二日目8
神殿から望む果ての空は、茜色に燃えていた。神殿に活けられた時告げの花の花弁が二枚枯れてしまっている。夜は、すぐそこのようだ。
シエラに別れを告げ、足早に家へと向かう。人々もまた、姿を隠し始めていた。
少し、家を空けすぎただろうか。砥石を貰うだけのつもりが、シエラに会いに行ってしまったのが誤算だった。ちゃんとおとなしくヒュウガが待っているといいのだが。
ひゅうと、首を撫でるように、急に冷たい風が吹いてきた。緑の木々が震えるように揺れている。宵闇に追い立てられているようで、足が急ぐ。
なんだか、不安だ。
その不安は、的中してしまった。
「ヒュウガ……?」
辿り着いた我が家。いやに静かで暗い室内に目を光らせる。そこは元の通りであった。……ヒュウガが来る前と。
いないのはヒュウガの姿だけではなかった。
「嘘だろ……!」
いつも聖剣を立てかけていた場所。そこにはなにもなかった。
そんなわけない。あるはずだ。一縷の希望に家中を探し回るが、ない。
どこにも、聖剣がない。
ぞわっと、首筋に切っ先を押し当てられたような寒気がした。心臓の鼓動が耳元に感じる。真っ黒い霧が目の前に広がったようで――咳が止まらない。呼吸さえ難しい。俺は家を飛び出し、水をあおった。そこで、やっと落ち着いてくる。
聖剣がない。
盗まれたのか。いや、室内に荒らされた形跡はなかった。となると、聖剣ともどもヒュウガも盗まれたという線は弱いだろう。ならば、だ。
「ヒュウガ……」
アイツが、聖剣を持ち去った?
俺は駆けだした。もうすぐ夜が訪れることも忘れて、人の目を気にすることなく、ヒュウガの名を叫ぶ。だが、声は聞こえない。広場にも店にも、アイツの姿はない。
「一体どこに……」
ヒュウガが知っているところで、アイツが行きそうなところ。
それはもう、あそこしかない。
時告げの花の五枚の花弁のうち、三枚目が枯れようとしていた。それを一瞥し、俺は地平線に広がる闇に背を向ける。
どうでもいい、飾りのような剣だった。
手にするのも嫌になる、そんな剣だった。
――だがそれを失うと、なぜかひどく不安になるのだ。
シエラの家を通り過ぎ、森に飛び込む。ツタや木々が生い茂り、根の飛び出した道はとても歩けるような道ではない。さっきまで存在していた道は、すっかり枝葉に消えていた。
あのもやしは、なぜ剣とともに消えたのだろうか。
大の大人でも鍛えていないと持てないほどのものだ。血を見ただけで弱ってしまうような奴なのだから、あちらの世界では剣を持って戦うようなこともないのだろう。なら、ヒュウガが剣を持ち去るには困難に等しい。
いや、そうか。
「あちらの世界だから……」
茂みを飛び出すと、いきなり眼前に現れたのは靄だった。その先に目を凝らせば、荘厳な建物が見える。夕日が後光のように射し込んだ神殿は眩く、霧に包まれたその姿は、まるで天空に浮かび上がっているようにも見えた。
耳をすませば聞こえてくるのは、風の音と、くしゃみにも似た雑音。
神殿へ続く階段の一番上、霧に紛れて、黒い塊があった。
「……やっぱり、ここにいたのか」
階段に近づき、下からヒュウガに問う。彼は反応もせず、顔をうずめてこちらを向かない。
――泣いている。
耳に届く雑音は、森の音にしては異質すぎていた。
「なんで、こんなところに来たんだ。ソイツ持ってよ」
何度も転んだのか、ボロボロの膝を抱えて顔を隠す、その近くに転がる聖剣。
ヒュウガは緩慢な反応で目元を上げ、涙声を隠すように、息を堪えて小さく答えた。
「……神なら、穢れを祓えると思った」
心臓を貫かれたような衝撃が走った。
……お前も神か。
しかし、湧き上がってくるのは、呆れや怒り、苛立ちばかりではなかった。
「……そうか」
いきなりよくわからない世界に飛ばされ、この世界を救う手伝いを強要される。知ってる人などいない。刻々と過ぎる向こうでの時間に、両親への心配が募る。そして追い打ちをかけるような、凄惨な景。あちらの世界は血など流れない、暑さも寒さも大した問題じゃない。食糧問題もなく、家だって快適なのだろう。平和な世界からゴミみたいな世界へ。その世界には多くの複雑な問題がある。
その問題を背負うために選ばれたのが、ヒュウガ。確かに純粋で、穢れになんて触れていない、17くらいの子どもだ。
神もなんと酷なのだろう。そんな子どもに、自ら穢れに触れさせるような真似をさせるのだから。
どうして俺はかくも無力なのだろう。その霊力ゆえに、ヒュウガを呼んでしまったのだから。
階段を上りながら、咲き乱れるシアンの光を見つめる。不思議と虚しくなってくるようだった。胸が締め付けられるような、そんな心苦しさがあった。
だから、早く帰ろうと思った。
聖剣を手に、ヒュウガを一瞥もせず階段を下りる。
その間際、俺は立ち止まった。
「……すぐ、帰って来いよ」
荒い呼吸音は、耳に障って仕方ない。
それを聞いているのは、それを見ているのは、無粋な気がしたのだ。
腰に納まった聖剣は、なぜか氷のように冷たく感じた。
そのくすんでいだ刀身は、曇りひとつなく、柔らかな白の光に輝いていた。
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