第2話 水道場2

 部活動の引退も間際、教室内では引退の話で連日持ち切りだった。中学3年生の錦も例外ではない。朝のホームルームが始まる数十分前、錦は友人たちと一人の友人の机を囲んで、例に漏れず部活引退の話をしていた。

 「バスケ部は引退試合いつなん?」

 錦は友人の一人にそう尋ねられて、ふとそちらの方を見る。

 「確か・・・〇月〇日だったと思う。土曜」

 「え、じゃあその日めっちゃ引退試合被るな」

 他の友人が「バスケ部もその日か」とか「マジで?」などと言っているが錦は話が追えず、

 「どういうこと?」

 と友人に聞き返した。

 「その日に引退試合する部活多いんだよ。俺らバレー部も男女その日だし。お前ら男バスもだろ?あと剣道部とサッカー部もだっけ?」

 「いや、サッカー部は確か別日だった」

 すかさず別の友人が訂正に入る。そういえば女バスもその日に引退試合って誰か言ってたな、ということを錦も思い出して

 「そういや女バスもその日が引退試合って誰か言ってた。・・・ここらへんってそんなに中学校あったっけ?場所足りてんの?」

と発言すると、「確かに」と笑う友人の声が聞こえてくる。続けてその友人は

 「この中でスタメンの人~?」

 と、机を囲む男子生徒5人程に声をかける。その中で2人が手を挙げた。その瞬間他の3人が「おぉっ!」と声を上げる。もちろん錦も声を上げた中の一人である。手を上げた2人は照れくさそうにゆっくりと手を降ろした。

 その瞬間、錦は頭の中に、女子部員を保健室へ連れて行っている途中の廊下の光景が頭の中に浮かんだ。

 (なんで今、思い出すんだ?)

 もうあの出来事も今から数週間前のことだが、まるで昨日起こったことのように錦の頭の中に鮮明に光景が残っている。女子部員を見つけたときの恐怖心、握った手の熱さ、あのとき耳に入ってきた音や声、自分が喋ったこと、潤んで赤くなっていたあの瞳・・・。

 そして、彼女はエースもしくはスタメンの重圧に押しつぶされそうになっていたのを思い出す。錦自身はそういったメンバーに選ばれたことがないから、スタメンやエースがどのような心境に置かれているかはよくわからない。しかし、少なからず今手を上げた2人も、気楽な気持ちで引退試合に臨むわけではないのは理解できる。自分でも無意識のうちに口が動いていた。

 「スタメンっていろいろ大変だと思うけど、気楽にとは言えないけど、頑張ってこいよな。試合楽しめよ」

 まるで、ここにはいないあのときの女子部員に声をかけているような気持ちだった。「おぉっ!」と先ほどみんなで声を上げた後に「羨ましいなぁ」という言葉が口から出ると思っていた錦だったが、あの静寂に包まれながらヒックヒックと泣き声を聞いた光景がフラッシュバックして、「羨ましい」というその言葉は喉の奥に飲み込まれていった。錦にそう声をかけられたスタメンの2人はしばらく目を丸くしていたが、やがて笑って

 「サンキュー、錦」

 「おう、マジでありがとな渉」

と言いながら軽く錦の肩を叩いた。そのうち朝のホームルームを告げる鐘が鳴り、机を囲んでいた友人たちも各々の席へ戻っていった。担任は鐘が鳴ってすぐに来ることはないとクラス全員がわかっているので、皆は席に着きながらもまだ雑談を続けている。錦も自身の席のすぐ後ろにいる、先ほどまで話していた友人のうちの一人と雑談を続けていた。

 「そういえばお前、錦渉って名前だったな。苗字で呼びすぎて忘れてた」

 「いや俺も下の名前で呼ばれることなさすぎてレアだった。つーか改名したい。ひらがなだと6文字あるのに漢字にすると2文字ってなんかおかしいだろコレ」

そう言うと友人は「どうでもよくね?」と笑った。そして続けて

 「俺らベンチ組は、試合前日の金曜が引退の日って感じがするよなー」

と錦の椅子に貼ってあるシールをぺりぺりと剥がしながら言う。錦が使っている椅子は比較的新しく、製品情報などが書かれたシールがそのまま背もたれの裏側に貼ってあるのだ。錦はそんな友人の行動を意に介することなく、

