戦国島津の土台を築いた親子
島津忠良、貴久の親子は鎌倉以来続いてきた島津家に新しい風を送りました。
彼らの業績は多岐にわたります。
まず、薩摩を島津中心の勢力として再編成しました。
他の多くの国々が下剋上で新たな勢力が生まれる中において、あくまで島津内部の争いでかたをつけました。
血統という点では宗家から分家に移りましたが、宗家の概念そのものは守り、島津の長年の伝統を踏襲する形になりました。
その一方戦国時代に対応すべく国力の増強を進めました。
鉄砲や南蛮交易、明や琉球との貿易も活発化させて古い籠りきりの薩摩ではなく新しい時代に対応することができました。
何度も触れますが、島津日新斎いろは歌にあるように内政と教育にもとりわけ力を入れました。
実はあまり気づかれないことですが、この教育の効果でしょうか、キリスト教に関しては薩摩では国人衆と民衆の反対が強く後の大友や有馬のような広がりはありませんでした。
どちらかというと徳川家康のように一向宗の方が問題だったようですが、島津日新斎がキリスト教、法華宗、一向宗を忌諱、嫌っていたという記述もあるそうです。
現代の見解では、嫌ってはいても禁止をしたわけではなかったそうで禁令など厳しい処分が行われたのは島津義弘の時代になってからだそうです。
禁止をしていないにしても日新斎は違和感を感じ警戒していたのは事実なようですので後の大友氏のことを考えるとこの点でも大事な方針を打ち出していたといえるかもしれません。
島津貴久もキリスト教に帰依することはなく、思想、宗教の面では薩摩は大きな変化を望まなかった、あるいはそう選択したと言えます。
もし、大友氏や高山右近のようになっていたら島津の家名が江戸時代に残らなかった可能性もあります。
こうして、この親子は後の孫、あるいは子供のために多くの土台を固めて伝えました。
薩摩と大隅と日向の一部、教化された領民、士気の高い兵士、鉄砲などの最新兵器、
外国との交易、朝廷や幕府との健全な関係などです。
そして何より戦国時代の心構えを生き方を通して教え残していきました。
島津の若き4兄弟はこうした貴重な財産を受け継ぎ戦国時代の残りを駆け抜けることになったのです!
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