2.四人の処刑人
少女が構える拳銃の先には、ディアボロスに乗っ取られた人間、いわゆる悪魔化した人間によく似た人形が自動で動いている。
その動きは不規則で、左右のどちらかにしか重心をかけられないのか、よたよたと迫りくる。
――かと思えば、けものが得物をしとめるかのように、移動速度を思いきり上げて駆けてきた。
少女はいっさい迷いのない表情で、人形の眉間にだん、だんっ、と弾丸を打ち込んだ。
人形の動作は停止し、少女はふかいため息をついて拳銃をおろした。
江波有希はここ三年で、生きる環境が大きく変わった。
精神的、肉体的な暴力を受けながら虫けらのように地を這う人生を送っていた三年前のことを忘れたつもりになれるぐらい忙しい日々を、彼女は送っている。
性格はあいもかわらず臆病で、自分の意見が述べられない気弱なものだが、それでも少しは前向きな性格になりつつあった。
この選択がよかったのかはまだわからない。それでも、有希にとっては酷な家庭から逃れられたということだけで今は十分であった。
そのかわり訓練はつらい。学校が終われば夜までずっと訓練を行い、くたくたになって一人暮らしのマンションに帰る。
体技から、さまざまな武器の取り扱い方法、ディアボロスに関する知識や考察など、ひと通りのことはやってきた。できなければ教官から罵声をあびせられるし、ほめられることはほとんどないと言ってもよかった。
有希のほかにも訓練兵は何百人といたが、その三割が苦難に耐え切れず途中で脱落していく。有希にとって、脱落は地獄へとまた戻ること。なにがなんでもそれだけは避けたいという意識があった。
心身ともに疲労する。が、それは家庭にいた時よりはずっとストレスがたまらない。
感覚が麻痺しているのだろうと自分でも思う。しかし、からだの痣や傷のすべては、自分が、自分の意志で強くなろうとしてできた傷だ。虐待痕に比べれば大したことはなかった。
有希はようやく、自分の居場所を手に入れた感覚を実感していた。
「江波訓練兵、幕僚長がお呼びだ。すぐに幕僚長室に行くように」
「は、はい!」
拳銃の訓練を終えた有希に教官がそう告げた。
有希はまだ訓練兵の身であり、実戦経験はない。実戦は特殊自衛軍に配属され、マイスターになってから初めて体験する。
洋服の上から着用していた防弾ベストを脱ぎ、拳銃を専用の保管庫へしまい、有希は駆け足で幕僚長室へ向かった。
松原蘭幕僚長は有希を地獄から引き上げた張本人だ。有希は彼女にはとても感謝しているし、仰望するばかりだ。
心音を整えてから、幕僚長室のドアを叩いた。
「特自訓練兵、江波です」
「おはいりなさい」
相変わらずの、三年前とかわらずの柔らかい温かみのある声がドアの奥から聞こえた。
「失礼します」
入室して挙手敬礼を行い、それから松原と顔を合わせる。
「江波有希さん。あなたは三年間よくがんばりました。三年前のあなたは、ほかの子と比べても痩せていて、小柄で、筋肉量も少ないから訓練についていけるか心配でしたが……わたくしの心配は杞憂に終わったようですね」
「いえ……幕僚長がこの仕事にさそってくださったから、わたしはがんばってこれたんです」
有希は恥ずかしげに松原にそう述べる。
自分の感情を出すことが下手な有希にとって、これが今の最大限である。
松原はいつもと変わらない笑みを浮かべて、ふたりの間にある机に書類を並べた。
「今日は大切なことを伝えるために呼びました」
「……はい」
「江波有希さん。あなたは本日をもって訓練課程を修了し、東京本部の第一課、第一班配属のマイスターとして働いていただきます」
その決定に有希は生唾を飲み込んだ。
特殊自衛軍の東京本部第一課は、ディアボロス駆逐を行う自衛官――マイスターがもっとも集中している場所だ。裏をかえせば、もっとも仕事の多い部署ともいえる。
訓練兵はその課程を終了すると、大体が地方支部へ配属となるのだが、有希は決定に従うほかなく、ただ頷いた。
「あなたならきっとやっていけると思います。期待していますよ。あなたの上司を紹介しますから、ついてきてください」
「は、はい!」
松原が立ち上がって歩き出したので、有希もその後ろにつづく。
かつ、かつ、とひびく杖の音。有希はあとから知ったのだが、松原はディアボロスとの戦いで両足を負傷し、右足は義足だが、それでも杖をつかなければ歩けないとのことだった。
夕日の差し込む廊下。向かいから歩いてくる自衛官のすべてが松原に頭を垂れる。
新しい環境に放り込まれることになった有希は緊張した面持ちで、動きもどこかぎこちない。
「第一課は強いだけあって曲者ぞろいなので、あなたはかなり混乱するかとは思いますが、そのうちなれるでしょう」
「は、はあ……」
「ほんとうはあと半年、訓練科で学んでもらう予定だったのですが、第一班に思わぬ欠員が出てしまってですね、あなたに白羽の矢がたったのです」
