに合唱曲も歌い終わり、式は終わった。

 その後は教室に戻り、担任から一人一人に卒業証書が手渡されていく。錦も担任から受け取った後に、席に着いてからすぐに筒にはしまわず、じっと卒業証書を見つめた。

 (卒業か・・・)

 ぼーっとそれを眺めているうちに出席番号最後の生徒まで卒業証書が行き渡ったようで、担任が咳払いをしてから話を始めた。その声で我に返って、慌てて証書を丸めて筒の中にしまう。担任はこの中学3年間のことをいろいろと喋っていたが錦はすぐにどうでもよくなって、窓の外に意識を向けた。「に」から始まる苗字だから出席番号が後ろの方で、番号順に席に着くと一番端の窓側に席が来るのである。陽に当たりながらうとうとしていると、ふと担任の言葉が耳に入る。

 「みんな、心残りなく中学を卒業できたなら嬉しい。そして・・・・」

 心残り、と単語を聞いて、第二体育館の水道のあの光景が蘇ってきた。あの水道で錦を待っていて、こちらを向いたと思ったら眩しい笑顔を見せてきて。保健室に連れて行ったあの日と違ってとても血色がよくなって安心したのを覚えている。お疲れ様と言われて、頬を流れたあの涙の感触も、今でも思い出せる。

 卒業するまでに、言えばよかったのだろうか。自分の中にあって、自覚しているこの気持ちを彼女に伝えるべきだったのかどうか、錦はわからないままでいる。この気持ちを伝えて結果を聞いて、果たしてそれでスッキリできたのか、それとも深い後悔の念を抱くことになるのか、何もわからない。

 (まぁ、行動に移す勇気は俺の中にはなかったってことだ)

 窓の外を見ながら目を細めた。意気地なし、という言葉が浮かんで消えた。じっとしていられなくて、無意識のうちに片ひじを机について顎を手に乗せた。

 (もう忘れよう)

 窓から見える桜は裸木のように見えたが、春に向けてつぼみをつけ始めている。もうすぐそこに新しい季節が来ることを示していた。

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