 「そうだなぁ」

と返す。今話している友人はバレー部に所属しており、彼も錦と同様にスタメンに選ばれることのない部員だった。引退試合の日はもちろん現場に赴き応援するが、この2人にとっては試合に対する緊張感はないようなものだった。錦は剥がされたシールを友人から受け取り、友人の机の上にそれを貼りながらぽつりと言葉をこぼす。

 「正直、試合前日の金曜の部活の方が俺は緊張する。試合はなんかもう、頑張れ~って感じだし」

 「ほんとそうだよな。引退の金曜は朝から一緒に緊張してよーな」

 「いやなんだそれ」

 錦は笑いながらそう返し、友人の机の上にシールを貼り終わったところで担任が教室に入ってきたので前を向いた。彼にとって引退の“金曜日”も、もうすぐそこに迫っていた。



 そして、引退試合前日の金曜日。かけた目覚ましより早く目が覚めてしまった。自分で思っていたより、この“引退する金曜”にとても緊張していたのだなと自覚した。教室に着くと、自分の席の後ろにいるバレー部の友人が速攻で声をかけてきた。

 「やばい、思ってたよりめっちゃ緊張する。錦お前なんともないの?」

 「いや、俺も今日目覚ましより早く起きちまって・・・。すげぇ緊張してる。今日いつも通り練習できる自信ない」

 そう2人でヒョワァァと奇声を上げながら盛り上がっていると、別の友人から「お前らなんかキモいけど大丈夫?」と声をかけられた。思わずカチンと頭に来て、そう発言した友人の後ろから勢いよく肩を組んでやった。友人は「ぐふ」と言いながら前につんのめっていた。そしてバレー部の友人と耳元でこそこそと囁く。

 「あのな、引退試合に出ない俺らからすると、今日の金曜が引退みたいなもんなの。それで緊張してるんだよ」

 「朝からめっちゃソワソワしてるんだよ!」

 「あー・・・なるほど?」

 友人は納得したようなしてないような微妙な顔で2人と顔を見合わせた。この友人は部活動に所属していないから、そういった感覚にピンと来ないのであろう。

この日は授業にも身が入らず、上の空で6限目まで過ごして、あっという間に部活の時間がやってきた。ホームルームが終わり解散した後、クラスメイトがぞろぞろと席を立つ中で後ろの席の友人と無言でハイタッチを交わした。スタメンの友人たちには「頑張ってこいよ!」と声をかけてから教室を出ると、珍しく笹山が錦を待っていた。

 「あれ、笹山?珍しくね?」

 「いやなんか一人で体育館行きづらくて・・・。錦一緒に行こうぜ」

 明日に本腰を据えているであろうバスケ部スタメンの笹山も、同じような気持ちなんだなと思い、

 「俺も」

と返して共に体育館へ向かった。着替えて体育館へ入ると、同じ3年の部員が

 「めっちゃ寂しいんですけど!!」

と大声を出しながら笹山と錦に飛びついてきた。すでに泣きそうになっている彼を見て2人で

 「いやいやまだ早い。早すぎる。練習終わった後だろ泣くなら」

と冷静にツッコミを入れた。その日は後輩たちもなんとなくしんみりとした空気を漂わせているような気がした。いつも通り練習の準備をしながら、ふとセミの鳴き声に耳を傾ける。

 (あぁ、日常が一つ終わるんだな)

 立ち止まって、部員たちのやり取りを見つめる。雑談をしていたり、用具倉庫から道具を運んでいたり・・・。瞬きを一度したそのときに顧問が入ってきて、いつも通りの練習が始まった。錦は「今日で終わり」という気持ちが強かったが、やはり明日がバスケ部にとって本番だという旨の話が顧問からされ、少し身が引き締まった。しかし練習が始まってしまえば顧問の話などどこかへ飛んで行ってしまい、いつも通りのことをするだけだった。