欠員、と松原はにごしたが、それはすなわち殉職者がでたと考えていいだろう。
この軍にいる限り、殉職はついてまわる。他の軍よりも殉職率が高く、その死もまたむごたらしく、楽に死ねるものではないと有希は聞いていた。
三年前にディアボロスに遭遇している有希にとってその死の散々たる様子はなんとなく脳裏に浮かんでくる。考えるだけで身震いする。
しかし、それを語る松原の顔に、悲嘆の色はない。何人もの死を見送ってきた悲しい慣れだろう。悲嘆に明け暮れる日々など、彼女は捨てたのだろう。
「ただ……第一班の班長は優秀ですが、気が強いですから、ちょっと心配ですね。有希さんと同い年の女の子なのですが」
同い年の女の子……その言葉に有希はおもわず顔をあげた。
有希は三年前に自分を助けてくれた少女をずっと探していた。
ただ、後ろ姿だけを覚えている。名前もなにも知らない、黒髪の少女。
もしかしたら第一班の班長こそが自身を助けてくれた少女なのでは、と有希は考える。
そんなつたない考えと不安を抱きながら、有希は案内されるがままに第一課へ足を踏み入れた。
白い壁に暖かな陽が差し込まれている室内には、円形になった大きなデスクが六つ置かれている。
それぞれ四方にキャスターのついたイスが四つ置かれている。どうやら班ごとに机の島が分けられているようだった。
各々の机の上にはパソコンや資料が置かれており、ほとんどの人間が離席した状態となっていた。
松原は、入ってすぐ右の、独立した長方形の机を使用している女性に声をかけた。
「古舘部長」
「幕僚長、お疲れ様です。――その子が、例の一班の補員ですか」
古舘、と呼ばれた三十代ぐらいの女性は松原に挨拶をすると、すぐに有希の方へと顔をむけた。
「ええ、今日からね」
「ほ、本日より東京本部第一課第一班所属になりました、江波有希です。よろしくお願いします」
有希は古舘と目があった瞬間、さらに緊張が高まる。
見知らぬ上司を目の前にして有希の心臓はばくばくと動きを速め、それでも堅苦しい挨拶をなんとか述べて頭をさげた。
「私は第一課統括部長の古舘アザミだ。君の活躍を期待しているよ、江波さん」
「は、はい!」
古舘から差し出された手を有希は握り返し、その温厚そうな性格に有希はほっと心をなでおろした。
有希は過去に自分がおかれていた状況も手伝ってか、激情型の人間が苦手であった。
熱血であったり、わがままであったり、怒りっぽかったり、感情の起伏が激しいタイプにはどうしても圧倒されてしまいがちだ。
しかし、古舘からはそういった気風は感じられず、一言言葉をかわしただけでも、真面目で実直な性格を感じられた。
「一班の子はまだ来ていないようですね」
「一時間ほど前、三人を下校からまっすぐ現場に向かわせています。もうそろそろ戻ってくるかと」
どうやら一班の班員は有希と同じく学生らしい。
ひとつの班は四人のマイスターで構成されている。しかし常時は二人組で行動し、大きな事件は班で行動し仕事をこなすのだと有希も教えられている。
いついかなる場合でも、ディアボロス駆除の仕事において個人行動は許されていない。
最低でも二人組であれば、片方が瀕死の状態……つまり、ディアボロスの侵入しやすいようになった身体にとどめを刺すことができるからだ。
マイスターはつねに最悪を考えて行動しなければならない。
ひとりがディアボロスから攻撃を受け、助かりそうにもなければ、自らの手で仲間の命を終わらせなければならないことを有希も頭に叩きこまれてきた。
この特殊自衛軍のなかでも最もしたくない仕事がそれだと言われている。悪魔化の拡大を防ぐためといえども、仲間の命を奪うなど。
「……」
松原と古舘が世間話をしているなか、しずかに黒髪の少女が入ってきた。
円形の机に学校指定らしい鞄を置くと、イスに腰掛けてノートパソコンを立ち上げた。
見覚えのある後ろ姿が有希の目をひいた。黒髪をひとつに、桃色の布地の髪飾りで結わえている。
「あら、椿姫さん」
「黒英。幕僚長に挨拶ぐらいしないか」
話に夢中だったのか、イスをひいた音で気づいたらしい松原はのん気な反応をしている。
反対に古舘は顔をしかめており、しぶい顔をして、少女に挨拶を促す。
「……お疲れ様です」
松原の顔を見ずに、液晶画面に視線を落としたまま少女は適当につぶやいた。
「はいお疲れ様。有希さん、あの子が黒英椿姫さん。あなたの配属になった第一班の班長よ」
無愛想な黒英椿姫の態度などまったく気にしていない様子の松原は挨拶を返してから有希に椿姫を紹介した。
椿姫は有希のことをたいして興味もなさそうな冷めた目線で一瞥した。
彼女のひんやりとした視線に有希はぞくりとした。人間味の感じられない、光の入っていない瞳はまるで拒絶されているようだった。
