シアノ

 よくぞ此処まで辿り着いた、勇者よ。だが少し遅かったようだ。我が身体は既に繭の中で生成を開始した。この世に生まれ落ちるまでは最早手を出すことも叶わぬ。


 それでもまだ諦めぬと申すか。そうまでして人類を救いたいか。それともあの娘の仇を取りたいだけか。あの娘をその手にかけたのは我ではなくそなただったはずだがな。


 ……良かろう。現身を持ってこの世に生まれ落ちた暁には、全力でそなたの相手をしてやろう。確かにあの娘の記憶と理性を奪ったのは我なのだから。


 だが、我が身の生成が終わるまでこうしてただ向かい合っているというのも間の抜けた話だ。そうだな……せっかくの機会だ。そなたが我に抱いている誤解を解いておこうではないか。


 異界から現れた魔王、そなたは我のことをそう思っているだろう。だが、それは間違いだ。我はこの世で他の生物たちと同じように生を受けた。そなたがこの世界に生まれ落ちたと同様に、我もまたこの荒廃した世界に生まれ落ちたのだ。


 何の為に? さて、何の為だろうな? そなたはそなた自身が何の為にこの世に生を受けたかを知っているのか?


 我を倒す為、か。では、我を倒すことが叶わねば、そなたの生に意味は無いのだな?


 ふふ、そうか。まあ良いだろう。……我が生まれた理由か。生に理由を求める趣味は無いが、敢えて探せばこの世界の再生だ。


 納得が行かぬか。何故だ? 荒廃したこの世に再び生命が溢れたのは、我が種を蒔いたからではないか。例えそれがそなたやそなたの愛する者達を喰らい、その命を蝕む毒を吐き出す存在であったとしても、生命であることに変わりは無い。違うか?


 そうだ、勇者よ。滅びるのはそなたらであってこの世界そのものでは無い。そなたらの滅亡によってこの世界は再び生を取り戻すのだ。


 ……哀れな人の子よ。お前達はかつて自分自身が滅ぼした世界の片隅で、孤独に打ち震えながら大地にしがみついて生きている。だがやがてそれにも終わりの日が訪れる。ただそれだけの話ではないか。そなたは知らぬだろうが、そなたの愛する木々もかつては毒を吐き出す新種の生命体としてこの世に生を受けたものの末裔なのだ。


 生命は植物が吐き出す毒の中で死滅しないための機構を獲得し、やがてはその毒すらも利用する機能を手に入れた。そうやって木々や草花はそなた達にとって無くてはならぬ存在となった。だが恐らくはその過程で適応できなかった多くの生物が死の淵へと追いやられ、数多の種族がこの世から姿を消したことだろう。そのような恐るべき存在である植物を愛していると言いながら、我の蒔いた種を、新たなる生命を憎むのは何故だ? そなたらは既に滅びに瀕していた。そなたらを滅ぼしたのは我らではなく、そなた達自身ではないか。それでも新たにこの世に生まれ出た生命は否定すると申すか。そなた達にとって毒となるという、ただそれだけの理由で。


 ……良かろう。そなた達にも生を、未来を求める権利はある。生存競争に勝ち抜かんと選ばれたのがそなたと言う訳だ。だが勇者よ。そなたの身体は既に滅び行く人間達と同様のものではない。気付いているだろう? 毒に満ちた村の外へ足を踏み出したとき、そなたの村の長老はそなたに何を与えた? 薬の効果が出るまでに一週間はかかる、と彼は言ったはずだ。そう、確かにその通りだ。そなたの身体が作り替えられ、肺が新たな空気に適応するまでに最低でも一週間はかかる。だが、その後も変化は続く。いずれ後戻りは出来なくなる。かつてそなたが新たな空気の中で長くは生きられなかったように、今故郷の村に戻ってもそなたが生き延びることは叶わぬ。


 不要な変化だった、と申すか。我を倒し、故郷へ戻ることがそなたの願いであったな。だが、肺だけが適応しても生き延びるには足りぬのだ。新たなる空気が毒であるならば、やはりその中に居る限り毒はそなたを蝕むのだから。生き延びたくば己の身体全てを作り替え、新たな環境に適応させねばならぬ。最初の遺伝子の書き換えから全身の遺伝子があまねく書き換えられ、細胞が入れ替わり、適応が完了するまでにはせいぜい六、七年の時が必要とされる程度だ。数年後にはそなたの身体ももはや古き遺伝子を残してはおらぬだろう。あの娘もそうやって生まれ変わった。


 震えているのか? 怖い、と申すか。何を恐れることがある? 新たなる環境の下、新たなる生命を得て生きていくことが怖いか。恐れることは無い。その時が来れば、そなたも全て忘れられるだろう。あの娘と同じように。拒絶しようとも最早手遅れだ。そなたは既に選んでしまった。新たな生命体となり、故郷の村を出るという道を。我があの娘に与えた変化も、あの薬によってそなたに与えられた変化も同じものだ。あの娘の辿った道をそなたもまた辿るというだけのこと。恐れることなど何も無い。


 ……理性。理性を失うことが拒絶の理由か。……下らぬ。その大切な理性とやらを使って、そなた達はこの世界に何をした?


