第198話 島津家といろはの「え」その2
お経は読んでも良いし、読まなくてもよいのです。
この言葉が島津の当主から発せられた時、多くの問題が解決しました。
葬式などのしきたりをどのようにすべきか、豪勢にすべきだろうか、あるいは質素にすべきだろうか、形式はどうすべきか。
現代でも葬式というのはいろいろと争いを起こします。
宗派はもちろんのこと、たとえ同じ宗派でも細かいしきたりやお金の問題、席の順番やらなにやらもめごとの種は尽きません。
島津日新斎の肖像画を見て、あるいは名前を見て明らかなように禅宗(曹洞宗)に帰依していましたがこうしたおおらかな態度で弔いについてアドバイスしました。
こうして、簡素に弔う者達が恥じることがない一方、より念入りに弔いた人たちにも配慮を示しました。
ちなみに隣にいた大友家は大友宗麟の時代にキリスト教に帰依しましたが、キリスト教以外の神社や寺院を焼き払いました。
当時の神社や寺社などの旧来の宗教勢力から見れば、島津に味方をした方が良いと判断したと思われ、島津の勢力拡大の一因になったと思われます。
その一方で死者にたいしては平等に扱うとしたことで、葬式の格式合戦のような豪勢な競争を防ぐ効果もあったと思われます。
この件に関しては少し時代が下りますが、徳川家康と豊臣秀頼のエピソードを紹介したいと思います。
関ケ原の戦いの後、徳川家康は豊臣秀頼の力を削ぎたいと考えました。
そこで彼は、豊臣秀吉のために豪華な施設を作るよう提案します。
豊臣秀頼としては断ることが出来なかったため、多くの資産を使って豪華な施設を建造することになります。
しかし、家康はこの作戦で豊臣方の財政力が落ちたのを確認したのち、言いがかりをつけて戦争を起こし、ついには豊臣家を滅亡させました。
財政に関してこうした作戦が有効であるとすれば、モニュメントにお金をかけさせるのは有効な攻撃という訳で、その点からも貴重な助言と言えるでしょう。
さて、話を戻しましょう。
戦いになれば、戦死者がでます。
戦国時代では当たり前のことです。
そして、戦が終わった後初めに行うのは味方兵士の救助と弔いでしょう、
そのことを思い浮かべると、このアドバイスを全軍に命じることは恐らく軍隊の規律に関しても一定の成果があったであろうと想像がつきます。
また、殺伐とした戦の後ですから心があらぶっていることも容易に想像ができます。
そうしたときに心を落ち着かせることもこのようなアドバイスの役割だったのではと個人的には思います。
ただ、戦というものはきれいごとではありません。
島津の軍律も完璧ということはありえません。
なので、こうした助言が一定の効果があったことは間違いないにしても、すべての戦場、すべての戦で高い規律を守っていたかについてはそれぞれの検証が必要だと思います。
今までのいろは歌もそうですが、アドバイスをするということは、裏を返せばアドバイスしないと出来ない、あるいは違うことを行う可能性が高いことを意味しています。
なので、こうした紹介をした後は、その良い点、光の点だけではなく、影の部分についても意識したいと思っています。
島津の良さだけではなく、影の部分も意識すること、いろは歌も戒めの書であるということも意識してこれからも皆様に紹介していきたいと思います。
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