3.救済と罪


 江波有希が初めて仕事に出てから、三ヶ月が経った。

 春は終わりに近づき、初夏のさわやかな風がカーテンをなびかせ、吹き抜ける。

 有希は今日までに提出しなければならない課題を終わらせるため、図書室にいた。

 日々の仕事による過労で、夜はそのまま寝てしまうことが多い。

 睡眠時間を裂いてまで勉学に勤しめるほど、有希は勤勉な生徒ではない。その結果が今、この状況ともいえる。

 図書室には有希ひとりしかいない。廊下では、運動部が走っているらしい大きな足音と掛け声が聞こえる。

 青春に汗水流している少年少女と有希はかけ離れている。水と油のように混ざり合わない立場の違いが、胸にささる。

 羨ましいと思ったこともある。しかし有希にはその日常はどうあがいても送れない。

 人々が輝かしい毎日を送っている最中、有希は警戒レベルの低い、比較的簡単な仕事に携わるようになり、マイスターとしての経験を重ねていた。

 しかし、現場に立ち込める死臭や、人間を殺すことにはいまだに抵抗があり、有希自身はいまだディアボロスに侵された人間を一度も殺めたことがなかった。

 初めての現場でも、その次の現場でも、そのまた次でも、仕事にでれば同じ班の人に迷惑をかけ続けてしまっている。

 この前も助けられ、この間も足をひっぱり……悩む有希の手は止まってしまい、前日の仕事のことをぼんやりと思い出していた。



 *



 警告レベルツー以下の仕事は基本的に二人一組で行動するようになっている。

 最初の仕事から、有希は自然と春鐘蓮利とペアを組むことが多くなり、それがいつしか当然となっていた。

 しかしそれが今日に限って、有希の前をゆくのは蓮利ではなく椿姫であった。

 いつもと変わらず髪をひとつに結わえ、きつい目元をさらに強張らせて、黙々と有希の前を走る椿姫。

 有希はその姿を追いかけるだけでいっぱいいっぱいで、息もそろそろ乱れ始めていた。

 見通しの悪い道路で自動車と自転車の接触事故が起こり、それが原因となってディアボロスが発生した。

 有希は現場に急行するように指示されたが、ペアを組むことになったのはいつもの心優しい誠実な青年ではなかった。

 寡黙で、ふざけたことは一切せず、笑った顔など見たこともない、仕事を粛々とこなす少女、黒英椿姫だった。

 有希は初めての仕事が終わった後に椿姫から言われた「無様な姿はもう二度と見せるな」という言葉が胸の奥に引っかかっていた。

 無様なことはしてはいけないというほうに意識が強く傾き、気をとられ、有希はうまく動くことができずにいた。

 自分の本当の力が発揮できていない、などと思い上がるようなことはないのだが、いつまでも頭にこびりついて離れないのだ。

 普段からでもそれなのに、その言葉を言った当の本人が目の前にいては有希はますます緊張するばかりであった。


 有希の目の前を走る椿姫が急に立ち止まる。

 左手を顔の前につきだされ、無言で止まるように指示される。椿姫と同じように息をひそめ、塀にからだを密着させて待機する。

 塀から奥の状況を覗くと、男子学生が頭をつかまれ、悪魔化したとおぼしき中年女性によって電柱に頭を打ちつけられていた。

 ごん、ごん、と鈍い音がくもった空に響く。男子学生は頭部から血液を流しながら、錯乱した悲鳴をあげている。

 その近くには恐怖のあまりすくんでしまった女子学生がいる。こちらのほうは怪我を負っている様子はない。

 男子学生のほうが意識を失えば悪魔化してしまう可能性は高い。

 さらに厄介になる前に、犠牲者を最小限で済ませるためにはいま、手を打たなければならない。

 椿姫は状況を把握すると、相変わらずのしかめっ面で有希に指示を言い渡す。

「私がディアボロスの気をひく。そのうちに学生ふたりを避難させろ」

「は、はい」

 有希が返事をすると、すぐさま椿姫は行動に移る。