 否、あの娘を引き合いに出しても無駄だ。記憶という過去を求めていたのはそなただけだったではないか。あの娘はただ生を、この世界に生き延びることだけを欲していた。その意志を否定したのは誰だ? 生を求める彼女の体に刃を突き立てたのは一体誰だったのか? 忘れたとは言わせぬ。


 我があの娘の身体を乗っ取ったのでは無い。あの娘は、自分自身の意志で、生き延びる為に我を受け入れたのだ。利用したと言い換えても良い。あの時そなたが現れさえしなければ、あの娘は新たな生命の一つとして生まれ変わり、この広い世界の何処かで生を謳歌していたことだろう。過去を捨て去ってしまえば最早恐れるものなど何も無い。遠く離れたそなたを喰らってしまうやも知れぬという恐怖を感じることも無い。獣のようにとそなたは言う。そう、その通りだ。過去も未来も省みることなく常に今を生き、生きる為に喰らい、眠る。それが不幸だとそなたは言うのか? 死への恐怖に、愛する者に襲いかかる恐怖に、そして命を奪われる恐怖に怯えながら、人として死んでいくことよりも?


 ……お互い少し感情的になり過ぎたようだ。話を元に戻そうではないか。そう、我の生まれた理由だ。我自身には己の生に理由を求める趣味は無い。だが、我を生み出した人間にとっては話が別だ。


 ふふ、何を驚いている? 我が自然発生的に生まれたとでも思っていたのか? 否。我は人工的に作り出された生命体。人類を救うという目的の為に作り出された存在だ。我が生にも与えられた意味はある。我にそれを受け入れるつもりは無くとも、そなたが始まりを知るためには必要な情報だろう。


 我を生み出した人間達は一人ではなかった。この荒廃した世界で再び人間が居場所を取り戻し繁栄するために、人間の身体を作り替えること。それが彼らの目的だった。沢山の実験体が作られては棄てられ、作られては壊された。だが研究は徐々に進み、彼らはようやく作り出したのだ。新たな大気を生成する植物と、その大気に適応した動物達。そして人類が新たな大気に適応した生物に生まれ変わるための手段。


 我に与えられた使命は、その新たな生物群をこの世界に送り出し、人間達を生まれ変わらせることだった。だが一人だけ、それを良しとしない者がいた。彼は我を使って全てを忘却の淵に沈めようと企図していた。多くの研究者は理性を保ったまま新たな生命体となることを考えていたが、彼は違った。彼は知っていたのだ。世界を滅ぼしたのが人間の理性であり、悟性であることを。故に彼は新たに生まれ来る生命体が、人間の理性を保つことがないよう腐心した。再び世界が滅びる時を、少しでも先に延ばせるように、と。


 あの娘がそなたを忘れ、理性を失った獣となったのはそのためだ。そなたとあの娘にとっては悲劇であったが、そもそもの始まりは善意だった。そなた達がかつて世界を滅ぼしたときと同様に、始まりは善意だったのだ。


 忘れてしまうことは怖いか。その記憶には価値があると申すか。愛しい者を追って故郷を離れ、信じていた者に裏切られ、ようやく再会した愛しい者をその手にかけ、友と仲間を犠牲にして辿り着いた、後戻り出来ぬ道の果てがここであったとしてもか。再生しようとあがいている世界を再び滅びの縁に引き戻すため、我と戦おうとしているその記憶に、それほどの価値があると申すのか。

 そなたを駆り立てるものがわからぬ。


 ……それでも、あの娘や仲間達と過ごした時が大切だったと申すか。二度と戻らぬ過去だとしても、それでもその記憶に留めておきたいと願うのか。


 否。我には理解できぬ。もはや後戻り出来ぬのならば、思い出しても苦しいだけ……否、否! これは我の記憶ではない。

 ……そう、あの娘は忘れたかった。そう我に願った。それ故に我は理解することが出来ない。忘れたくないというそなたの思いを。


 そうだ。私は忘れたい。この空は落ちて色すらも変えるだろう。大気も生命も生まれ変わり、世界は再生する。古き記憶など無用なのだ。生まれ変わった無垢な世界に、汚れきった理性を持つ我らなど必要ではない。私は忘れたい……忘れてしまわなければならない。そなたが再生を受け入れず、全てを忘れぬと言うのなら、我がその記憶ごと葬り去ってくれよう。私はお前を選ばない。


 ……時間が来たようだ、勇者よ。我が身の生成は終わり、時は満ちた。我もまた人として現身の生を受けよう。未来へと続く新たなる生命の一つとしてではなく、滅び行く運命の人の子として。そなたを愛するあの娘の心を引き継ぐ者として。我が生まれた意味などもはや無意味だ。


 課せられた役目を果たさず、この世界を再生させずとも、私は生きていくことが出来る。あの娘の意志に身をゆだね、お前を愛し、そのために生きていくことも私には出来る。だが私はそれを望まない。私はお前を選ばない。


 我が望みは生命の再生。それを妨げる者は排除しなければならない。私は望み、そして選んだ。そなたと戦い、そして人として滅ぼされる道を。


 そなたは何を望む? そなたらの滅びを少しでも遠ざけることか。それともあの娘と仲間達の復讐か。


 さあ勇者よ、剣を抜け。生まれてきた意味などではなく、そなた自身が生きてきた意味を示せ。己自身で見出したその意味を、その意志を以て示してみせよ!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る