テレビ放映戦国大名総選挙その23 豊臣秀吉
もしも豊臣秀吉の野望が実現したらどうなっていたか?
まず、中国の首都に天皇が入りました。
そして、関白を置き、政治をつかさどるという取り決めでした。
そして、日本には親王を置き、その下で日本担当の関白を置き政治を任せる構想でした。
そして、中国の広大な土地を各大名に与え、ヨーロッパの列強と対峙しつつ、交易を行い経済を活性化させる、そんな夢を抱いていたようです。
アレクサンダー大王やジンギスカンとは違い、領土征服だけが目的ではなくあくまで豊かになることが主眼だったようです。
イメージとしてはモンゴル帝国前期ではなくフビライの後期元王朝が近い感じかと思います。
事実、秀吉は信長と違い敵を滅亡させるよりも降伏する相手を取りこむことが得意で好みでもあったようなので異国の地でもそのような外交方針でいく予定だったと想像できます。
さて、もしこれが成功して秀吉がかつての元のような巨大な大陸王朝を建国したらどうなったでしょうか。
参考となる点として、先ほど挙げた元の他に唐などの王朝についても紹介しておきます。
これは当時中国に住んでいた漢民族の王朝ではなく、彼らから見れば異民族の征服王朝でした。
つまり、中国の歴史の中で異民族の支配の歴史が一つ加わるだけのことだったのです。
こうして世界史レベルで考えると豊臣秀吉の野望自体は珍しいものでも日本的なものでもなかったのです。
良し悪しはともかくこういう見方もできるというのは参考にしてもらえたらと思います。
さて、世界史はともかく日本の当時生きていた島津家にとってはとてつもなく迷惑な話でした。
豊臣との総力戦でただでさえ貧乏な地域がさらに貧乏になりました。
しかも西国ということで兵10000を用意しろと命令が下ります。
そして、国政を預かり国全体を管理する島津義久と豊臣家からの要請というか命令で島津の代表にされた島津義弘とでこの命令に対する態度が真逆となり、兄弟の仲が悪くなるようになりました。
結局、島津義弘は大遅刻の挙句、小舟で朝鮮半島を渡るという武士の面目丸つぶれの事態、そして義久の方も地元で反乱が起きるほどの負担を領国に与えることになりました。
それだけではありません。
島津4兄弟のうち、最初に豊臣秀吉の恐ろしさを理解し、和平を主張した先の見える頼もしい3男の歳久、その家臣が秀吉に弓ひいたり、その時には体の具合がとても悪かった彼が秀吉から謀反人として討伐の命を受けることになります。
さて、途中ですが次の章で島津の苦難をさらに紹介したいと思います。
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