 庇護対象とディアボロスの距離が近いため、拳銃を使うことはできない。

 椿姫は太ももにつけたホルダーからダガーと呼ばれる刃渡り十センチほどの短剣をとりだし、男子学生を絞め上げることに夢中になっているディアボロスの脇腹を突き刺した。

 ディアボロスに乗っ取られた人間はもともと瀕死状態、もしくは脳死状態であるため、痛覚があまり鋭くはない。

 それでも脇腹を刺されたことには気がついたディアボロスは男子学生の頭を地面に落とし、自らのからだに突き立てられている短剣を見た。

 地べたに落とされた男子学生はぴくりとも動かない。

 一方のディアボロスは椿姫を新たな標的として定めたのか、返り血で汚れた右手を振り下ろす。

 椿姫はそれをかわし、脇腹に刺したダガーを抜きとって、左手に持ち替える。

 痛みなど微塵も感じていないような悪魔はもたつく片足を引きずりながら椿姫を捕まえようと必死だ。

 その隙に有希は女子学生へ肩を貸し、避難を始めようとしたその時だった。

 倒れていた男子学生が起き上がり、背後から女子学生の首を掴んだ。

「ア゛ア゛、アあアアア゛!」

「ひッ!」

 頭から流れるおびただしい量の血液、ぜえぜえと肩で大きく息をする男子学生は、ディアボロスに侵食されてしまっていた。

 本来ならばまず庇護対象の意識を確かめ、助かる見込みがないと判断できればそこでとどめをさしてしまうのが正しい。

 ディアボロスは肉眼では見えない大きさで、いつでも自らが入りこめる弱った人間を探している。

 拡大を未然に防ぐためには、助かる見込みのない人間の息の根を完全に止めるのが先決だった。有希は選択を誤った。

 強い力で女子学生は引っ張られ、隣にいた有希はとっさに拳銃に手をかけるものの、悪魔と女子学生の距離が近く、照準が上手く定められない。

 有希が悩み混乱していると、悪魔化した男子学生の肩に飛んできたダガーが突き刺さる。

 その衝撃に悪魔は錯乱した悲鳴をあげ、頭をかき乱しながらダガーを投げ飛ばした椿姫の方へ振り返り、椿姫の頭を殴打する。

 強く頭を揺り動かすような痛みが椿姫を襲うが、すぐに顔をあげ、男子学生の方へ椿姫は走る。

 そして間髪入れずに左腕と胸ぐらを掴み、反抗する隙も与えずに胸に引き寄せ、男子学生の左足を刈り上げると真後ろへ投げ倒す。

 胸ぐらを抑えていた右手を放して拳銃に手をかけるが、再びもう一体のディアボロスが椿姫を急襲する。

 椿姫は男子学生に馬乗りになり、身動きができないように封じ、冷酷な、冷えきった顔で自身に襲いかかるディアボロスを先に撃つ。

 眉間よりもわずか右に銃弾が打ち込まれる。椿姫は小さく舌打ちをして、すぐさま男子学生の左胸に銃口をつけると、引き金を引いた。

 薬きょうが床に転がり、椿姫は二体のディアボロスの死亡を確認してから拳銃をしまった。

 そこへ、唯一助かった女子学生を第三課に引き渡した有希が戻ってくる。

「あ、あの……」

「行くぞ」

 椿姫は男子学生の肩からダガーを引き抜き、布で血を拭き取り、太もものホルダーに戻した。

 先を急ぐ椿姫の横顔を見ると、髪が少し乱れて、額にうっすらと赤い痣ができていた。

 自分が選択を誤らなければ、そうすれば椿姫の手をわずらわせずに済んだのだ、と有希は思った。

 そう思うとまた無様なたち振舞いだったと思ってしまい、有希はうつむいて椿姫の後をついていく。



 しばらく走ると、今回ディアボロスが発生する原因となった事故現場にたどりつく。

 ふらふらと、潰れた足で歩こうとしている悪魔化した男女の姿。

 比較的、動きが鈍く、しとめやすそうではあるが、ディアボロスは唐突に動き始めることが多く、油断はならない。

 それに、有希は今までディアボロスを殺したことがない。拳銃に触れる手は常に震えている。

 人の形をしているのだから、ディアボロスを駆逐することは人を殺すことと同義だ、と有希は考えてしまって、思うように引き金が引けずにいた。

