六日目8
辺りが水を打ったように静まり返る。皆の動きが、まるで術にでもかけられたようにぴたりと止まった。
その、愛らしくも威厳のある声音は、何度も聞いたことがあった。優しく、そして時には厳しく教え諭す、その声の主に、誰もがあっと驚いたことだろう。
数秒ののち、人は潮が引くように左右に分かれた。その中央を臆せず、ゆっくりと左右を見つめながら歩み寄ってくる。それは、大海を割って進んだ伝承の英雄のそれであった。
「……シエラ様、一体どうなさったのですか?」
「その手を放しなさい、アルベルト。その子を解放なさい、ダニエラ。皆は武器は床に置いて」
「ですが、シエラ様……」
「わかった?」
ローガンを掴んだままのアルベルトに、テオを背後に隠したダニエラに、鍬や松明を持った人々に、シエラは命じる。不服があったように思われる民を彼女がぎろりと睨むと、ひとり、また一人と動き始めた。その瞳は温厚な彼女の姿だけを見てきた民にとって珍しくも、また恐ろしくもあったのだろう。逆らい難い雰囲気に、皆が従っていく。
アルベルトに投げ捨てるようにして解かれ、ローガンは倒れこんだ。
「ローガン!」
自由になった四肢で、俺はローガンの下へ駆け寄った。赤く腫れていた頬は青くなり始めている。乾いた鼻血の跡に、俺は顔を顰めた。早く、治療しないといけない。肩を貸そうと回した腕は、他でもない彼によって振り払われてしまった。
「……ローガン?」
「……お前の助けなんて、借りたかないよ」
顔を背け、彼は絞り出すような声で言った。
――今まで蔑んできた者に救いを求めるなど、ローガンさんのプライドが赦さんだろう。
ローガンがなぜ俺に加勢してくれたのかは、よくわからない。仮にも助けてやった恩返しなのかもしれないし、単に人々にムカついたからかもしれない。ローラさんをバカにされたことへの対抗なのかもしれないし、温情がはたらいたのかもしれない。
だけど、ひとつ言えることがあった。
そう簡単に溝は埋まらない。助けを借りないのは彼のプライドかもしれないし、それ以上の重たいなにかがあったのかもしれない。俺が気にしていなくても、彼はそんなしょうもないことを大事にしているのだろう。
それには、あまり追求しないのが筋というものだろう。
俺は立ち上がり、立ちすくんでいるテオの頭を撫でた。
「……ありがとうなんていらないよ」
「だから撫でてやってんだろうが」
テオの顔はひきつっていた。気が抜けて泣きそうで、でも泣くのはカッコ悪いから必死に我慢して……彼は泣きそうな顔で胸を張っていた。俺はそんな彼の顔をほぐしてやって、もう一回撫でてやった。小生意気なガキの男気は、俺には十分カッコよく見えたから。
洟をすする音に、俺は視線を逸らした。
「……なぜなの?」
絞り出すような声は、シエラのものだった。理解できないと、バカげていると、どうしてと、顔が言っている。あまりの悲愴さに怒りすら吹き飛んでしまったように、呆然と辺りを見ていた。
「……ねぇ、どうして? なぜ共に歩めないの?
詩篇第50番。英雄たちは天井からの使者を受け入れ、共に戦ったでしょう? なのに、なんで私たちは髪の色や瞳の色だけで迫害するの? おかしいじゃない……!」
そう言った彼女の顔は、見るに堪えないほど悲愴で、腹を突かれたように痛々しげだった。そこで、思う。本当に神を仰ぐ者は、この世界の穢れというものを知らないのだ。共に同じ神を信仰する者に、やましい心はないと信じ切っている。だからこそ、こんなにも苦しげにしている。
ダニエラやアルベルトたちは、信者と呼ぶにはおこがましすぎたのだ。狂信者とも呼べない。神話や宗教を盾に、権力を振るうだけの悪徳者だ。規模こそ違えど、ギルドラートたちとなにが違うのか。
だが、シエラも民もそのことには気づかない。
民の間では、うんざりするような空気が流れていた。シエラに対する呆れと悲しみが込められているようだった。
初めに動いたのはダニエラだった。大股でシエラに近づく。
「……いい加減、目をお覚ましになってください! この髪の色、目の色。一人だけ痩せこけてはいない。これが悪魔以外の何者だというのですか!? リュークがここにいるということは、またこの街に――シエラ様に災厄が降りかかることになるのですよっ!?」
「だけど、昔の英雄たちは受け入れたって言うじゃない! なぜ彼らができで、私たちにできないなんてことがあるの!?」
「神話なんてないんですよ!! 神話なんて、もう過去のお話なんですよ!!」
ダニエラと、彼女に同意する民の必死さに、俺はあぁ、と声を出して頷いてしまった。
なぜ、彼らがこれほどまでにシエラに必死なのか。答えは明確だ。
シエラは愛されていた。だが、俺は愛されてはいなかった。
ただ、それだけのことである。
俺は目を閉じ、胸に手を当てた。そして、その鼓動を確かに感じる。
「……よし」
覚悟なら、とうにできている。