どことなく、三年前に有希を助けてくれた少女の後ろ姿に似ている……。有希はぼうっと彼女を眺めながらそう感じた。感じただけで、確証はない。
「椿姫さん、こちらが……」
「知っている。桐也と蓮利から聞いた」
「あら、あの子達ったらどこから……」
「幕僚長、自分で喋ってましたよ」
「そうそう、独り言がでかいからさあ~」
椿姫から遅れて入ってきた青年ふたりは松原に話しかけながら敬礼をし、笑いながらイスに着席する。
ひとりの青年は有希も初対面だったが、もうひとりは面識があった。
耳のあたりで切りそろえた黒の髪の毛、親しみやすい眼差し、穏やかな顔立ちは三年前となんらかわりはない。
春鐘蓮利。有希が最初にディアボロスに襲われた際、目を覚ました病室で出会った少年だ。
「まさか君と一緒に仕事をすることになるとは思わなかったよ、江波さん」
彼は有希が入隊してからなにかと世話を焼いてくれていた。有希が同世代でもっとも信頼をおける人物といっても過言ではない。
マイスターの先輩としても功績を残しているうえに人柄もよく、有希の相談事にもよくのってくれていた。
人間として非の打ち所がない蓮利が同じ班だと知って、有希の表情はすこしだけ晴れやかになった。
「あ、あの……とても心強いです、春鐘さんと一緒で……」
「なになにー。ふたりとも知り合いだったの? 俺に言ってくれてもいいじゃーん!」
「桐也に言ったらうるさいだろ」
有希と蓮利の会話に割って入ってくるもう一人の青年は、桐也と名前を呼ばれていた。
何度か脱色しているのか、日本人ばなれした明るい髪色にくせの強い髪の毛、場の雰囲気を打ち壊すような軽い口調は有希の苦手なタイプを連想させた。
ものしずかな有希はにぎやかでおしゃべりで、快活な人間に圧倒されやすい。なのでそういう人からはいつも遠ざかって過ごしてきた。
しかし蓮利と桐也が話している感じからして、桐也という青年も同じ第一班なのだろう。持ち直した気持ちが、また少し後退した。
「俺は園崎桐也だよ。仲良くしようね、有希ちゃん」
「よ……よろしくおねがいします……」
やはり馴れ馴れしい性格をしている。桐也からいきなり下の名前で呼ばれた有希は硬直しながらも挨拶をかえす。仲良くできる自信はいまのところ湧いてこない。
桐也は有希の緊張をわかっているかのように微笑むと、さっさと自身の席の方へと歩いていった。
椿姫の正面に座る桐也はなにやら椿姫に話しかけているが、それに椿姫が返答している様子はみられない。
「桐也はいつもああいう調子だから、気にしなくていいよ」
「う、うん……」
気にするなといわれたら頷くしかない。
しかし有希は人から言われたことを逐一気にしてしまうタイプだ。小心者のさがである。
「うまくやっていけそうかしら?」
「……がんばります……」
のん気に微笑んでいる松原に顔を覗きこまれ、有希は努力義務だけを口にした。
落ち着いた雰囲気の中、とつぜんサイレンが署内に鳴り響く。
一瞬にして張り詰めた空気が署内を包み込んだ。
「――C区、愛生会斎川病院にて悪魔化発生。繰り返す、C区、愛生会斎川病院にて悪魔化発生。警戒レベルスリー。ただちに現場へ急行してください」
「第一班、直ちに出動準備を整えて現場に急行しろ」
「はい」
古舘の号令に、有希を除いた第一班の者たちはイスにかけてあった特殊自衛軍のジャケットを学校の制服の上から着こみ、先ほどとは打って変わって真剣な表情で装備を整えていく。
各々は袖机の鍵をあけると、拳銃一式を取り出す。マイスターの主な武器は離れていてもディアボロスを確実に仕留められる拳銃がおおい。
緊迫した空気に心が落ち着かない様子の有希に松原はいまだにこやかに声をかける。
「あなたもいってらっしゃい、有希さん」
「えっ……」
「幕僚長! いくらなんでもレベルスリーは……」
「大丈夫よ、あなたもそうだったじゃない」
古舘の言うとおり、レベルスリーは訓練を終えてすぐのマイスターが対処できる現場ではない。
警戒レベルは五つにわけられている。レベルスリーは団体生活を行っている場所で起きたもののことを言い、寄生拡大の可能性は高いとされるものだ。
密集地で起きた事案は危険度が高い。有希も訓練科の座学で学んだ。
反対する古舘をあしらい、松原は有希に黒革の手帳を手渡した。有希の手は、突然あたえられた仕事の大きさに震えていた。
「これはマイスターの証である執行手帳です。なくさないようにね」
「……幕僚長の命令ならば仕方ない……。黒英、春鐘、園崎、しっかり江波を援護するように!」
「了解です」
「もちろん」
上官の命令には逆らえない古舘は頭を抱えながらも、第一班の面々に釘をさす。
春鐘蓮利と園崎桐也はしっかりと返事をしたが、黒英椿姫は相変わらず黙ったままだった。
有希は古舘から新品のジャケットを手渡され、大急ぎでそれを着る。サイズはちょうどよいが、着てまもないせいか、布地が固く、すこし動きにくくもあった。