「撃てよ」

 隣からの声に有希は一瞬息がとまる。

「え……?」

「お前が撃てよ。いつもやってる通りに」

 椿姫は塀によしかかり、動く気配はまったく見せない。

 腕を組んで、有希のことをただ見ている。その手には拳銃もダガーもない。

 有希は息をのみ、ディアボロスのほうへむいて再び拳銃を構える。

 足は潰れているが、まだ人の形をしている。うめき声をあげてこちらに手をのばしている。

 その姿はまるで助けを求めているようで、人の心が残っているようで、目をそらしてしまいたかった。

 震える手と、揺れる視線で胸に照準を合わせる。

 トリガーを人差し指で押しこむ、まだ発砲はされていない。あと少し押しこめば、銃弾は発射される。

 有希はあろうことか、目を瞑り、引き金を引いた。

 発砲音は閑静な住宅街に響く。

 おそるおそる有希が目を開けると、ディアボロスは目を瞑る前と同じ姿で立っていた。

 手が震えて照準がずれてしまったのだ。

「もう一回やれ」

「はっ、はい」

 椿姫に指示され、有希は肩を震わせながら、またトリガーに手をかけた。

 一度撃ってしまえば、思ったより引き金を引く手は軽くなった。

 しかし、何度も何度も撃つが、ちっとも当たらない。焦燥で有希の心拍は次第に早くなっていく。

 ついには入れてあった銃弾が空になってしまい、かち、かち、とトリガーを引いても空の音が鳴る。

 ホルスターに収納してあった予備の弾倉を慌ててとりだし、入れ替えようと有希はディアボロスから視線を外した。

 まさにその瞬間を狙っていたかのように、ディアボロスは有希に向かって歩き出し、襲いかかる。

 腕を振り回して攻撃してくるディアボロスをぎりぎりのところで避けながら、有希は弾倉を拳銃にこめ終わる。

 とつぜん凶暴になるのはディアボロスによくある特徴だ。

 もう一体のディアボロスも暴れだしたようで、椿姫が応戦している。

 つまり、一体は有希が相手をするしかない。そうでなければ椿姫にまた負荷がかかってしまう。

「おねーちゃんなにやってるの?」

 背後から急に聞こえた幼い声が耳に飛び込んでくる。

 焦ってうしろを向くと、逃げ遅れたのか、迷い込んだのか、園児ぐらいの少女がぽかんとした顔で立っていた。

 どっと汗が吹き出る。逃げろ、という声すらもでないぐらいに混乱してしまっていた。

 ディアボロスは標的を変えたのか、有希を通り越し、少女のほうへ走り出す。

「待っ……!」

 異変に気づいたのか、もう一体にとどめをさした椿姫は有希のほうに振り向く。

 少女にのびるディアボロスの手。有希は悪魔を捕まえようとするが、手のひらにつかむのは空気だけだ。

 またひとり、余計な犠牲を出してしまう。また助けられないのだと有希は、手をのばすのをやめてしまう。

 ディアボロスの手が、少女をかすめとろうと、あとわずか。

「役に立たねえ奴だ」

 ディアボロスを追い越し、椿姫は少女をディアボロスの攻撃からかばう。

 額を殴られ、それに加えてからだを蹴られ、椿姫は少女をかばいながら地面に倒され、拳銃も手から離れてしまう。

 少女は無事であったが、椿姫は殴られたことによってすぐに動けず、少女を抱えたままその場にうずくまる。

 しかし、しどろもどろとしている有希のほうを睨み、指示をする。

「撃て!」

 椿姫の怒鳴り声に有希は肩を震わせ、拳銃を構えて引き金を引いた。

 それは腰部に命中するが、注意をひきつけるだけで、ディアボロスには対してダメージが与えられない。

 ディアボロスの弱点は脳頭部、もしくは心臓だ。そこから遠ければ遠い箇所ほど、ディアボロスに与えられるダメージは少ない。

 ぐるりとディアボロスは有希のほうをむく。目は大きく見開き、歯ぎしりの音が有希をさらなる恐怖へと落としこむ。

 ディアボロスは低くうなり、有希のほうへと歩き始める。

