愛しい人は、女神さま

かわたる

(1)三種の神器

今から数百年前、この国がまだ日本と呼ばれる国ではなかった時代に神々により選ばれし者が生まれた。その玉のように美しい乳飲児は「くまなき月の渡るに似る」と詠まれた橋の畔で老夫婦に拾われ育てられた。


その子はやがて容姿端麗な美少女となる。見る者の心を魅了するその美しさは表面的なものだけではなく、清らかな気を全身から放出する真の美しさを内面から持ち備えていた…神々の声が聴こえ、姿が見える美少女の名は渡月とげつ…女神が憑依した伝説の姫である。


戦乱の時代…


漆黒の闇夜を駆ける無数の足音…男たちの熱い想いを鎮めさせるかの如く冷たい風が吹き荒れる中、激しい勢いで草原を駆ける不穏な足音が止まり、複数の男たちの深くて荒い呼吸音だけが静かに響く…黒雲に覆われていた夜空の月が顔を覗かせると月明かりに照らされる男たちの息が薄らと色づき、それぞれが互いの顔を眺めて頷いた。


彼らはその場で待ち合わせをしていた男から風呂敷に包まれた木箱らしきものを受け取った。風呂敷包みを持参したものは敵側に潜伏し、諜報活動していたものであり、男たちは木箱を受け取りその場から逃走する。


男たちは相手方から奪い取った「もの」を手に京の都へと戻り歓喜した。



約3年前…鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は天皇が自ら政治を行う天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとした。しかしながら、武士層を中心とする不満を招き、混沌とした政治は足音を立てながら動乱へと突き進む。同年、政治の混乱と財政難の中、約660年間の永きに亘り続いていた「斎王」の制度が廃絶された。


斎王は天皇に代わって天照大御神を祀る「伊勢の神宮」に仕えるため、天皇の代が替わるごとに未婚の皇女の中から「卜定」と呼ばれる占いの儀式により選出されて来た。


神代の時代に起源を発する「三種の神器」の名称は「八咫鏡」「八坂瓊勾玉」「草薙剣 別名:天叢雲剣」である。


争いのない平和な時代からは程遠く、権力者による欲に満ちた覇権争いは絶えるどころか激しさを増し、新政も僅か3年後に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した…


京の都に戻り歓喜する者たちの中に威風堂々とした姿の男がいた。足利尊氏である。尊氏の傍らには、足利直義ら重臣が控えている。


風呂敷を受け取り華美な装飾の施された木箱を開けて中身を確認すると、尊氏は高笑いした。尊氏は直義に耳打ちして家臣たちを残し、その場を離れた。少数の精鋭たちを従え、早馬を走らせる尊氏。


「あれは偽物だ!」


南朝から奪った三種の神器が偽物であることを尊氏は見抜き、相手に騙されたことに気づいたのである。


怒り心頭の尊氏は、計略を施した南朝の敵兵を捕らえるために木箱を受け取った場所へ自ら早馬に騎乗して出向いたのだ。


逸る気持ちを馬に伝えながら、人馬一体となり荒野を駆ける尊氏の部隊を待ち構えるかのように南朝方が迎え撃つ。


互いに少数ではあるものの激しい戦闘を繰り広げる両陣営。


「あれは、敵将、足利尊氏ではないか!」


相手が尊氏だと気づいた南朝の家臣たちは、我先に尊氏の首を捕ろうと奮闘する。


「兄上、ここは我らにお任せください」


直義がそう伝えると尊氏はひとり山道を駈けて行った。


暫く激走した尊氏は、追っ手の追撃を退け安全を確認した後に手綱を弛め、月明かりの射す山道でひとり馬の足を止めた。


尊氏の心とは裏腹に静寂な時が過ぎる…


「待て! 逃がさぬぞ!」


尊氏が駈けて来た山道とは違う野から聞こえて来る微かな声。何事かと警戒する尊氏の前に突然、見目麗しい美少女が現れた!


突然の出来事に虚をつかれただけではない…尊氏を凝視する可憐な美少女の眼差しは、月夜に煌めいている野花をも超越した華やかさと慎ましやかさを兼ね備えたものであるが故に、尊氏はその場で身動きが出来ずに静かに息を呑んだのである。


「その佇まい、清らなること、物にも似ず」


無意識に言葉を発した尊氏は、姫が追手に狙われている現場に遭遇した。瞬時に状況を把握した尊氏は、優美で淑やかな濁りのない姫に手を差し伸べる。


「そこに居たか!捕らえろ!」


追手の男たちが姫と尊氏の目前に現れ進路を塞ぐ。男たちは姫を捕縛しようとするが尊氏が助太刀して交戦する。尊氏が剣を交える相手は奇しくも南朝方の家臣たちであった。


姫を逃がすために奮闘する尊氏は身を呈して姫を匿い、敵と戦闘するものの女子連れえでは流石に形成が悪い。何とか敵を追い払いはしたのだが尊氏は姫を庇った際に負傷した。


「危ないところを助けていただき、ありがとうございます。お怪我の具合は、いかがでございますか?」


姫が尊氏に優しく声をかける。


「其方は大丈夫か? 怪我は無いか?」


姫の身を案じ、逆に声をかける尊氏。


「私は大丈夫でございます」


「そうか、それなら…良かった…」


そう言い残すと尊氏はその場で気を失った。それと同時に静寂した闇の向こうから大地を蹴って近づいて来る馬の足音が聞こえて来る。


追手から身を呈して守ってくれた勇猛な男…見知らぬ武将の名を聞くこともないまま身を隠すために仕方なくその場をひとり離れる姫は、暗闇の中に消えて行った。


その場に馬で駆けつけたのは直義ら北朝の重臣たちであった。彼らは直ぐさま尊氏を担いで都に戻り、他のもの達に悟られる事なく負傷した尊氏の身を看病した。


幸いなことに傷は浅く、大事には至らなかった。安堵はしたが南朝への怒りが収まる事の無い尊氏の懐に玲瓏な珠がある。その澄んだ何とも清らかな珠をひとり見つめる尊氏。姫を助けるために敵兵と交戦した時に姫の手から離れた珠が尊氏の懐に入ったのだ。


「これは、まさか、月の珠…」


その夜、静かに眠りについた尊氏は見目麗しい姫の姿を夢の中で追うのであった…

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