太陽を守れ

坂根貴行

太陽を守れ

 児童相談所の事務室の電話は鳴りっぱなしだった。担当地区の児童が両親からの虐待によって死んだ。その報道を見た市民らが義憤に駆られ、罵詈雑言を浴びせてくるのだ。何をやってるんだ、子供の命を何だと思ってるんだと。日坂は適当に電話の相手をして受話器を置く。

 

 こんな電話、熱心に聞いているほど暇じゃない。

 

 まともな人は児童相談所がどれだけ人手不足で、どれだけ多忙かを知っているから、抗議の電話などかけてこない。児童を救えなかったのは残念だが、正義の名のもとに職員を非難しようとは思わない。要するに現実の生活に不満を持っている輩が鬱屈した感情のはけ口を求めて児相の電話番号を押すのだ。

 

 日坂は何度か電話対応をしたあと、戦場から離脱し、トイレの個室に逃げ込んで、缶ビールを一気飲みした。はじめてのストレス解消法だった。めったに酔わない体質だから仕事には支障がないだろうが、匂いで気づかれるかもしれない。マスコミに知れたら抗議の電話はもっとひどくなるだろうな。いいんだ。どうせ首だ。俺はもう疲れた。

 

 日坂は大学で社会福祉を学び、大学院で心理学を学び、児相の公務員試験を受けた。不合格が続き、その間、非正規公務員として働いた。給料は学歴とまったく見合っていなかったが、子供を助けたい一心だった。深夜に帰り、寝る間も惜しんで試験勉強をし、机の上で朝を迎える。そして結果はいつも不合格。そのたびに暗闇に落とされる。


 俺はいまも闇を歩いている。将来への見えない道を歩いている。

 

 もう児相を辞めて給料のいい民間企業に移ろうと思った。そうすれば貯金もできる。結婚もできる。親にも安心してもらうことができる。

 だが、いま目の前にいる子供を見捨ててもいいのか。その自問に日坂は頷けなかった。

 

 そんな状態が長く続き、昨日、また児童が殺された。空野陽太という男の子だった。虐待ではないかと近所からの通報があって一度その子を保護し、協議の末、親元に返した。親は良識をもった人に見えたし、虐待の通報が周囲の勘違いというケースもあるからだ。

 その直後の虐待死だった。

 

 日坂は自分の至らなさに目元が熱くなった。缶ビールを握りつぶした。人手不足、相談件数の急増、過酷な労働時間。理由がどうであれ子供が死んだという事実に渾身の力で殴られる。

 

 こんなことばかりだ。虐待死があって、非難の電話と職員の反省があって、また虐待死が起こる。もう辞めよう。仕事をいくら頑張っても、子供を守れないんじゃ意味がないではないか。

 

 日坂の心に空野陽太の顔が浮かんだ。怯えた顔をしていた。けれども目には美しい光が宿っていた。そうだ、草花や虫たちを照らす太陽のようだった。あれはなんだったのだろう。

 

 いや、陽太君だけじゃない。多かれ少なかれ、子供たちには光があった気がする。いま、目を閉じる日坂の心に、無数の子供たちの顔が浮かんでいる。


 どれだけ心がボロボロでも、体がボロボロでも、目には光が。親を信じる心、この世への希望、生命への原始的な祈り。子供だからこそ持てる、強い太陽。

 

 太陽の下で、川はキラキラと流れてゆく。草原はたくましく伸び、野菜や果実は豊かにふくらみ、山は強大な力を蓄えていく。動物は野を駆け、空へ羽ばたく。生命が輝く。その源に太陽がある。太陽の熱と光がある。太陽が消えれば、この世界は一瞬で闇となり、すべての生命が死滅する。

 俺の暗闇なんか、ちっぽけなものだ。


 日坂はトイレを出て、戦場へ戻った。



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