 有希はうろたえることしかできず、拳銃を持つ手に力が入らない。また、逃げるように後ずさる。

「チッ」

 舌打ちをして、椿姫は手元から離れた拳銃を拾い上げ、たちあがる。

 そして少女には惨劇が見えないように顔を隠し、片手で二発の銃弾を放った。

 側頭を撃ちぬかれてディアボロスはぐしゃり、とその場に倒れこんだ。

 椿姫は若干ふらつきなが、少女を抱え、事後処理担当の部署に連絡をする。

 有希がためらうことを椿姫はいとも簡単にやってのける。

 見ていることしかできない有希は、その場に立ち尽し、どこにいても自分はなにもできないのだと、ただただ呆然とする。

「おい」

 軽傷を負っている椿姫はぶっきらぼうに有希へ呼びかける。

「は、はい……」

「私たちは人を救う仕事をしているんだ。自分の身も守れない奴がここにいても意味がない」

 追い打ちをかけるような椿姫の言葉に有希は否定も肯定もできなかった。

 それが事実であったから、何も言えなかった。



 *



 つのる苦悩に、課題はまったく進まない。

 ただ机と顔を合わせているだけの、物事が解決するわけでもない無益な時間が流れていく。

 しかしそれではだめだと、目の前に広がる課題に手をつけようとペンを握り直した。

「ギャアアアアアア!」

 廊下のほうから突然聞こえた男の悲鳴。

 思わず有希はイスから立ち上がり、図書室のドアのほうへ近づく。

 普段は運動部の声や吹奏楽部の演奏、生徒の話し声が聞こえる放課後だ。悲鳴など、滅多に聞くものではない。

 その悲鳴はとても鋭く耳に突き刺さり、とても非日常的に思えた。

 いやな予感ばかりが思い浮かぶ。一気にからだから血の気が抜け、手足に力が入らなくなる。

 また、奇妙なのは、悲鳴の後に一切の声が聞こえないことだ。不気味なまでにしん、としている。

 有希は机のほうへ戻ると、自分のかばんから拳銃のケースを取り出し、太ももにホルダーを取りつける。

 拳銃は校則通りの長さのスカートですっぽりと隠れる。

 勘違いであれば何事もなかったかのようにしていればいい。学生が悪ふざけをしていたという可能性は十分に有り得るのだ。

 どうか何事もないことを祈りながら、有希は図書室からそろりと踏み出した。

 左右を見渡すが、この辺りはなにも異常をきたしてはいないようだ。

 図書室のすぐ近くには踊り場があり、有希はゆっくりと階段をあがる。

 もし嫌な予感が的中すれば、増援を呼ばなければならない。携帯電話があることを確認し、スカートのポケットに戻す。

 三階にあがると、閑散とした廊下が広がる。

 まだ部活動で残っている学生はずであるのに、ここまで静かなのはやはりおかしいと有希は感じとった。

 悲鳴の元は一体どこなのか、有希はそろ、そろ、と廊下を歩く。


 びちゃ、っ、と水たまりのようなものを踏んだ音がすぐ下で聞こえた。

 一体なにかと俯くと、――そこには小さな血だまりが広がっていた。

 白の上靴に赤黒い血液がにじむ。驚いて足をどけると、つぅ、と赤い線がのびる。

 その血だまりの目の前は調理室だ。よく見ると血痕は調理室へと続いている。

 ここまで見れば嫌でも確信させられる。

 間違いなくディアボロスのしわざだ。学校に、ディアボロスがいる。

 手足が震える。上半分がガラスのドア越しに中の様子を確認するが、人の姿は確認できない。

 有希はドアに手をかけ、ゆっくりと横にひいた。

「ア゛ぐ……、アアア……」

「なっ!」

 ぬっ、と棚の影から人型のなにかが現れた。

 開けようとしたドアを一気に閉め、詰まる息を吐きだして呼吸を整える。

 ガラス越しに見えるのは男子生徒、であったもの。

 目はくり抜かれたように空洞ができていて、おびただしい量の出血をしている。さらには潰れた鼻に赤く腫れた頬、個人の認識が難しいほどに顔がぐちゃぐちゃになってしまっている。

