第14話 5000兆円で逃げてみた

 和夫と美知子はセバスティアンが用意した車に乗って、大急ぎで出発した。運転するのは顔の浅黒い黒髪の外国人だ。

「お二人は先にフェルナンドの車で隠れ家まで移動してください。私はこれから黒いATMを積みだして、トラックに載せて後から追いかけます」


 運転席にいた顔の浅黒い外国人は、流暢な日本語でフェルナンド・バチスタと名乗った。フィリピン国籍で、奥田先生に誘われてこの5000兆円プロジェクトに参加しているという。彼は主に東南アジアと南太平洋の国々に金生教の支部を立ち上げることを担当しているそうだ。

 フェルナンドが運転する車は高速を二時間ほど、山間部の小さな町を一時間ほど走った後、最後は山道を少し行った所にポツンと建つ一軒家の前で止まった。見たところ築三十年以上の古ぼけた家で、土台近くは苔でうっすらと緑色に染まっている。

 よく、山道を車で走っていると「なんでこんな山奥に人が住んでるんだ?買い物とかどうしてるんだ?」と不思議に思うような家に遭遇する時があるが、この家はまさにそんな、絵に描いたような「山の中の不思議な一軒家」だった。


「中はリフォームしてありますから、そんなにひどくはないですよ」

そう言ってフェルディナンドが家の鍵を開けた。確かに、古びた外側とは対照的に、家の中は明るい色合いの新しい壁紙と今風デザインのLED照明に変えられていて、むしろ今まで住んでいたボロアパートよりも快適そうなくらいだ。


「お二人には、しばらくここで暮らして頂きます。町から離れているので買い物は多少不便ですが、車を置いていきますので、通販は使わないで必ずご自分で買い物に行って下さい。

 その買い物も、ここから近いところに二つの町がありますので、両方の町を交互に使って、できるだけ行く時間帯も同じにならないようにお願いします。

 毎日同じ時間に同じ場所で買い物を続けていると、どうしても周囲の人の印象に残ってしまうので、それを防ぐための配慮です」

「わかった。わかったけど、こんな生活いつまで続けなきゃいけないんだ?」

「わかりません。FBIの追及がどれだけしつこいか次第ですが、八百人が亡くなったテロ事件がきっかけですから、そうそう簡単には諦めてくれないでしょう」

「ええぇ……」


 突然の夜逃げのような引っ越しに、和夫はすっかり気落ちしていた。俺は世界一の大富豪だったはずだ。それなのに、これでは多額の借金を抱えて夜逃げした人と、やってることは何も変わらないじゃないか。


 せめてもの救いは、この夜逃げ同然の潜伏生活は彼ら一人の力でやるのではなく、何人もの頼れる人間が、これ以上なく手厚くサポートしてくれていることくらいだろう。これから暮らす寝室や台所を和夫と美知子が確認していると、家の外にトラックのディーゼル音がして、しばらくした後、セバスティアンが体格の良い男たちを三人ひき連れて家の中に入ってきた。


 三人のたくましい男たちは、トラックに積んであった和夫の部屋の黒いATMを協力して手際よくトラックから下ろし、セバスティアンの指示に従って家の中に運び込んでいく。

 その作業をやっている間に、家の外にはさらに二台の乗用車がやってきて、中から奥田先生と二人の日本人、さらに中国人っぽい顔立ちの男と、彫りの深いラテン系の顔立ちの黒髪の男が降りてくる。


「やあ、こんにちは金井さん。この度は災難でしたね。ですが、我々もこういう非常事態を見越して、隠れ家を数か所用意して、様々なパターンに対応できるよう綿密なシミュレーションをしていますからご安心ください」


 奥田先生は爽やかな笑顔を浮かべながらそう和夫に言った。和夫はとっさに「ありがとうございます」と答えたものの、安心しろと言われたところで喜んでいいものか分からない。そもそもなんで自分が礼を言っているのか、それも何となく釈然としない。


 そんな和夫にはお構いなく、奥田先生はダイニングの椅子に勝手に座ると、その場にいる全員に着席を促した。

 最終的にこの部屋に集まったのは、和夫と美知子も入れて合計九人。この家の間取りは四人家族を想定したものと思われるが、そんな家のダイニングに九人は多すぎる。部屋の隅には、最初からこの家を打ち合わせ場所に使うことを想定していたのだろう、丸型の小さなパイプ椅子が何個も積み重ねて置いてあった。それをぎゅうぎゅうに詰めて並べて、なんとか全員が席についた。


「皆さん、おつかれさまでした。今回は危ない所でしたが、機先を制して無事にこうして避難することができて安心しております」

 最初に奥田先生がそう挨拶をすると、部屋の中の男たちは口々に「おつかれさまでした」「大変でしたね」と返事をした。彼らは互いに顔見知りで仲は良いようだ。どの男も身なりはきちっとしており、見るからに頭の良い切れ者であるような顔つきをしている。


