六日目4

 はたと目を覚ますと、目に移ったのは枝葉の隙間から見える曇り空だった。曇り空からわずかに覗かせる太陽は、うっそうとした森に陰鬱な光を落としている。

 なぜ俺は森の中で倒れている? そうだ、ヒュウガはどこに――。

 状態を起こし、辺りを見回す。だが、ヒュウガはそこにはいない。

 たらりと鼻から、口から生温かいものが垂れてきた。嫌な臭いだ。手で触れると、手は一気に真っ赤になった。こぽこぽと音を立て、垂れ流れてくる。それが血だと認識した時だった。


「ぐ、がぁっ……!」


 俺は肩から地面についた。頭でぐわんぐわんと重低音が響いている。腹の中で何かが暴れているような激痛と吐き気が襲っている。喉が焼けるように痛い。口から流れているのは血だけではなく、胃液も混ざっているようだった。

 そこで思い出す。そうだ、ヒュウガはオルガンにさらわれたのだ。そして、俺はオルガンになにか刺されたんだ。おそらくは毒針のようなもので。

 皆に報告しないといけない。オルガンは危険だと、伝えなければ。

 手で状態を起こし、膝を立てる。全身が痛い。節々にひびが入ったような感覚だ。謎の倦怠感が邪魔をするが、口元を手で押さえながら、俺は気合いで森の出口へ急ぐ。まだ真新しい血の後だけが、俺を追っていた。

 まだ広場にはレティーシアとディエさん、そして民がいるはずだ。早くオルガンが危険だと告げないと。また犠牲者が出てしまうかもしれない。

 森を出ると、まだ空の様子は倒れる依然とさほど変化はなかった。どうやらそこまでの時間は経っていないようだ。辺りに嫌な臭いが立ちこめている。それは果たして俺のものなのだろうか。農道を渡り、広場をゆっくりとした足取りで向かう。ふと足元を見ると、ピッチフォークが刺さった炭が転がっていた。その炭から広がるまだ乾いていない血は、時告げの花を半分赤黒く染めていた。五つの花びらを広げる血濡れの花は、たしかにケルズにそっくりだった。

 様々な死体が転がる街の入り口には、流石に小さな声が零れてしまった。オルガンが消えた今、狂った人々は治療されることなく放置されていたのだろう。この街の者のことであるから、近づけることなく「悪魔の使途め」とかなんとか言って隔離した可能性もある。全く酷い光景だ。こみあげてくる吐き気を堪え、俺は入口をくぐる。

 その時、拳が突然目の前に現れた。とっさにかわそうとしたが、痛みと吐き気が邪魔をする。肩を打ち抜かれた俺は、情けなく倒れこんだ。

 いったいなんなんだよ……?

 顔を上げると、そこにはアルベルトが立っていた。その背後にはダニエラ含め数人が立っている。皆、俺を非難するように、恐れるようにこちらを睨みつけていた。


「消えろ、悪魔め」


 低く呟いたのは、アルベルトだった。眉間に深くしわを寄せ、火傷だらけの手で俺の背後を指差している。


「違う……悪魔……オルガンだ……っ!」


 掠れた息が混じった声が紡いだとぎれとぎれの声に、人々は眉を顰めた。


「なにを言っている。これほどの民を傷つけておいて……!」


 アルベルトの震える声に、賛同の声が上がる。その声は、耳の奥で響いてろくに聞こえない。――殺せと、すぐ耳元で誰かが囁いていた。

 なにか、硬いものが肩に当たった。それは煉瓦の欠片だった。背後の奴らが投げているのだ。まるで教祖に続く熱狂的な教徒のように。


「――悪魔を殺せば、救われるんじゃないの?」


 怒号に紛れて、誰かが言った。妙に高い気持ちの悪い声。炎に揺らめき、ぎらつく目。松明を持ったダニエラは、皆にそう訴えかけた。


「……そうさ、殺せばいい」


 また誰かが言った。誰だかわからない。その声に同調するかのように、声は大きくなっていく。


「そうだ、殺せ!」

「悪魔だ、悪魔は火炙りだ!」

「炎は不浄を清めるのよ!」


 殺せ、殺せと民が言う。耳元で誰かが囁く。――殺せ、と。かつてのように、ボロボロの俺に誰かが囁くのだ。――殺せ。奴らが生きていてなんになるというのだ。変わらない、お前は生きたいだろう? 不浄は刈り取れ、清めよ、さぁ、殺せ――。


「……殺せ」


 呟いた刹那、どっと悲鳴が湧いた。そこでふと、意識が戻る。

 ――そこには、咳き込むアルベルトの姿があった。

 彼の首に残る赤い指の痕。力んで白んだ俺の手。腰を折るアルベルト。逃げ惑う人々の中、あぁ、俺の口元は――。


「また、繰り返すというのね……っ!」


 アルベルトの背を撫でるダニエラが、俺をきっと睨んだ。俺に近づいてくる、その手に握られた松明に、人々の顔がゆらゆらと歪む。その目は、完全に悪魔を忌み屠らんとしていた。

 ダメだ。ここにいたら、殺される。

 俺は皆に背を向け、駆け出した。悪魔悪魔悪魔悪魔……。民の声はどこまでも耳について離れない。――殺せ。誰かが耳元で囁く。この声は一体誰のものなのだろうか。右目が疼く。アルベルトを消そうとした手が痛む。死ねと呪った自分が恐ろしい。本当に奴らを殺そうとした自分が恐ろしい。だが、なぜ俺は笑っているのだ――。