 震える片手でドアを抑えながら、もう片方の手で携帯電話を手に取る。

「連絡しなきゃ、連絡、れんら、……ッ!」

 どんっ、どんっ、とガラスは叩かれる。

 目の前に突然現れた異物と成り果てたものに動揺を隠せず、携帯電話の操作もままならない。

 発信履歴の一番上にある名前は黒英椿姫だった。

 誰でもいいから呼ばなければという思いで、有希は必死の形相で発信ボタンを押した。

 ぷ、ぷ……と発信までの予備動作が行われる、その時間すらも惜しい。

「――黒英だ」

「あ、わっ……わたし江波です。ディアボロスが……きゃっ!」

 背後から扉が勢いよく倒れてきて、有希は体勢を崩し、扉の下敷きになってしまう。

 転倒した反動で握っていた携帯電話が手元から離れてしまう。

 後頭部にふれると、生ぬるい液体が手につく。当たりどころが悪かったらしく、不覚にも出血してしまっていた。

 うつ伏せに倒されてしまった有希が後ろを振り向くと、倒れた扉の上には悪魔化した男子生徒が乗っていた。

 ディアボロスは有希のことをつかもうと手をのばしてくる。

 いくら学生とはいえども、男に上から乗られてしまっては有希には分が悪い。

 手を必死で振りほどき、有希はどうにかしてからだを動かし、扉から抜けだそうと試行錯誤する。

「アアア、ああアアああああ……」

「ぐっ、……!」

 ワイシャツの襟を掴まれ、引っ張られる。

 容赦ない力に、有希の首は圧迫され、ぎちぎちと絞められ、むせぶ声が廊下に響く。

 けれどもまだ有希の頭ははたらいている。拳銃に手をかけ、背中のほうへ手をまわす。

 そして、銃口が扉にぴったりくっついたことを確認し、引き金をゆっくりとひいた。


 どんっ、という振動がからだを震わせる。

 有希の上にのしかかっていた扉も、砕けたような音がして、銃弾を放ったそのすぐあと、首の圧迫感からは解放された。

「ぐ、アアアアアア! アああ……ア、……ウおア……」

 有希が振り返ると、顔面をおさえてもがき苦しむディアボロスの姿がうつる。

 銃弾は扉を貫通してディアボロスの顔にみごと命中していた。

 悪魔と化した男子生徒がもがき苦しんでいる隙をついて、有希は扉の下敷きになっていたところを抜け出し、ふらふらと立ち上がる。

 まだディアボロスは顔をおさえて言葉にもならない悲鳴をあげている。

 だくだくと顔から溢れる血液は血だまりのかさを増やす。有希が負わせた傷だ。有希は初めて、ディアボロスの急所に近い顔面を撃った。

 急所は若干外していたが、動けなくなるのも時間の問題だろうと有希は判断する。

 だがどうにも、有希は違和感を感じる。まじまじと男子生徒の顔面を見てみると、顔の損傷は銃創以外にはなく、その代わりに左耳が削ぎ落とされており、そこから血が首筋をつたっている。

 先ほど有希が見た悪魔化した男子生徒とは異なる特徴だ。

 個人を特定しがたいほど顔面が崩れていた、ドアを叩いていた男子とは異なるのだ。

 理解が追いつかない。その時、つんざくような悲鳴が有希の頭に突き抜ける。

「イヤアアアア!」

「まさか……」

 ――悪魔はふたりいたのではないか。有希の脳裏にはいやな想像が浮かぶ。

 いや、時間が経っているのだからもっと増えているかもしれない。

 有希はもがき苦しむ目の前の悪魔をそのまま放置し、調理室の中へ進入する。

 整頓されているはずの丸イスは部屋中に散乱しており、なにかを作る最中だったのか、小麦粉が床にぶちまけられており、調理器具があちらこちらに散らばっている。

 調理室の奥を見ると、食器棚のあたりで震えている女子生徒ふたりの姿が見えた。

「だっ、大丈夫ですか!」

 有希がふたりに駆け寄ると、女子生徒らは目に涙をためて震えていた。

 かなり怯えているようで、顔面は蒼白、まるでこの世に存在するはずがないものを見たかのような、大きな衝撃をうけた顔をしている。

 ひとまず先ほどの悲鳴が誰のものか、確認をとるため、有希は女子生徒らに尋ねる。

「さっきの悲鳴は、あなた達ですか?」

「ち、ちがう……あ……あっ、ちの部屋、連れてかれて……」

 ひとりの少女が指すのは調理室から直結した準備室だ。

 この状況から察するに、有希が最初にみた悪魔がもうひとりの生徒を準備室へ引っ張っていったのだろう。

「……あなた達は警察に連絡してください。すぐに、助けがきますから」

 有希は少女らにそう指示し、自らは拳銃を構え、準備室のドアへと近づく。

 がたんっ、がたんっ、とせまい中で激しく部屋を荒らしまわるような音がドア越しに聞こえる。

(わたしがやるしかないんだ……)