 太陽が傾き始めた頃、ピピーッという笛の音が耳に入る。その後すぐに

 「休憩―!!」

という顧問の声が聞こえてきて、汗を体操服の裾で拭った。この日もほとんどの部員が水道に向かって走っていっており、錦は後ろからその部員たちをぼーっと眺め続けた。すると後ろから肩を叩かれそちらを見ると、笹山がボールを持って立っていた。

 「お前は今日も第二体育館まで行くの?」

そう聞かれ、錦は少し寂しそうな笑顔を浮かべた。

 「あぁ。最後だからこそ、行かなきゃな」

 それを聞いて笹山は「だよな~」と言いながら、持っていたボールをそこらへんに置き、第一体育館の水道の方へと走って行った。錦は水筒を持って、今日も第二体育館の水道へ向かう。

 部活で行動することのすべてにおいて、(これが最後か)と思ってしまう。ストレッチをしていても、顧問の話を聞いているときでも、基礎練習をしているときでも、もう明日からこれをすることはないのだなということを意識してしまう。第二体育館へ向かう行程も同様である。水筒を持ってこうやって歩くことも、明日からはもうない。そう意識するたびに胸がキュッと締まって、少し苦しかった。生活の中のルーティンが一つなくなることが、こんなに寂しいことだとは思わなかった。

 (結局バスケ部の誰もこっちの水道に来なかったな)

 そう思いながら、ふと自分の手元を見る。今日は最後ということもあって贅沢をしようと思い、粉末タイプのスポーツドリンクを持ってきた。水道の水で飲もうと考えたのだ。できればウォータークーラーの水で飲みたかったが、あいにく今も故障中である。シャカシャカと袋を振って音を鳴らしながら第二体育館の水道を視界に入れると、異変に気付いた。

 (あれ?)

 思わず歩く足を止める。そこにははっきりと、水道場の近くに人の姿が見えたからだ。

 (今日に限ってどっかの部活の休憩時間と被ったのかよ・・・)

 そう思ったのも一瞬で、そうではないとわかった。なぜなら、そこには一人しか人影が見えなかったからである。近づいていくと、段々とその人物がくっきりと見えてきた。膝につけられたサポーター、半そでの体操着、そしてショートヘアー。女子生徒だということはすぐにわかった。なんだか見覚えがあるような、と思ったのも一瞬で、すぐに頭を横にブルブルと振った。

 (いや、そんなはずはない。だってこの時間は女子の部活は練習中だろ?)

 まるであのときの女子部員のような姿だった。その女子は手洗い場に腰かけて、第二体育館を見上げるようにして見つめており、時折髪型を直すように手櫛で整えている。錦はうるさい心臓を落ち着かせるように深呼吸を繰り返した。無意識のうちに水筒を握る手にさらに力がこもる。日陰にいるにも関わらず、大量の汗が噴き出すのを感じる。

 (いや、あのときの女子だからって、なんでこんなに緊張する必要があるんだ)

 ゆっくり、ゆっくりと水道へ近づいていく。水道との距離が後ほんの数メートルになったぐらいであろうか、突然その女子部員が勢いよくこちらを向いた。錦は驚いて思わず体を跳ねさせてしまった。ばちっと目が合った瞬間、その女子部員は満面の笑みを浮かべた。そして小走りでこちらへ近づいてくるではないか。錦はまったく状況がわからず立ち止まり、ただその近づいてくる女子部員を見つめるしかなかった。1秒もしないうちに目の前にその女子部員がやってきて、彼女は溌溂とした笑みを浮かべたまま、話しかけてきた。

 「あの、あの日保健室に連れて行ってくれた人だよね?」

 錦は日本語で話しかけられているにも関わらず、しばらく話しかけられた言葉の意味が理解できずに固まってしまった。

 (あの日?保健室?連れていく?えっ、もしかして)

 ぐるぐると思考が回る頭で、ようやくあのときのことを思い出した。しかし、目の前にいる女子部員は、あの日水道にペタリと座り込んで俯いていた様子とはまったく印象が違う。血色のいい肌色をして、元気な笑みを浮かべている。

