二日目6

 背後がざわつき始めたのは、俺が路地に入ってすぐのことだった。やがて鎮まると、歌が聞こえてきた。


 Sar weast destire chis D.


 主よ、天と地の区別を取り払いし主の使途たちよ

 いったいどれほどの試練が私を苦しめるのでしょうか

 天井からの、襲い掛かる試練の使者は言います

 「己らが神は悪魔である。救いなどない。待つのは絶望と死である」と

 しかし主よ

 あなたは私に翼を与えてくださり、私の剣となられました

 今その翼で空へはばたき、その剣で天井を貫きましょう

 そして神を語る悪魔を討つのです

 醜悪な天井人は私を嗤います

 「悪魔に欺かれし哀れな穢人」と

 どれほどの悪が私を囲もうと、どれほどの悪が私に囁こうと

 私は決して恐れません

 救いはあなたのもとに、希望は巨塔の中にあります

 翼と剣を持つ私に

 あなたの導きがありますように


 Sar weast destire chis D――


 心の拠り所のない人は、辛い世界に生きる自分を慰めるため、祭壇を礼拝堂として使う。少しでも神の威光にあやかるためだろう。そんな彼らは、祭壇がギルドだとは知らない。

 気分が悪くなる。それは、ギルドで一服するレティーシアもだろう。

 彼らに見つかって嫌な顔をされる前に足早に路地を抜け、大通りに出る。人通りはさっきよりは増えたが、昔よりは確実に減っていた。昔は少し足を止めただけで邪魔だと怒られたというのに。

 傍らで時告げの花は大きく咲いている。まだ夜の影すら見えない。。

 まったく、暇だ。

 俺は人目を気にすることなく大口を開いて欠伸をした。不快に思われたって知ったこっちゃない。こっちからすれば不快なのは俺を見る目だ。

 そうやってぼんやり歩いていると、いつの間にかボロ屋の前に立っていた。


「また……」


 ぼうっとしていると、いつの間にかここに来てしまう。もう何度目だろうか。理由だけが明確だった。

 ここくらいしか、俺が来ても嫌な顔をしない人はいないから。

 シエラの家は森の入り口にある、平屋建ての小さな石の家だ。森の緑に半分占領されたような、人が住んでいるのかすら怪しい家だ。蔦や苔にむしたお化け屋敷のような家は、彼女のために作られたようなものである。その家を、彼女は愛していた。

 横に伸びた木が邪魔をする細い通路を渡り、腐ったような木の扉を叩く。シエラと呼ぶと、ぎいと軋んだ音を立てながら扉が開いた。


「はい、どちら様で――おぉ」


 出てくるなり少し驚いたような顔をしたのは、シエラの執事であるディエさんだ。眼鏡をかけた、細い体の初老の男性。髪は穏やかな深い緑の短髪で、ところどころに白が混じっている。ひょろっとしていて一見頼りなさそうに見えるが、燃え上がるような炎を宿すその悟ったような目は、彼の意志の強さと厳格さを示している。

 眼鏡をかけ直し、ディエさんは骨ばった手を差し出す。一体その手に何度叩かれたことだろう。それもいい思い出だったと、俺は口元を緩めた。


「リューク君でしたか。どうぞ、お入りになってください」

「ありがとうございます、ディエさん」


 リビングに案内され席に着くなり、紅茶が差し出された。鮮やかで透明な赤茶色の、心地よい香りだ。使用人時代のことを思い出す。いくら教わっても、その味は俺には再現できなかった。

 シエラの分だろうか。ディエさんはミルクと白っぽい茶の粉を、大量に紅茶に混ぜている。濃い赤の殻をもつゼクスの実の引き粉だ。高価で希少な砂糖の代わりである。相変わらずアイツは甘党だ。紅茶を味わいながら彼の貫禄ある後ろ姿を見つめる。


「最近、食糧の備蓄が底を尽きかけているそうですね。シエラ様も案じておられます」

「え? もう、噂になってるんですか?」


 備蓄された小麦が尽きかけているのは、レティーシアとも話した内容だ。こんなにも噂になっているとは、もしかすれば、民にも知れ渡っているのかもしれない。暴動が起こらなければいいのだが。


「噂になっているのかは知りませんが……一応、革命軍のリーダーですからね。今も勉強しておられるようですよ」


 そう言って、ディエさんは懐中時計を開いた。

 ……そうか。シエラは今、勉強しているのか。

 どんな者であろうと、救うために全力を尽くす。少しの妥協も赦さない。神の教えに従ってきた彼女だから、俺なんかに優しくしてくれたのだろうか。……そう考えると、少しだけ胸が痛くなった。それを紛らわせるように、冷めた紅茶を含む。

 神の下、生まれた人間は、神によって等しく贖罪の機会を与えられる。それがどんな人間であれ、だ。


「本来ならば、きっとよい領主になられたことでしょう」

「……そうですね」


 本来はここにいるべき人ではないのだ。シエラ・リードラットは、本来ならあの屋敷に住み、この地を治めるはずの人だから。


「そろそろ、冷めた頃でしょうか」


 懐中時計を閉じ、ディエさんはシエラのティーカップを軽く回した。立ち上っていた湯気もすっかり引いている。ぬるくてとても飲めたもんじゃないが、シエラはこのくらいが好きなのだ。冷たくて飲みやすいし、甘みも増しておいしいらしい。

 ティーカップを片手に立ち上がろうとするディエさんを制止し、俺が代わりに立ち上がる。


「紅茶、俺が持っていきますよ。ディエさんは、ゆっくりしていてください」


 どうせついでだ。俺が来れる日ぐらい、ディエさんにはゆっくりしていてもらいたい。

 そう告げると、彼は申し訳なさそうに頭を下げた。


「では、お言葉に甘えて」

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