 マイスターであるからにはディアボロスによる危害をこれ以上出すわけにはいかない。

 ディアボロスの恐怖にはいつも足が震え、涙が出てしまいそうになる。

 しかしいつものように頼れる人はここにはいない。ディアボロスと戦えるのは、自分しかいない。

 準備室内をうろつく足音がひとつだけ聞こえる。有希は中にいると思われる悪魔の気をひくため、ドアを二、三回ノックする。

「ヴアアア、あアアア」

 足音がこちらへ近づいて、悪魔の声とドアを激しく叩き返す音が響く。

 有希は、一番最初に見たの悪魔の容貌を思い出していた。

 悪魔の目はくり抜かれたようにぽっかりと穴があいていたのだ。

 いくらディアボロスがからだを乗っとり操っているとはいえども、目そのものがなければ視覚は機能していないはずだ。

 その分、聴覚や触覚をたよりに動いているせいで、ものにぶつかる音がしたり、他の音に過敏に反応しているように感じる。

 有希は拳銃のトリガーに指をかけ、ドアをゆっくりと引く。

「アア゛ア゛あアアあ、ああアア!」

 有希のほうへなだれ込むように悪魔化した男子生徒が現れる。

 標的は音のするほうへと動き、暴れるため、うまいこと目標がしぼれない。

(足を……動かないようにすれば……)

 銃口をしたのほうへおろし、有希はトリガーをひいた。

 日常がありふれる学校には似合わない銃声が、教室内にこだまする。

 銃弾は男子生徒の右足に命中する。若干ひるむも、銃声がした有希のほうへと足をひきずりながら殴りかかってくる。

 しかし幾分か動きが鈍くなり、的をしぼりやすくはなった。あとは脳部、もしくは心臓に銃弾を撃ち込むだけだ。

「グアアアアあアア!」

「!」

 横から、もう一体、さきほど有希が顔面を撃った悪魔が有希を急襲する。

 思わぬ攻撃に、体勢を崩してしまい、棚にぶつけてしまう。棚からはしまわれていた調理器具ががらがらと落ちてくる。

(死んでなかったなんて……!)

 顔面に弾丸があたって、その後大人しくなったのだから、悪魔は死んだのと有希は思っていた。

 しかし、今、有希の目の前には悪魔化した男子生徒が二体いる。

 物が落ちた音に悪魔たちは寄ってくる。有希は棚を支えにしながら立ち上がるが、まだ頭も手足もふらついている。

 じわりじわりと悪魔に追い詰められる有希の気持ちは徐々に後退しつつあった。

(わたしなんかじゃ……)