「椿姫さん、あなた拳銃二つ持っていたでしょう、ひとつ有希さんに貸してあげなさい」
「……」
太もも部にホルスターを取りつけていた椿姫は、松原の言葉に顔をくもらせながらも袖机から拳銃をもうひとつ取りだした。
なにも言わずに有希のところまで歩いてそれを手渡すと、椿姫は無言で準備に戻ってしまう。有希が口をはさむ隙を与える様子すらなく、お礼を言おうと思った有希の口は椿姫の無愛想な態度につぐまれてしまう。
手渡された拳銃は黒が基調とされており、グリップの部分には拳銃の名前が刻印されている。自動式拳銃のようで、それほど重たいものではない。
ホルスターを装着し、顔をあげると、有希以外はすでに全員準備ができていたようだった。
「よし、行こうか」
蓮利がそう行って有希を促す。椿姫はさっさと部屋を出て行ってしまい、桐也もそれに続く。
マイスターとして初めて仕事にでることに、有希の胸は不安で沢山だった。
失敗すれば、ひとつ間違えれば、本当は考えたくないことばかりが胸を押しつぶす。
それでも与えられた仕事はこなさればならない。そうしなくては自分の居場所がなくなってしまうからだ。
有希は手に汗を握りながら、第一課の部署を出た。
――青年たちの後ろ姿を見送って、古舘はため息をついた。
苦心のにじんだ表情を浮かべる古舘に対し、松原はさも自分は原因ではないかのように振る舞う。
「どうしたのですか?」
「……なぜ江波さんを同行させたのですか。まだあの班員の性格すら把握していないでしょうに」
ディアボロスの対処において、チームワークは要である。そのためにはお互いをよく知り、理解し合うことが大切だ。
出会ってまだ三十分も経っていないうちに有希を同行させたことが古舘には理解できずにいた。
「仕事を共にしたほうがはやく仲良くなるでしょう」
松原は淡々と持論を展開する。
「そもそも第一班に入れること自体反対だったのです、私は。全員まだ子供ですし、年上を入れたほうがまとまりが……」
「大丈夫よ。仲良くなって帰ってくるわ」
「そういう問題では……」
*
C区の病院付近にはすでに他部署のマイスターらが駆けつけており、病院から逃げ惑う人々の救護をしていた。
第一課、第二課はディアボロスの殲滅、市民の救助を主として行うが、ほかにも市民の看護を行う第三課などが存在する。
第三課の仕事はもうひとつある。それは、市民からディアボロスの記憶を完全に抹消することだ。
被害者からはディアボロスに襲われた際の記憶を完全に薬で消し去り、元の生活に戻さなければならない。
いまだ確実な対処方法も発見されていない現在、この寄生虫の存在を公の場にさらすことは不的確だと判断されてのことだった。
なので世間的には、特殊自衛軍は警察よりも重い案件を扱う軍人としてみられている。
バリケードを避けて病院の入り口に近づくと、ほかの部署の人間はわかりきっているような顔で第一班の面々に声をかける。
有希は初めて訪れる現場に視線が落ち着かず、辺りを見回してしまう。誰も彼も落ち着いていて、自分だけが突然異空間に放り込まれたような感覚におちいった。
しかし、ここは一般人にとってはたしかに異界のようだろう。ディアボロスに関する知識のない一般市民からすれば、とつぜん気の狂った人間に襲われている犯罪事件にしか思えない。
日常ではない異質感がここには漂っている。けれども、有希はもう踏み入れてしまった。異常が日常となる世界へ。
黒英椿姫は現場についてからも無言のまま、病院の入り口へと近づく。自動ドアが反応して開き、なかへ招き入れられる。
閑散とした院内。待合用のソファには荷物が置き去りにされており、床にはファイルされたカルテや体温計、プラスチックのトレイが落ちている。院内がいかに混乱した様子かは容易に想像できた。
ディアボロスに寄生され、悪魔と化した人間を探すために、有希以外の三人はどんどん前に進み始める。
「だーれかー、いませんかー?」
脳天気な声で園崎桐也はとり残された人間がいないか確認する。
すると、受付カウンターのほうから、がさ、がさ、と音がする。
物音に気がついた桐也はひょいひょいと軽い足取りでカウンターのほうに近づき、ちょうど死角になっているカウンターの内側を覗きこんだ。
「ウっ、ウッ……、ウウっ……」
事務員の制服を着こなした女性が、小さなうめき声をあげながら頭を抱えてうずくまっている。
顔は見えない。どんな表情をして女性がすすり泣いているのか、この状態では判断できない。
桐也は女性に手を差し出し、優しい口調で説き伏せるように話しかける。
「可哀想に。逃げ遅れましたか? 俺が出口まで案内しますよ」
まるで女を口説いているように、誰しもがだまされてついていきそうな優しい表情と声音。
安易に女性に近づく桐也のことを、有希は黙ってみていた。
――本当にまだ人間なのだろうか?
