テレビ放映戦国大名総選挙その56 織田信長

織田信長の朝廷に対する態度については、時代ごとに様々な見解がなされてきました。


例えば、尊王の志が熱く、皇室を中心に日本をまとめるため、自分は働いているという認識が主流の時代がありました。


これは、明治から昭和のある時期まで日本国民のコンセンサスであり、当たり前の常識みたいなものでした。


なので当然信長もそうである、という空気の元、疑われることなく語られてきました。


しかし、昭和も終わりのころバブルによる日本の国力の上昇とそれに伴う自信により信長像についても新たな見解が見られるようになりました。


それは自らを「神」という存在に高めたという説です。

この根拠となるのは宣教師ルイス・フロイスの記録を引用したものでした。


皇室に対する疑いのない姿勢から、自信に満ち溢れた信長像ということでこの見解は一定の支持を受けることになります。


この変化には2つポイントがあり、一つは日本の国民が海外に対してあるいは自分自身に対して自信を深め、以前の天皇を崇める姿勢から自由な考えに変わったこと。


そして、先ほど述べたルイス・フロイスの資料による推測があったことです。

そして、信長の能力が高く評価され革新的な人物としてもてはやされたのもこの時期でした。


以前話した、楽市楽座、兵農分離、鉄砲による新戦術についてあたかも信長が始めたかのような、あるいは超人的なアイデアを駆使したかのようにもてはやされたのもこの時期です。


話を朝廷に戻しますが、今の時点ではこのルイス・フロイスの資料は他に裏付けがないということで、信憑性に疑問が多くあるようです。


この場合の疑問は資料が偽物という意味ではなくルイス・フロイスが話を盛っているというニュアンスのようです。


今の時点では織田信長が朝廷をないがしろにしたという明確な証拠はないようです。


ただ、天皇の退位問題などでもめた可能性については指摘されていますが、これも学者さんや扱う資料によって結論が違っているので本人に聞かないと分からないかもしれません。


一つ確実なのは、織田信長は朝廷に弓を引いたことはないことと、朝廷をうまく利用して官位などで権威付けをおこなったり、自分が不利な戦争の時に停戦を斡旋してもらったりして友好的なままでいたということです。


織田信長が亡くなる前に朝廷から「征夷大将軍、太政大臣、関白大臣」のいずれかについての就任の打診があったとされていますが、彼がどのような対応をしたのか、それは永遠の謎です。


織田信長の朝廷に対する敬意や友好関係があったのかどうかの答えはこの永遠の謎の答えかもしれませんね。


次は室町幕府との関係についてお話したいと思います。




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