 逃げ出したい気持ちがこみ上げてくる。

 一体の悪魔を相手にするだけでも精一杯なのに、二体の悪魔に追い詰められ、有希の気持ちは揺らぐ。

 目の前に立ちふさがる耳の千切れた一体のディアボロスが、遠くを見て歩き出す。

 有希のいる場所の奥にはふたりの女子生徒。それを狙っていることは明らかだった。

 悩んでいる場合ではない。考えなしに有希のからだは動く。

 有希はとっさに悪魔に拳銃を向け、二度、トリガーをひく。

 銃弾のひとつはこめかみに、ひとつは首に命中した。

 悪魔は膝からくずれ、頭部から大量の血液を吹きこぼしてその場に倒れた。

 その勢いで、有希はもう一体の悪魔の胸部に向けて銃弾をはなった。

 銃弾をうけて仰向けに倒れる悪魔。

 死を迎えれば、その死体はただの人間だ。ディアボロスに寄生された人間もまた、被害者にすぎない。

 あらためて自分が殺したという事実を目の前にして、胸の内から嫌悪感がこみ上げる。

「うっ……はっ、うぇ……」

 嫌悪感のあまり吐き気をもよおす。けれども、胃の中はからっぽで吐くことはできない。

 有希は初めて自らの手で人を葬った。

 ディアボロスに乗っ取られた死体とはいえども、人は人だ。

 その事実にからだの奥底から震えがこみ上げる。のしかかる重荷に、胸が押しつぶされそうになる。

「江波」

「わ、わたし……わたし……」

 気が動転する有希の前に、先ほど電話が途切れてしまった黒英椿姫が現れる。

 そして、有希の周囲に倒れる死体を見て、椿姫はため息をつく。

「……よくやった」

 椿姫は拾ってあった有希の携帯電話を手渡し、ねぎらいの言葉をかける。

 初めて椿姫から普通の言葉をかけられた有希はおどろきのあまり、涙目のまま顔をあげる。

 椿姫はすぐに顔をそらすと、無事助かった女子生徒のもとへと歩いていく。

「まだ仕事は残っている。最後までやりやがれ」

「はっ、はい……!」


 この後、特殊自衛軍から応援が到着し、学校もパニックになることなく事件は収束した。

 有希と椿姫は東京本部から迎えに来ていた車に乗り込む。

 やっと心が落ち着いた有希だったが、からだは自然と震えている。まだ死体の映像が目にこびりついている。

 ディアボロスの発生現場にはこれまでも何度か同行していたが、やはり自分で仕留めるのと他人が殺したのを見るのでは心への衝撃がちがっていた。

 幾度となく仕事をこなしている黒英椿姫は、相変わらずの冷徹な表情で有希の隣に座っている。

 椿姫のように落ち着いて仕事をこなせるようになるには何年かかるのだろうと、それを考えるだけで有希は疲弊してきた。

 しばらくすると車は東京本部のビルへ着き、降りて自分の部署へ行き、ドアノブをひねる。

「もどりまし――わっ!」

「江波さん! 君がひとりでディアボロスを倒したんだってね!」

 ドアを開けて目の前にいたのは春鐘蓮利だった。

 有希は突如現れた蓮利におどろいてやや後退するが、そんなことはおかまいなしに、有希の手をとって握手し、手を上下に振り回す。

「すごいじゃないか、立派だよ!」

「その辺にしといてやれよ、蓮利。有希ちゃんひいてっから」

 やたらと気分が高揚している蓮利をけん制するのは園崎桐也である。

 どうして必要とはいえ人を殺したのにこんなによろこんでくれるのだろうかと、有希は不可解な気持ちになる。

「ああ、すまない。つい」

「いっ、いえ……あの、びっくりしてしまって……」

 蓮利は有希の手を離し、有希に笑いかける。

 笑っている。蓮利も桐也も。

 有希は心のどこかでディアボロスを殺すことは必要なことであっても、罪の意識を感じていた。

 所詮、はたから見ればただの人殺しなのだ。

 この仕事には必要悪という言葉がよく似合うと有希は思う。人を助けるために人を殺すのだから。

 曇った表情でうつむく有希に、蓮利はなにか察したのか、有希の顔を覗きこんで話を続ける。

「江波さん、人を殺して喜ぶなんて、と思ったかい?」

「……あっ、あの……いや……」

 核心を突かれて、有希は困惑してしまう。

「僕らはディアボロスに寄生された人間を殺すことを『黄泉に還す』と言っているんだ」

「黄泉……?」

「黄泉っていうのは死者の世界のことでね。ディアボロスが寄生することによって、死者は本来いるべきではないこの世に存在することになる。ディアボロスを殺すことは死者が本来の場所、つまり黄泉に還ること。そういうふうに僕らは捉えているんだ」

 そんな考え方もあるのかと有希は思わず関心してしまう。

 有希はディアボロスにとどめをさすことを無意識に躊躇していた。

 悪魔化しているとはいえ人は人である。それを殺せば殺人だと思っていた。

 しかし蓮利らはそうは考えていないらしく、有希とはほとんど正反対の考え方だ。

 殺害ではなく、本来の場所に還す。つまり自らの仕事を救済として解釈している。

 黒英椿姫もそういえば「人を救う仕事」と言っていた。彼女も同じ考えなのだろうか。

 都合のよい考え方だと有希はすこしばかり思ってしまったが、そう考えなければ長くやっていられないのかもしれない。

 それほど、この仕事における人を殺すということは、重い。

 蓮利も有希の心情をすぐに察することができるあたり、彼も過去に有希と同じ考えをしたことがあったのだろう。

「まあまあ、暗い話は終わりにしようぜ」

「そうだね。考えていてもきりがないからね」

 なんと言葉を返していいか悩んでいる最中、園崎桐也が遮って話を終わらせてしまう。

 口下手な有希としては助かった気もして、内心ほっとする。

「そういえば江波さん、学校に残って何をしていたんだい?」

「……あっ」

 その言葉に、有希はかばんの中に入っている、ほとんど手をつけていない課題を思い出す。


 有希は結局、徹夜をして課題に勤しむことになる。

 学校で起こった惨事を、覚えていない教師への言い訳を考えながら。

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