七日目3

 その聖人めいた笑みに、俺は悟った。

 彼はもともとこの馬車には乗っていなかった。屋敷の地下に残されていたいくつかの馬の足跡は二匹どころではない。三匹いたのだ。その一匹に跨ったギルドラートは離れて馬車を追尾し、追ってきた俺をも捕えようとした。馬は今、ギルドラートのものと俺のものとで二匹。馬車動かすには十分事足りる。

 また、奴に追い抜かれたのか……っ!

 剣を構えようとしたところに、衝撃が走った。


「僕は本気だよ、兄弟。僕が死なないように、君も死ぬことはない。でも、痛いのは嫌だろう? だから、そうさ。ヴェルジュリアに入らないか? 僕たちを生み落としてくれた人の下に帰るんだよ、ね?」


 腕をなにかがめり込んでいった。筋繊維が破裂するような激痛が、右手の自由を奪っていく。

 そう言って無邪気に笑うギルドラートの姿は、まさに悪魔だった。彼は本気だ。痛みはあっても、死なないのは分かっている。だから、まるで玩具を見つけた子どものような無邪気さで、俺を撃とうとしている。それは、耐えがたい恐怖だった。今まで感じてきた中で、一番の恐れであった。

 いくら殺されかけても死ねない。なのに、痛みは続く。

 その事実に気づいたとき、やってくる恐ろしさは、あの街の奴らの数倍以上だった。

 その間にも、超常的ななにかが体を修復していくのを感じた。感覚を失っていた右手が戻ってくる。ギルドラートは、ねぇ、と笑顔で手を差し伸べてくる。片手に、鉄塊を携えて。その姿に震えが止まらなかった。後ずさる俺に、ギルドラートは恍惚とした笑みを浮かべながら近づいてくる。こつんと、硬いものを背に感じた。馬車である。彼は獲物を追い詰めた狼のように意地悪く微笑んだ。


「さぁ、楽になろう、リューク君。君を赦してくれるものはもういない。悪魔なんだとみんなが知ったら、どんな反応するだろうね。シエラちゃんが知ったら?

 この世界はもはや穢れに満ちている。殺し、犯罪、戦争、恨み、憎しみ、嫉妬、差別、虐め……救いようなんてありはしない。そうは思わないかい?」


 ――シエラが……知ったら?

 思わず、笑いがこみあげた。シエラが知ったら、か。怪訝な顔をするギルドラートに、俺はなおも笑いが止まらなかった。彼女の言葉を思い出すと、心の中にあった恐怖心が解けていくような気がした。なんだか痛みも半減されていた。

 だから、俺は言ってやった。シエラのように自信をもって。


「お前らの言うこともわかるんだ。この世界は、確かに救いようがないよ。

 ……でもさ、そんなことどうでもいいんだ。俺はただ、お前を殺す。俺の好きな人のために、お前を殺すよ」


 この世界は、確かに汚れ切っている。中には偏った考え、過激な選民思想を持つ者までがおり、皆が皆、神話などというホントかウソかわからないモノを信じ込んでいた。穢れに触れたことがない者なんて、生まれたばかりの子どもだけのようなものだ。そんな世界では俺の存在を赦してくれる人なんて、いないに等しいだろう。

 だけど、それでいい。

 シエラだけが俺のことを笑ってくれたなら、俺はいくら嫌われていたって構わない。

 俺は挑戦的な笑みを湛えて言ってやった。泥仕合は必至だろう。だってどちらも死なないのだから。なら、俺が屈しなければいいだけである。

 ――なぜなら、味方は俺一人ではないのだから。

「見損なったよ」ギルドラートはため息を吐きながら続ける。「だけど、必ず君は連れ帰らなければならない」

 そう言って、彼が鉄塊を俺の額に向けたときだった。


「やぁっ!!」


 気の抜けた掛け声と同時に、ゴンっと鈍い音が響いた。同時に、ギルドラートはふらりと体勢を崩した。その隙に、俺は力を振り絞り剣で頸動脈をひと薙ぎした。鮮血が迸り、ギルドラートは絶叫を上げる。死なないのは奴も一緒。だから俺は、持てるすべての力で、奴の腱を切ってやった。鉄塊を蹴り飛ばし、心臓を一突き。深々と刺さった剣は抜かずに放置しておいた。これで、回復には時間がかかることだろう。

 喘ぐように浅い呼吸を繰り返す彼の目が見開かれる。俺はそれを見下ろし、


「お前の誤算はな。俺はお前が思うほど、一人じゃなかったってことだ」


 ヒュウガは血のこびりついた大きな石を握りしめ、呆けた顔で見つめていた。そして、首を大きく振る。石を放り投げ、顔を叩き、よし、とこちらを向いた。


「聖剣は奴の脇だ」


 ヒュウガの言葉に従って見ると、ギルドラートの鞘には剣がおさまっていた。精緻な造形。それは刀身こそ黒ずんでしまっていたが、まごうことなく聖剣であった。

 聖剣を構えると、ヒュウガが横から柄を握った。光に包まれていく刀身。暗い光は蛍のように舞い上がり、先から元の輝きを取り戻していく。


「行くぞ」

「……あぁ、構わぬ」


 せーの。俺たちは、一息に、ゆっくりと聖剣を突き刺した。

 突き刺された箇所から、ギルドラートは黒い光の結晶となっていった。その結晶は刀身に吸い込まれていく。失われていく輝きだが、その光を取り戻すことは、ヒュウガにでさえできなかった。おぞましいほど暗く禍々しい光であったが、なんだかその光景は幻想的で、美しいとさえ思えた。

 やがて、ギルドラートの姿はなくなった。ナイフと鉄塊だけが、そこには転がっている。聖剣はもう聖剣と呼べるものではない。魔剣に等しかった。


「ヒュウガ……」


 ヒュウガの姿は、ひどく痩せこけていた。それは、この世界の住人に見えるほどだ。彼も、薬物の影響を受けてしまっていたのか……。

 謝罪なんてできなくて、俺は拾った指輪を彼に差し出した。彼はそれを受け取ると、じっと見つめたのち、「えいっ!」と間の抜けた声を上げて放り投げた。


「おいっ、なにやってんだよ! ……いいのか?」


 その問いに、ヒュウガは笑んだ。


「いいんだ。もう、だって自分を偽る必要はなくなった。今の俺は、きっと誰よりも強いはずだ」


 その笑顔は、斜に構えた痛いヤツのものではなかった。

 年相応の、けれども少し大人びた、爽やかな笑顔の少年が、そこにはいた。


「じゃあ、帰ろうぜ」


 聖剣を腰に携え、俺は崖の上の屋敷を見上げた。

 屋敷は俺たちの勝利を告げるように、炎々と燃えあがっていた。

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