第126話 関ケ原の島津と現代日本(前編)
この章では多分に筆者(私)の推測が入っていますので、異論や感想が多くなるかもしれませんが、遠慮なく書いていただければと思います。
それと間違っていましたら教えてもらえるととても助かります。
私たちは歴史を知っているので関ケ原で徳川が勝利したことを知っています。
ですが、当時の人たちはそれを知りません。
さらに言えば私は徳川の敗北もあったのではと考えています。
例えば、関ケ原の戦いの前に島津は東軍に夜襲を行う提案をしたという話があります。
もしそれが実現した場合、関ケ原の東軍の配置は数日遅れた可能性が有ります。
そうなると、立花宗茂他、伊勢路方面で京極の城を攻めていた約15000の軍が関ケ原、あるいはその近辺にあらわれ、東軍が負ける可能性もあったのではと思います。
(その時西軍が勝てたかはやって見なければわからず、仮に勝っても徳川が巻き返す可能性もありますが)
筆者が言いたいのは戦争というのはどちらが勝つか分からないので、よくよく考えて旗幟を鮮明に(味方を選ぶ)すべきということです。
余談ですが島津と小早川はある意味似たところがあります。
例えば、島津は最初から西軍ではなく、義弘公は東軍につこうとしたという話があり、鳥居元忠に拒否されたとあります。(この話はあとから加えられたという説もありますが少なくともガチガチの西軍ではなかったという例証にはなります)
小早川もご存じの通り東軍と西軍をフラフラし最後は東軍につきました。
また、島津も小早川も首脳部の間でどちらにもつかないという方針が強かったという点も挙げられます。
ですが、この島津と小早川は決定的な違いがありました。
それは、意見が違っても島津は仲たがいをせず、互いの役割を果たしたため勢力としては一致結束していました。
それに対し小早川は方針がバラバラなまま関ケ原に向かい、歴史的悪名と家が分裂した状態となってしまいました。
関ケ原の後、島津はその強固さと地の利、その他の要因により生き残りますが小早川は当主の死亡という理由で家がつぶされます。
(ちなみに小早川はもともと毛利の一族でしたから養子をとるという手もあったでしょうが徳川はあっけなく改易しています)
結論を申し上げるなら、戦になる前に一致団結し勢力が分裂しないことが大事であるということです。(島津は当時三頭体制となり方針はバラバラでしたが薩摩を守るという点においては一致していました)
※三頭体制=長男の島津義久は中立、次男の義弘は西軍、義弘の息子の忠恒(後の家久)は徳川よりという形で交渉をしていました。
後編では現代日本に当てはめて考えていきたいと思います。
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