有希が不安に感じたその瞬間だった。
「ウっ、……ウッ、……アあ、あアアあ!」
嗚咽混じりの奇声をあげて女性は立ち上がった。
腹部には、すでにはさみがぐっさりと深くまで突き刺さって制服を血で濡らしていた。出血多量で意識が薄れてきたところをディアボロスに寄生されたのだろう。
女性の手に握られているのは限界まで刃がでているカッターナイフ。どこを向いているのかわからない瞳孔の開いた瞳のまま、女性はカッターナイフを桐也めがけて振りあげる。
有希は思わず息を呑み、手を口で覆ってしまった。目の前で人が切りつけられると思ったからだ。
しかし、女性がカッターナイフを振りおろそうとした瞬間、女性のこめかみをひとつの銃弾が撃ち抜き、さらにもうひとつの銃弾が左胸部を抉るようにして身体へ潜り込んでいった。
桐也の口角はあがっている。椿姫と蓮利の拳銃からは紫煙がのぼっていた。
女性は呟くような小さな声でたわごとを喋りながら後ろの方へ倒れる。
有希の心臓はどくどくと早さを増していく。いま、ここで起こったことが、三年前の自身が巻き込まれた事件と重なってみえてしまった。
淡々と行われていく悪魔化した人間の処分。この場で恐れているのは自分だけだと有希は悟る。そして、本物の人間を殺す現場において恐怖してまったことに、なんともいえない無力さを感じた。
「……私と桐也は二階から上の駆除をする。蓮利はそこの新入りをつれて一階と地下の駆除だ」
「わかったよ」
蓮利が指示に賛成すると、椿姫と桐也は階段を使って二階へと消えていった。
先ほどの悪魔化した女性のことなど、熟練のマイスターにとっては日常のほんの数秒のことにすぎないのかもしれない。
有希は呆然と階段を眺める。踊り場にある窓ガラスから、閑散としたこの病院にそぐわない、落ちかけの夕日が差し込んでくる。
「僕たちも行こうか。ついてきて」
「は……はい」
有希はただ蓮利の後ろをついていくことしかできない。
この病院に何体の悪魔がいて、どこから襲ってくるかなどまったくわからない。ただ拳銃に手をかけ、辺りを注意深く見ることしかできない。
しかし、不安が恐怖へと変わってしまった今、有希にまともな判断能力はない。
「初めてだから、緊張しているだろうけど、新人さんは生き残ればそれだけで十分なんだ」
「……え?」
「こんなことを入ったばっかりの君に伝えるのもどうかと思うけど……初仕事での生存率は五割程度。だから君は僕のうしろをただついてくるだけでいい」
「そんな……」
初めて知った事実に、有希はただ呆然とする。
裏を返せば、五割の人間が初めての仕事で死んでいるということだ。
いくら殉職率が高いとはいえども、初めての仕事で死ぬ確率が五割だなんてことはだれからも教えられたことはない。
自分にとってマイナスになることを教える人間はあまりいないのだから、当然といえば当然なのだ。
軍の殉職率が高いのは知っていたが、初めての仕事ですぐ殉職となってしまえばなにもかもが報われないではないか、と有希は思ってしまう。
蓮利は恐怖におしつぶされてしまいそうな有希のほうを向いて、優しく言葉をかける。
「初めのうちは生き延びることだけを考えてほしい」
「……わかりました……」
「安心して。僕らは君を死なせるようなことはしない」
蓮利は余裕のある柔らかな表情を浮かべて、有希にほほえんだ。
有希が知っている蓮利のことと言えば、彼はもう八年近く働いているベテランで、色んな人から信頼のおかれている真人間だということ。
彼についていけば大丈夫なのだと、有希は恐怖を拭うように大丈夫だ、と心の中で唱え続けた。
夕日が完全に落ちて、院内にも自動的に蛍光灯が灯される。
ただ廊下を歩いていると、普通の病院にしか思えず、とても悪魔が潜んでいるようには思えない。
そう思った瞬間だった。どん、どん、となにかを叩いてるようなくぐもった音が耳を通り抜けた。
蓮利の足が早足になったかと思うと、エックス線撮影室の前で立ち止まって、扉に耳を近づける。
どん、どん、と音がより近くに聞こえた。
「念のために銃を構えて」
蓮利の指示に有希はだまって拳銃を構え、胸元へもっていく。
スライド式の扉を、蓮利が静かに開ける。からから、とスライドの音がなにかを叩く音と混ざる。
――そこにいたのは、撮影室と別室を遮断する窓ガラスを執拗に叩く人間だったものの姿だった。
検査着を着せられた男ともうひとり、医者らしき白衣を着た男が、窓ガラスを叩く。その手には血がついているのか、窓ガラスはひきのばされた血液で汚されている。
どちらの男にも出血が見える。床に落ちた鋭利な刃物には血がべったりと付着している。血液はまだ新しいものに見えた。
まるい血液の痕は検査着の男の足元に続いており、小さな血だまりができていた。しかし、男は気狂った顔で、言葉にならないただの音を発しながら窓ガラスを叩いている。
二人の男は間違いなく、悪魔化していた。ディアボロスによって寄生されている。
蓮利の後ろから有希もその現場を覗くと、窓ガラスの奥の別室で壁にはりついて身動きのできなくなっている男がいるのがわかった。
その男は見たところまだ損傷はしていなかったが、二体の悪魔に混乱しており、気が気でないというような表情をしているがまだ正常な状態で生きているようだった。