 俺は、悪魔なのかもしれないな。

 よぎった考えに、俺は頷いた。――そうだ、俺は悪魔なのかもしれない。あの時だってそうだった。悪魔だと虐げられ、傷ついた俺の前に現れた悪魔の声。唆されるがままに、俺は街に火を放った。その時のことは鮮明に覚えている。燃え盛る炎に炙られる人々を眺め、俺はこう思ったのだ。綺麗だ、と。

 その時点で、俺は本物の悪魔となったのだ。今ここにいる俺は人間などではなく、悪魔なのだ。だから、また殺そうとした。笑みを浮かべた。声に、悪魔としてのリュークに唆されるがままに。

 俺は自らを嗤った。

 もう、どうにでもなればいい。

 家は薄暗く、ずいぶん汚かった。それに、聖剣も姿を消していた。盗みに入られたか、アイツらの嫌がらせだろう。それももう、どうだって良かった。


 ――我々は君を軽蔑したりはしない。嘲ったり、罵ったりもしない。いつでも、待っていますよ。


 自棄になって寝転がって、ふと頭をよぎったのは、いつも俺を誘惑してきた言葉だった。燃え盛る炎の中、目を抉られた俺の前に立った悪魔、ギルドラートの甘い囁き。

 ヴェルジュリア。そこでは軽蔑されることもないし、ひどいまなざしを向けられることもない。なんと魅力的な誘いだろう。

 ヴェルジュリアなら、幸せに暮らせるのだろうか。それならば、と思う。

 神さんは消えた。ヒュウガも、頼みの聖剣も消えた。民は俺に不満をぶつけるばかりで、自分から決してなにかをすることはない。

 もう、俺にできることは、きっとないのだから。


「いっそ、このまま死ねたら……」


 吐き気と筋肉が断ち切られるような激痛。あのオルガンが打った変な薬でも打ち続けたら、俺はきっと楽に――。


「ん……薬?」


 そういえば、薬を打たれたときに思ったのだ。嗅いだことがある匂いだと。あの時にも嗅いだ……。


「……テオだ」


 そうだ。テオ少年に初めて出会った時。仄かな甘い、不思議な香りを漂わせていた。たしか俺の記憶が正しければ、彼は「神の言うとおりにしたのが間違いだった」と言っていた。それはヒュウガに聖剣を持ち出すよう誘惑したものと同じではないだろうか。それを裏付けるように、テオ少年からもヒュウガと同じ匂いがしていた。それに、テオ少年は依存するに十分なほどのパンは食べてきているし。

 神と名乗る誰かが――おそらくはオルガンがテオに囁いたとしたら……いったいなんのために?

 そうだ、テオ少年で思い出した。彼は炎を見て怯えていたという。では、その炎はどこから来たのだろう。やはり、俺を襲った奴らを襲ったのと同様、火炎瓶からか? では、その火炎瓶を投げてきたのは誰なのか。オルガンでは時系列が合わないため、彼の仕業ではないはずだ。そして、それはなんのために?

 やはり民を狂わせ、混乱を起こし、革命を妨害するためか。いや、それならテオを誘惑する意味はないはずだ。だって民を混乱させたいのなら、普通は中心街を狙うだろう。なぜこんな町の外れを選んだのかという疑問が残る。それに、わざわざテオのような子どもを選ぶのもおかしい。なぜ証拠隠滅にまで手が回らないような子どもを選んだのか。


「……そうか、盗みか」


 もしかして、目立たせたかったんじゃないのだろうか。

 なんだか変に頭が冴えわたっていた。痛みも引いてきたからかもしれない。

 盗みといえばリュークという考えを、この街の奴らであれば誰しもが持っているはずだ。だからあえて目立たせた。俺にヘイトを集めるために。

 火炎瓶だってそうだ。薬物によって視覚過敏になり、炎を悪魔と見間違う。悪魔といえばの俺だ。昔から悪魔だと言われてきた。だから、人々のヘイトはさらに俺に集まる。

 そのおかげで俺になにが起こった?

 そう、孤立したのだ。

 その果てになにを考えた?

 そう、ヴェルジュリアへの入団を――。


「危ねぇ……そういうことだったのか……!」


 すべて、ヴェルジュリアの筋書き通りだったということだ。俺を、ヴェルジュリアに入れるための。

 なぜ、これほどまでに俺に固執するのか。

 俺が悪魔だから、か?

 真実はまだわからない。が、ひとつだけわかったことがある。

 俺は、まだ革命を起こさなければならないということだ。

 だから、まずは味方をつけなければならない。

 立ち上がって井戸へ向かい、冷たい水で顔を洗って口を漱ぐ。俺を鼓舞するように、雲の隙間から夕暮の真っ赤な太陽が光を差していた。遠くでは、乾いた空気が弾けるような音が鳴り響いていた。それに紛れて、悲鳴も聞こえてくる。俺の言うことを信じてくれる奴はもうそんなに残ってはいないということは、安易に知ることができた。


「……よし」


 頬を叩いて鼓舞する。体の痛みや吐き気は、もうずいぶん治まっていた。

 俺は、森へ駆けた。

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