 (そういえば、右手の指)

 錦はハッと思い出して、目の前にいる女子部員の右手に視線を移す。その指にはテーピングが巻かれていた。その瞬間女子部員は右手を広げて、バッ!と錦の目の前にかざした。あまりの勢いの良さに錦は少したじろいでしまった。

 「そう、右手の指を痛めたとき!やっぱり君なんだね!」

 そうニコッと目を細めながら嬉しそうに笑う彼女を見て、錦はまたあのときのように胸がズクンと重くなった。ピリピリと、なんだか痛いような気がするが、しかし胸の鼓動の激しさがすべての感覚を支配して、それ以外何も感じられなかった。しかし顔の熱さだけははっきりと自覚しながら、何か言わなければと思い、ようやく口を開くことができた。

 「あの、指、よくなったんだ」

 「そう!あのね・・・」

 錦が話しかけて元気よく返事をしたかと思うと、彼女もまた顔を赤くして、恥ずかしそうにしながら少し俯いた。君が恥ずかしがる必要なくない?と錦が思ったとき、ぽつりぽつりと女子部員は言葉を紡ぎ始めた。

 「あの、最高にコンディションが悪いところを見られて、今となってはすごく恥ずかしくて・・・。あのときはホント良くなくて」

 「・・・いや、まぁ、君エースか何かなんだろ?そういうときもあるっしょ。とにかく指、よかったね」

 段々と口が回るようになってきて、いつも通りの調子に戻ってきたな、と自分で感じて安心する。しかし、普段女子とあまり会話することのない錦はどうしても気恥ずかしさを感じてしまう。恥ずかしそうに俯いていた彼女もまた顔を見上げて、錦の目を見つめてきた。今日の彼女の瞳は、あの日のように赤くはない。まるで輝いているかのように、その瞳はキラキラとしている。その様子を見て、錦は心のどこかで安心していた。

 「骨折してると思ってたんだけど、打撲で済んだんだ。君が保健室にすぐに引っ張っていってくれたおかげで、本当にいろいろ助かったの。でもあの日、泣きすぎてうまく声出なくてさ、お礼を言いたかったんだけど言えなかったから、ずっとモヤモヤしてて」

 「・・・もしかして、それでこの水道で待ってたとかじゃないよね?」

 「いや、そうだよ!君を待ってたの。今日が部活最後になっちゃうからお礼言いたくて」

 “最後になる”ということは、この女子部員も3年生だということはすぐにわかった。やがて彼女は水道の方へ向かってゆっくりと歩き始めたので、錦も横に並んで着いていく。

 「ねぇ、ずっと気になってたんだけど、何年生なの?」

 「俺も3年」

 「あ~よかった!同い年か~ちょっと気が楽だなぁ」

 そんな他愛もないことを話しながら手洗い場に到着した。「水汲むんだよね?」と言われ、こくりと頷く。そのときふと手元を見て、そういえば粉末持ってきてたということをすっかり緊張で忘れていたが思い出し、袋をビリッと破いて開けた。その瞬間、彼女の方から

 「あ」

という声が聞こえてきて、袋を破いたままの姿勢で固まってしまう。すると彼女は慌てて

 「ごめんごめん。あの、お礼にと思って私それ渡そうとしてたから・・・」

と言いながら、錦がいつも飲んでいるものとは違うメーカーのスポーツドリンクの粉末の袋をいくつかおずおずとポケットから取り出した。

 「あぁー、いいよ。別に大したことしてないし。わざわざありがとう」

 錦はそう言いながら粉末を水筒へと入れて、蛇口の水を注いでいく。彼女はうーん、と考え込んだ後に、尋ねてきた。

 「高校も部活続ける予定?」

 「うーん・・・。うん、バスケ好きだし、運動したいし」

 「あ、バスケ部なんだ」

 「あぁ。そういえば何部なんだ?」

 「私はバレー部だよ」

 そう言いながら笑う彼女の顔を見つめるのは照れくさくて、すぐに目をそらした。水筒に視線を集中させていると、錦の体操服のズボンのポケットにひょいひょいと粉末のスポーツドリンクの袋を入れられた。