蓮利は二体の悪魔をみても臆する様子などまるで見せず、わざとこちらに注意をひきつけるため、壁を二、三回ノックする。
「ア、あ……」
「アアあア、ア、」
こちらに興味を示した。振り向く動作も遅く、どうやら動きは俊敏ではないようだ。
蓮利は構えた銃をそのまま、白衣の男の眉間に銃弾を放つ。続いて、完全にしとめるようにもう一発を心臓へ。
白衣の男は窓ガラスにもたれるようにして倒れる。眉間から溢れ出る血液は顔をつたって落ちていく。純白の白衣が赤く汚れていく。
駆逐された男をみて、もうひとりの男は切り刻まれてはらわたが飛び出た腹部の傷をものともしないでこちらに向かってきた。
一気に早さを増して飛びかかってくる。蓮利たちがいる扉から男の距離までは遠くない。
唾液なのか、血液なのかわからないものを口から泡のように吹きこぼしながら男は蓮利に襲いかかろうとする。
しかし蓮利は、一寸の狂いもなく三弾目を首へ撃ち込んだ。
薬きょうが、からんと床に転がった頃にはもう、悪魔化した男のからだはぐらり、と仰向けにひっくり返っていた。
蓮利はいとも簡単に二体の悪魔を射殺してみせた。
有希はただ蓮利の背後からその様子を見ていることしかできない。同じ年頃の人間がやっていることとは到底思えなかった。
別室にいる男を助けるために、蓮利は死体を避けながら扉まで移動し、ゆっくりと扉を押し開ける。
悪魔のよって窮地にたたされていた男はいまだ震えており、腰が抜けていて自力で逃げることはできなさそうであった。
「まずはこの方を外に運ぼう。江波さん、肩を貸してあげて」
「は、はい!」
有希と蓮利で男性に肩を貸し、病院の外にまで連れて行く。
玄関のほうまで連れて行くと、第三課の人間がすぐに被害者の引き受けに向かってくる。
そのまま被害者男性を第三課に任せると、有希と蓮利はふたたび一階のディアボロス捜索を開始する。
一階の他の部屋にはディアボロスはおらず、病室から動けず逃げ遅れた人をまた院外へ連れだしているうちに、結構な時間が経っていたことに有希は気づいた。
「思ったよりディアボロスによる被害は少なさそうだね。次は地下へ行こう」
「……はい」
一階にはさほどディアボロスが残っていないと判断した蓮利は階段をつかって地下一階へとおりる。
さきほど有希が院内マップを見た限りでは、地下一階は用のある人間以外は立入禁止となっており、一般人が容易に入れる場所ではないことが伺える。
重い足取りで階段をおり終わると、薄暗い時代外れな蛍光灯がじーっ、と音をもらしながらついている不気味な空間が広がっていた。
あまり日々の手入れはされていないようで、床や壁は黒く汚れており、どこの部屋も明かりは灯っておらず、ますます陰湿な気配を漂わせていた。
有希はあまりのおどろおどろしさに、はやくここから立ち去りたい気持ちでたくさんだった。
拳銃を胸元に構えながら、ただ奥へと前進する。
すると、かしゃん、と小さな金属類を落としたような小さな音がかすかに耳にはいる。
「…………」
蓮利はなにも言わずに有希に目配せで合図を送り、黙って後をついてこさせる。
人のいる気配のする部屋の前にたどり着き、ドアに手をかけるが、扉は開かない。どうやら中から鍵がかかっているようであった。
万が一なかに生存者がいれば助けなければならないので、部屋の中を調べないわけにはいかない。
物音で気づかれることを承知の上、蓮利は発砲して鍵を壊した。
そして一気に扉をあけ、室内に入り込む。
廊下よりも寒い空気とホルマリンの臭いが有希たちをとりまく。この部屋は、院内で唯一の解剖室であった。
解剖台の上に寝かされた解剖途中の死体は腹が開けられてそのままで、取り出された赤黒い臓物がステンレス製のトレイの上にのせられていた。
より濃い死臭と薬品の臭いが混ざって、有希は思わずえづいてしまいそうになる。しかし、気分を悪くしている暇などなかった。
目の前の、死体を解剖している人間は、こちらに目もくれず、ただただ手を動かしている。
術着をきた男は、たったひとりで死体の解剖を黙々とこなしている。
その姿はまともにも見えるが、まともではないようにも見える。
男がしている青色のマスクには内側からついたようにもみえる、血の流れこぼれたあとが染みついている。
やがて、男はゆっくりと視線を有希たちのほうへ向けた。
……焦点の合っていない目と、視線があった気がした。
「ひッ、」
やはり普通の状態の人間ではない、と有希は思った。思わず拳銃を握りしめる手に力がはいり、額には脂汗がにじむ。
男の手には医療器具とはいえども凶器が握られている。
この男がディアボロスに侵されているのならば有希たちを人間と認識次第、襲ってくるはずだ。
しかし、この男が悪魔化しているという確証はいまだ持てない。
通常、ディアボロスに寄生された人間は仲間……己らが寄生しやすい弱った人間を増やすために人間を襲う。
だが今のところ、この男にはそれらしい行動はみられない。
「こ、この人……悪魔じゃ……」
「…………」
蓮利は、有希の問いには答えない。
その蓮利の態度に有希はますます不安になり、自分でもわかるぐらいに脈拍がはやくなる。
男の目が、ずっとこちらに向いているように感じる。その目から、目が離せなくなる。思考は恐怖に支配される。
正面の恐怖に気をとられていた、その時だった。