俺は拾い上げた小石を、二人の間に放り投げた。二人の、いや、全員の眉根が寄せられる。邪魔をしないでと、シエラの顔は言っていた。
もういいのだ。そうまでして、シエラまで悪役になる必要はないから。
俺は肩を竦め、大仰なため息をついて見せた。
「あーぁ、はいはい、わかったよ。お前らが俺のことを死ぬほど嫌ってんのはわかる。死んでほしいってのも、重々承知だよ。
けどさ、お前らの街だろ? 俺なんかは、正直元通りふらふら生きてけるわけよ。まぁ、正攻法じゃあねぇけどさ。でも、お前らは違う。ならさ、もっと躍起になってもいいんじゃねえの?」
なにを言ってるんだと、人々は顔を顰めた。シエラさえいなければ、つまらないことを言う口は閉じろと、きっと言っていたことだろう。
「分かってるよ、あれだろ? お前なんかの指図は受けたくない。協力したくねぇ、みたいな感じだろ?」
わかりやすく、頷いて反応を示した。正直な奴だ。遠慮なんて微塵もねぇ。
だからこそ、俺は頭を下げた。
「だったら……お願いだ。俺じゃなくていい。頼むから、お嬢様にだけは協力してやってくれないか……?」
「……え?」
いきなり話に出され、シエラは戸惑っているようだった。なにが「え?」なんだ。本来、革命とはお前の下にあるもんだろうが。そう軽口を叩けるほどほのぼのとした世界だったらどれほどいいだろうか。
なんて考えを起こしてしまうほど、その言葉に険悪な雰囲気が流れた。顔を上げなくても、民の顔が自然と浮かんでくる。どうせ、シエラを引き合いにするとは、なんて意地汚いんだとでも思われているのだろう。
「……なんなの、シエラ様を利用して仲を取り持とうとでも思ってるの? 赦してもらおうって?」
ふざけるなの大合唱。全く俺の予想通りだ。あまりにも的確過ぎて笑えてくる。そして、次に用意した札に、彼らがどんな反応を示すのかが楽しみになった。
俺の予想は、驚愕だ。
じゃあ! と、俺は怒号を裂く大声で叫んだ。
「お前らがそこまで言うならさ、俺、革命が終わったら、お前らに殺されてやるよ」
「リューク! なんてこと言うの!」
「黙っていてください、お嬢様。
……あぁ、なんでも受けてやるよ。拷問されたってかまわねぇ。打ち首でもいいし、流刑でもいいし……そうだ、一昔前の悪魔子狩りみたいに、火炙りにされたってかまわねぇよ。なんだって受けてやるさ」
「……はぁ?」
「お前らがさ、言ったじゃん? お前が死ねば助かるんだって。だから死んでやる。別に負け惜しみとか、強がってるわけじゃないんだぜ? お前らなら分かるだろ? 俺は何回も、誰かさんのおかげで死のうとしたんだからさ!」
皆が互いに視線を交わし合った。その顔は驚愕というより、戸惑いに近い。ざわついた空気を鎮めるように、俺は声を張り上げる。
「逃げも、隠れもしない。革命が成功したら、無抵抗に殺されてやる。神に誓うぜ、お前らの大好きな神さんにな!」
何度も死のうとしたのだ。だけど、なんらかの力が作用したのか、恐怖が勝ったのか、どれも最後まで叶わなかった。それも今日までだ。他殺に俺の感情は左右されない。確実に、死ぬことができる。
どこへ行ってもいい顔はされないのだ。悪魔の子、そう称されてきた人生で、俺の居場所は表世界ではなかった。盗賊として歩んでいくほかなかった。なら、いっそ殺してほしい。どうせこの世界には希望なんてないのだ。死んで、また別の世界で、別の人生を歩んでいけたら……。
これは、絶好の機会なんだ。
「……わかったわ。おもしろいじゃありませんの!」
まず認めたのは、ダニエラだった。負けん気が強い挑戦的な笑みを湛えて吠える。彼女さえ認めさせることができれば、もうこっちのもんだ。だって、この街はダニエラが仕切っているようなものだから。
「だけど、あなたの通りには動かない。私たちが従うのは、シエラ様よ」
「構わねぇよ。俺にホイホイついていくなんて、お前らのプライドが赦さねぇもんな」
次々に、異議なしの声が上がった。ヤケクソになって、とりあえず賛同しているのだろう。そりゃそうだ。今まで何度も俺を殺そうと、死ねと言ってきた手前、今更後戻りはできない。この条件は、皆が呑むほかないのだ。
自殺は罪である。だが、神のための殺人は、罪ではない。
いよいよホントに狂ってやがるな。俺は毒を吐いて笑った。
「じゃあ、問題ねぇってことなんだな。よし、なら、解散――おっと、お嬢様、頼みますよ」
「え、ちょっとリューク!」
俺は大手を振って立ち去る。後ろには、混乱するテオとローガン、血気盛んな民と、それをいなそうと奮闘しているシエラがいるのだろう。
まぁ、これで革命に移れるのなら、万々歳だろう。ある意味、民とコンタクトは取れたし。目的は少し違ったものになるだろうが、そのための障害は同じ。一時の和解はできたなら、革命は行えるはずだ。
今日でヒュウガが来てから六日が経つ。
なんとか、明日中に終わらしてやりたいのだ。
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