 「えっ?!」

 驚いて自分のポケットを見てから彼女に視線を移すと、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。

 「じゃあその粉末は、高校で部活やるときにぜひ使って」

 「え、あ、どうも。・・・つーか今部活の時間じゃないのか?戻らなくていいの?」

 そういえば、と思い彼女にそう尋ねると、

 「うち緩いからさ~。まぁ明日試合だからちょっと申し訳ないけど、数分いなくなるくらいなら全然おっけー」

と手洗い場に腰かけて、膝のサポーターを上げながらそう返事が返ってきた。それを聞いてから錦は蛇口を閉め、水筒の蓋も閉めてから数回水筒を上下に振った。サポーターを上げながら上目遣いでまた彼女は話しかけてきた。

 「男バスってことは、君も明日試合かぁ」

 「まー、俺はベンチなんであんまり緊張とかはしてないけど」

 「あー、そっか・・・」

 なんとなく思い出すような素振りをしていたので、錦があの日に彼女に言ったことをどうやら覚えているようだ。彼女の言葉を聞きながら水筒に口をつける。会話に注力して水を入れすぎて、かなり味が薄い。めっちゃまずいなと思いながら飲み続けていると、彼女はまた会話を続けた。

 「いろんなことが、今日が最後だね」

 「・・・そうだな」

 しばらく沈黙が続く。ふと錦は、先日教室で2人のスタメンの友人にかけた言葉を思い出す。今こそあの言葉を言うべきなのでは、と思ったが、この沈黙を破る勇気が出ない。じっとしていられなくて、また水筒の薄いスポドリを一口飲む。軽く咳払いしてから、錦も彼女の横に並ぶように手洗い場に腰を掛けた。

 あのとき教室の2人にかけた言葉はまごうことなく、彼女の姿が脳裏に浮かんだからこその言葉であった。しかし、肝心の彼女にはこの言葉は伝えられず胸にしまったままである。もうこれ以上自分から何か発言するのはおこがましいだろうか、と自問自答したり、脳内でまるで竜巻のように錦の考えがブワァと広がり、錦の頭を埋め尽くす。ふと、かけようとしている言葉自体は侮辱するものでも、ネガティブなものでもないから、言ってもよいのでは?という考えが浮かんだ。無意識のうちに水筒を強い力で握る。どう思われるかはわからないが、言いたいことは言ってスッキリしたいと思い、沈黙を破った。

 「明日の試合、エースだろうしいろいろ大変だと思うけど、まぁ気楽に・・・できたら気楽に。楽しんで、がんばれよ」

 俺いつも恥ずかしいことばっか言ってる気がする、と自己嫌悪と照れくささが混じって、彼女の方を向きながら言えなかった。視界には自分の足元しか目に入らない。数秒しても何も反応が返ってこないことに不安になって、目線だけを彼女の方に向けて様子を伺う。彼女も錦同様に俯いていて、困ったような笑顔を浮かべていた。風が吹いて、彼女の短い髪が少し揺れる。ドン引きされてるなコレ、とか、言わなきゃよかったかな、と落ち込んだところで横から消え入りそうな小さい声が聞こえてきた。

 「・・・君には励まされてばっかり。ほんとに、ありがとう」

錦はそこでようやく気付いた。あの日保健室まで引っ張っていったことも、今彼女にかけた言葉も、すべて彼女にとっては「励まし」になっていたのだと。迷惑でも錦の自己満足でも無駄でもなく、確かに彼女にとってプラスになっていたとわかって、ほっと胸をなでおろした。

 「ねぇ」

 横からそう声をかけられて、反射的に彼女の方を向く。

 (目が、すぐに合う)

 そういえば保健室の前で目が合った時も、身長が同じくらいだと思ったなと今更ながら思い出す。意外と彼女との距離が近くて、しかしそれに緊張することも忘れて彼女の顔を見つめた。