「ガ、アアあア、アあガアア!」
「やっ……、いやっ!」
背後、何者かによって有希はとつぜん視界を奪われる。
めくれてぼろぼろになった、皮膚の感触が顔に触れ、ぞわっ、と鳥肌がたつ。
顔に突き刺さる鋭い爪、液体で顔が濡れ、目もまともに開けない。
有希は必死で振りほどこうとするものの、何者かのほうが断然力が強い。
「江波さん!」
「ぐアアア、あアアあアア!」
蓮利が大声で有希を呼んだ途端、タイミングわるく先ほどまで死体をさばいていた男が刃物を持って蓮利に襲いかかってきた。
後方には襲われている有希が、前方からは自らを襲う悪魔が迫ってくる。蓮利は瞬時に弾丸を悪魔化していた男の顔面に向かって放つ。
それは眉間には当たらなかったものの、右目に命中し、男はまるで人間のような声で喚いている。
蓮利は慌てて振り返って有希の方を向く。有希の頭部を抑えこんでいる女の悪魔はずるずると有希を引きずりはじめていた。
悪魔に拳銃を向ける。しかし、有希との距離が近くて照準が合わない。万が一外してしまった時のことを考えるとリスクが高すぎた。
「江波さん! 拳銃を、引き金をひくんだ!」
蓮利の呼びかけに、有希は必死で拳銃の引き金をひいた。
しかし、それは悪魔の髪の毛にかすっただけで、失敗に終わってしまう。
必ずしも訓練の時のように万全の状態で拳銃が撃てるわけではない。だが、有希は外したことによってさらに混乱してしまう。
蓮利自身も有希に気を取られている場合ではない。
目の前で目を撃ちぬかれてうずくまる悪魔は、怒り狂ったかのように蓮利へと襲いかかる。
勢いのまま飛びかかってきた悪魔を蓮利は避けると、壁に激突し、たわごとを言いながら蓮利のほうへ手をのばしている。
その姿はまるで助けを求めているかのようだった。
「ア、アだ、ヅ……エで……」
「…………」
なにかをこちらに話しかけているようにも聞こえた。
けれども蓮利は聞こえないふりをして、眉間に照準を合わせる。
こうやって言葉を話している、こちらになにかを伝えようとしている個体はまれにいる。
しかし今の蓮利は、ただ目の前の悪魔を倒し、有希を助けることだけに集中しなければならない。
悪魔のざれごとに、耳を貸す暇はない。そんなものを逐一聞いていたら、頭がおかしくなってしまいそうになる。
「アが、ガギあ……あアアア、」
「いやっ……いやだ……」
三年前、初めてディアボロスに襲われた時のことをまるで再体験しているかのようだった。
あれから自分はまったく成長していないではないか、と悪魔に引きずられてさんざん思いしらされる。
両目を覆われるようにして頭を持たれているため、視界は真っ暗闇のままだ。悪魔の手をどかそうとしても、非力な自分のちからではどうにもならない。
平坦な床から、なにやら出っ張りとくぼみのある道に変わった。
おそらく階段だろう。傾斜のある場所と判断した有希は、拳銃を握りしめ自分の顔の辺りに持っていくと、無我夢中で引き金に手をかけた。目はみえないが、とりあえずやるしかない。
どんっ、と発砲音が鼓膜に響く。銃を撃ったことによる振動がからだ中に広がる。
顔に生ぬるい液体がかかったかと思うと、隠されていた目は解放され、視界が自由になる。
目の前には階段の最中で腕をおさえて奇声をあげる悪魔の姿。鉛球は運よく悪魔の手首に直撃したらしい。
この場からはやく逃げ去りたい。悪魔の手から離れた今、有希の脳裏にはその考えしか浮かばなかった。
地べたを這いずるように上の段に手をかけたが、痛みを負ったことで逆上した悪魔は、有希の腕をつかみ、踊り場へ思いきり投げ落とした。
悪魔は頭をかきむしりながら有希のいる踊り場へおりてくる。
階段から落とされた衝撃で頭も腰も脚も痛む。うまく起きあがれない。
有希が床を這って悪魔から距離をとっていると、悪魔は首を狙ってきた。悪魔の、細い手が倒れこんだ有希の首にかかり、ぐっとその手に力がはいる。そしてそのまま、壁にそって有希のからだは持ちあげられてしまう。
握力はディアボロスに寄生された女のほうが上だ。必死に抵抗しようにも、少しだけ首から指を剥がして、呼吸をするのがやっとの状態だ。
拳銃を持つ手にも力がはいらず、ついには人差し指に引き金の部分が引っかかっているだけになってしまい、床に落としてしまいそうになる。
首が圧迫され、血の気がひいていく。薄れゆく意識のなか、まぶたが閉じかけた横目で有希がとらえたのは、階段の上にいる人間だった。
見えたと思った時には、首をつかんでいた悪魔は脳幹を撃ちぬかれてその場から吹っ飛んでいた。
苦しさから解放された有希は床に落とされ、大きく息を吸って咽ぶ。
階段のほうへ目をやると、ゆっくりと階段をおりる黒英椿姫の姿が目にはいった。
いらだちを隠そうともしない椿姫の顔には心配という思考は浮かんではいなさそうだ。
紫煙のあがる拳銃を太ももにつけたホルスターにしまうと、椿姫は有希の目の前にたつ。
「…………」
「……あっ、あの……助け……」
「江波さん!」
へたり込む有希の後方から蓮利が現れる。
血相をかえた蓮利は、有希の安否を確認して深いため息をついた。
「よかった……無事で……」
「ご、ごめんなさい! わたしがよそ見していたから……」
「いいや、これは僕の過失だ……。君を死なせてしまうところだった。本当にすまない」
蓮利は片膝をついて、有希の手を握りながら真剣な眼差しで謝罪する。
実直な瞳は蓮利の性格がいかに誠実か現れている。そんな彼の視線を有希はこらえきれず、思わず目線を外してしまう。
椿姫はそんなふたりの様子を見て、興味がなさそうにさっさと上の階にのぼっていこうとする。
「椿姫、君が江波さんを助けてくれたんだろう。ありがとう。本当に助かった」
そんな椿姫を蓮利は呼びとめ、丁寧にお礼を述べる。
「……そんなに腑抜けてる暇ないだろ」
「……」
有希たちに背を向けたまま、椿姫は蓮利にそう言ってのけた。
言葉の意味が有希にはわからなかった。けれども隣にいる蓮利の顔を覗くと、堅実な顔がすこし曇っているように見えた。椿姫が言った言葉になにやら思うところがあるかもしれない。
椿姫はさっさと階段をのぼってこの場から立ち去ってしまう。
蓮利は沈黙のあと、椿姫に言い返すこともせず、有希に「行こうか」とただ促した。
この病院にひそむ悪魔はすべて駆逐され、後始末は他部署の人間に任せられた。
有希たちは用意された車に乗り込み、特殊自衛軍の東京本部への帰路についた。
訓練とは違う、実際の現場を経験した有希は、すっかり気が抜けてしまって、ただただ反省するばかりだった。
へたすれば死んでいた。三年前に有希を助けた少女が椿姫なら、また椿姫に助けられてしまったこととなる。
彼女に対してありがとうの一言も言えないまま、有希は椿姫とは一番遠い席に座っていた。
しばらく車にゆられて本部につくと、第一課の部屋では松原蘭と古舘アザミが第一班の帰りを待っていたようだった。
古舘は有希の姿をみて目を丸くしておどろき、松原は相変わらずの虫も殺さないような笑みを浮かべていた。
「よく戻ってきたな、江波」
「は、はい……。みなさんが助けてくれて……あの、わたしはなにも……」
「いいんだ、最初はそれで」
古舘も蓮利と同じようなことを言う。やはり、初仕事では生き残れば御の字というのは本当なのだろう。
有希は足につけていたホルスターと拳銃を取り外し、おそるおそる椿姫の元へ持っていく。
「あ、あの……、ありがとうございました。さっきも、これも……」
有希は借りていた拳銃を椿姫に差し出すが、椿姫は一向に受け取ろうとしない。
「いらない。やる」
「……えっ?」
そう返されるとは思わなかった有希はおもわず聞き返してしまう。
しかしそれに対する椿姫の返答はなく、椿姫は装備を外すと有希に人差し指をつきつける。
「今日みたいな無様な姿はもう二度と見せるな」
困惑する有希を尻目に、椿姫はさっさと第一課を出て行ってしまう。
椿姫の言葉に有希はただぽかんとしていて、それを見ていた蓮利は眉間をおさえてため息をついている。ただ桐也は全員の様子をみてけらけらと笑っていた。
「有希ちゃん、椿姫の言葉が厳しいのは昔っからだから気にしなくていいよ」
「えっ、い、いや……でも……」
「君は新人なんだから、できないことがあって当たり前なんだ。まったく椿姫は……」
「……迷惑、かけたのは事実だから……、黒英さんの言うとおりで……」
蓮利と桐也は椿姫の言葉から有希を守るように励ましてくれる。
しかし椿姫の言うことはもっともだと有希は考える。
有希は悪魔を目の前にして逃げたのだ。
マイスターというディアボロスを駆逐する身でありながら逃げるなんて、無様と言われても仕方がない。
蓮利と桐也は有希の頭上でああでもないこうでもないと話をしている。口下手な有希は会話にはいることが苦手である。ましてや自分に関する話題だからなおさらだ。
「みなさん。お話はそれぐらいにして、今日は初日で疲れているでしょうから、有希さんは帰してあげてくださいな」
困っている有希を察したのか、松原は有希を帰らせるように促す。
事実、有希は今日の仕事で肉体的にも精神的にも疲労困ぱいであり、松原の助け舟には助かったというのが本音だ。
「そうですね。江波さん、今日は怖い思いをさせてごめんね」
「じゃあね、有希ちゃん。また明日会えるのを楽しみにしてるよ」
*
有希は東京本部から徒歩五分ほどの距離にあるマンションに帰ると、ふらつく足でベッドまで歩き、いきおいよく倒れこんだ。
特殊自衛軍のジャケットも、なかに着ている汗の染みついた運動服も脱ぐ気が起きなかった。
からだがまったく動く気がしない。緊張の糸が切れてしまったかのようだった。
ぼうっとする頭で今日のことを考えるが、ちっともまとまりはしない。頭のなかに浮かんでくるのは恐怖の記憶だけで、思い出すだけでも背筋がぞくりと凍る。
ジャケットの胸ポケットから、特殊自衛軍所属のマイスターであることを示す執行手帳を取りだし、ながめる。名前に生年月日、いつとられたのかわからない顔写真。
これを見ても、本当に自分がマイスターになったという実感は、まだ沸き上がらない。
枕に顔をうずめて、椿姫に言われた言葉をひっそりと思い出し、手帳を思わず握り締める。
「……がんばらないと、居場所、なくなっちゃう」
ここだけが有希の居場所なのである。ほかを探しても有希を受け入れてくれるところなんてどこにもない。
たったひとつの居場所を守るために、有希は戦う。ディアボロスとも、自分自身の弱さとも。
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