 「3年間、お疲れ様」

 柔和で、しかし少し寂しそうな笑みを浮かべ、彼女はそうぽつりと錦に言った。たった数秒、その短いワンフレーズを言われた途端に、今までのバスケ部の思い出がまるで走馬燈のように頭の中を駆け巡った。今よりももっと身長が低くて、ゴールがとても遠く見えたあの光景も、寒さに震えながらランニングしたあの冬も、試合に負けて部員たちと泣いたことも、たくさんの思い出が鮮明に一つずつ思い出されていく。

 気づくと、頬が濡れていた。ぽたりと涙がどこかに落ちた。自分の中でどこか、試合に出ることはまったくなかったと言っていいくらいの活動実績で、そこが後ろめたいと思っていたのかもしれない。しかし、試合に出ることがすべてじゃないと、今ようやく自分を認めることができた。錦の3年間は確かに自分の中に積み重なっている。それは決して無駄なんかじゃないと、3年間頑張ってきた自分は、お疲れ様と言われてもいいんだと安心した途端に何かが自分の中で爆発してしまった。彼女の方を向きながら涙を流し始めてしまったものだから、ギョッとした表情がすぐに目に入ってきた。

 「あっ、あの、ごめん!き、傷つけるつもりはなかったんだけど・・・!本当にごめんなさい!」

 慌てふためく彼女を見てハッとなり、片手で顔を覆いながら俯く。

 「いや、違う。違うんだ・・・。俺こそ、ありがとう」

 あぁ、泣きながら喋るのって確かにつらいなぁと頭の片隅で思う。手で涙をぬぐって、「悪い」と彼女の方を向きながら言った。彼女は心配そうにしばらく錦を見つめていたが、やがて笑顔を見せた。

 「・・・じゃあ、私そろそろ戻るね」

 「俺もそろそろ」

 二人で同時に手洗い場から腰を上げる。そのまま第二体育館に戻っていくかと思いきや、彼女はそこに立ち尽くしたまま動かない。どうしたのだろう?と思いつつ、じゃあなと言おうとしたそのとき、

 「あのね、」

と声をかけられた。錦は彼女の方を向いて立ち、次の言葉を待った。彼女は少し俯いて、じっとしている。そして顔を上げて何かを言おうと口を開いたが、言い淀んで、また口をつぐんでしまった。

 「どうした?」

 思わずそう催促すると、彼女は弾かれるようにまた顔を上げて、何かを誤魔化すように笑った。

 「う、ううん。えぇと・・・、その。卒業までに、またどこかで会えるといいね」

 「あ、あぁ。ちょっと早えーけど、お互い受験とかがんばろな」

 そう言い合った後、彼女は「ばいばい」と手を振りながら小走りで第二体育館の中へと入っていった。しばらくして、錦はまた手洗い場に腰かけた。緊張が一気に解けたようで、腰が抜けた感覚に近い。5分ほど話していたはずだが、錦の体感時間は30秒ぐらいであった。まさかあのときの女子部員と話す機会があるなど考えもしなかった。また、ふと横を見てみる。さきほどまであった彼女の姿はもうなく、ただ校舎と道路を区切るフェンスが目に入るだけだった。彼女の最後の言葉が頭の中でこだまする。

 (卒業までにまたどこかで会えるといいね、か)

 名前も知らず、クラスも知らず、ただこの第二体育館の水道で知り合った仲でしかない錦と女子部員は、友人でもないしクラスメイトでもない。これから彼女に話しかけに行くことや、話しかけられることもないと言ってもいい。今までお互い、同学年だが姿を見かけたこともない同士が再び卒業するまでに会える機会などあるだろうか。もう、あのやり取りが最後だったかもしれないと思うと、やるせない気持ちになった。

 (よく、わかんねぇ)

 水筒を持っていない方の手で頭を掻きむしった後、ゆっくりと立ち上がって歩き始めた。一度振り返って水道を見てみる。なぜそうしたかは錦自身もわからなかった。

 (あー、また休憩時間過ぎてら)

 そう思いながら、重い足取りで第一体育館へと向かった。

戻った後はいつも通りのバスケ部の練習だった。錦にとっては今日が最後という感覚だったが、バスケ部自体が今日で終わるわけではない。練習時間終了も迫り、帰宅を促す音楽が放送で流れる。顧問が集合を促し、また「明日が本番だから~」という旨の話をされる。

 錦はふと体育館の窓から外を見た。一筋の汗がこめかみを流れていくのを感じる。息もまだ整っておらず、じっと立ちながら荒い呼吸を繰り返す。夜も近い夕方とは言えど、夏は日がまだ高い。セミがうるさく鳴いている。体育館を閉める頃には鳴き声は止んでいるかなどと考えているうちに、キャプテンの「お疲れさまでした!」という大きな声が耳に入ってきて、反射的に錦も「お疲れさまでした!」と皆と同じタイミングに合わせて言い、頭を下げた。

 (あ、終わった)

 皆が一斉に掃除などのために動き出す。セミの鳴き声と顧問の声しか聞こえなかった先ほどとは打って変わって、部員たちのざわざわとした喧騒に包まれる。錦はしばらく動けずにその場に立ち尽くした。すると後ろから友人に「錦、モップ行こうぜ」とつつかれて、ようやく体を動かした。その友人も明日の試合のスタメンではない。お互いに歩きながら顔を見合わせて、

 「お疲れ様」

と言い合った。モップを2人で取っていると、後ろから「お疲れー」と言いながら笹山がやってきた。

 「俺もモップやる。並ぼうぜ」

そう提案されたので、錦と笹山とその友人で並んでモップをかけていく。こうやってモップをかけるのも最後か、と思っていると、友人が口を開いた。

 「笹山、明日頑張ってな」

 錦もそれにつられて、頑張れと言った。

 「どこまでいけるかわからんけど、頑張る。・・・はぁー、明日が最後か」

 そして、掃除を終えてから後輩たちと少し話した。今の中3バスケ部員は皆穏やかなので、後輩たちと対立していたりあまり仲良くないわけではない・・・と錦は信じている。後輩たちはまだ片付けをしているようだったので錦たちは手伝おうとしたが、

 「先輩たちは今日が練習最後だし、今日くらいは最後まで俺らでやるんで。先上がってください」

と言われ、お礼を言ってから部室に戻った。

 着替えるのも億劫で、このまま体操着で帰ろうと思いつつ制服をたたんで鞄の中に入れているときだった。キャプテンから「今日は3年みんなで帰ろうぜ」と提案され、3年全員で一緒に帰ることになった。3年生たちが帰宅の準備が整い、部室のドアを開けるとあたりは先ほどとは打って変わって真っ暗になっていた。今何時なんだろう、と錦は思ったが、まぁいいや、とすぐにどうでもよくなった。

 校門を出たすぐ後くらいに、みんなが口を揃えて「明日が最後だな」と言い始めた。しかし、錦の中では今日が最後という感覚は変わりない。例え地区予選で優勝して全国へいって明日が最後にならなかったとしても、錦にとっては今日が最後である。応援する気持ちもあるし、勝ち進めば嬉しいと思うから、冷めているわけではない。スタメンじゃない部員の気持ちなんてこんなもんだろうと思いながら歩を進める。

 みんなで帰宅していると、やがて分かれ道がやってくる度に少しずつ人数が減っていく。錦もそろそろこの帰宅集団から抜ける時がやってきた。

 「じゃあなみんな!明日めっちゃ応援するから!」

 そうみんなに言い残し、一人の帰路につく。そういえばセミの鳴き声がもう聞こえないな、と気づく。先ほどまでワイワイと騒いでいて、改めて一人になると少し寂しさを感じる。ふとポケットを触ると、何かが入っていることに気づく。なんだろうと思い、取り出してみると、今日あの女子部員からもらった粉末のスポドリだった。

 (そういえばねじこまれたんだった。・・・また会えるといいね、か)

 ふと空を見上げると、月がうっすらと見え始めていた。

 (なんか、いろんなことが今日終わった気がする)



 試合当日、錦の中学は優勝へはたどり着けなかった。3回戦で負けてしまったのだ。多くの部員が泣いていたし、錦もまた泣いた。3年の夏が、終わった。

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