「皆さんもご承知の通り、アメリカのカルト教団のテロの影響で、新興宗教団体の資金については世界的に監視の目が非常に厳しくなってしまいました。皆さんのご協力で、ここまで順調に団体を増やしてきたのに、残り五年というタイミングでこんなトラブルに見舞われたことは非常に痛恨ですが、こうなってしまったら仕方ありません。我々の計画も大幅に変更することが必要です。

 今後の進め方について、何かアイデアはありますか皆さん?」


 すると、一人の日本人が「ちょっといいですか」と先生に声をかけてから発言した。その男は佐竹さんと呼ばれていた。

「まず、こうやってチーム全員が一か所に集まるのも久しぶりですから、全体の情報を整理しませんか。

 各メンバーが自分の担当する地域でどれだけ金生教の支部をどれだけ立ち上げ、それぞれに何億円を持たせているのか。あと、宗教法人に対する法規制は国によってだいぶ雰囲気が違いますから、各国の法規制が今後どうなっていく可能性があるのか。それを順番に発表してもらいましょう。

 それで全体を整理したうえで、次のやるべきことを考えるべきかと」


 奥田先生がその案に賛成すると、誰も異論をはさまなかった。それで各人が、それぞれ担当と決めた地域で行ってきた金生教支部の立ち上げ状況を報告していった。

 和夫も美知子も、セバスティアンからの簡単な説明で大まかなことは知っていたが、それを進めている人たちに実際に会ったのはこれが初めてだ。それに、セバスティアンの説明は全体の流れをかいつまんで話すだけであり、ちゃんとした形で国や地域別に細かく聞かされたことも一度も無かったので、奥田先生がこの五年間で取り組んできたことの壮大さに、二人は今さらながら驚かされた。


 ここに集まった七人のうち、五人が地域別の担当となっている。スイス人のセバスティアンがヨーロッパ、中国人の劉さんが東アジア、中央アジアとロシア。フィリピン人のフェルナンドが東南アジアと南太平洋の担当だ。

 南北アメリカ大陸では、日本人の佐竹さんが北米とカリブ海、ブラジル人のエンゾが中南米を担当する。

 そして奥田先生と、先生の研究室で講師をやっている片岡さんが日本で全体統括を担当する。二人は各地域別の担当が持ち込んだ情報を他の地域担当にも共有して参考にさせたり、全体の進捗管理をして指示を出したりする。難しい案件や厄介なトラブルが生じた際のバックアップも行う。

 彼らは全員、奥田先生がその能力と口の堅さを信頼している優秀な人物で、5000兆円を無事に使いきった暁には彼らにも十分すぎるほどの報酬を渡すことを条件に、同じ秘密を共有する同志となった。


 セバスティアンの指示に沿って黒いATMをこの家に運び込んだ三人の体格のいい男たちは、今は外に出て周囲を警戒している。後で聞いたら彼らは「特殊警備会社」なる怪しげな会社から派遣されてきた人間だった。SPだかグリーンベレーだか、とにかくそんな感じの仕事の経験者が立ち上げた超VIP専門の警備会社で、警察内部に対しても、あまり大きな声では言えない秘密の人脈があるらしい。


 それで今回も、その人脈を通じて金井夫妻の家に捜査が入る情報を直前に察知し、無事に逃亡させることができたそうだ。そんな会社を雇うのに一体いくらの金がかかるのか、和夫には全く想像がつかないが、何しろ金はいくらでもある。使いきれなくて困り果てているくらいだから何の問題もない。

 奥田先生はこの特殊警備会社とも綿密な打ち合わせを行っていて、万が一警察などの手から逃れる必要が生まれた場合に備えて、日本の各地にこのような逃亡先を合計五か所も用意して、その場合の対応策についても特殊警備会社と綿密なシミュレーションを行っていたのだそうだ。今回の逃亡劇でもそれが生きたということだ。


 各人が一通り各国の状況を報告したあと、今後どうするかの議論が始まったが、これは延々と続く終わりの見えない重苦しい話し合いとなった。


 ヨーロッパを担当するセバスティアンは、アメリカの金生教支部に塩漬けにする予定だった資金を、ヨーロッパに回そうと主張した。

 ヨーロッパはアメリカと違って教会の力が強い国が多いから、宗教法人の財産を開示しろという圧力はアメリカよりもずっと弱い。だから、今まで以上にヨーロッパに支部を増やして、アメリカで塩漬けできなくなった分もそちらで塩漬けにしてしまおうという作戦だ。


 だが、死者八百人を出したカルトテロの影響は、アメリカほどではないにせよヨーロッパでもかなり大きい。カトリック教会は強く反発しているが、それでもいつ宗教法人への締め付けが強化されても全くおかしくはない。そして強化することが決定されてしまった瞬間、全ての計画は失敗に終わる。


 そもそも、本来は十年間で全額を塩漬けにする計画で進めていたのに、こんなタイミングでアメリカの金を全て引き揚げる羽目になってしまったのだ。他のメンバーから、残りたった五年でこの大幅な遅れを取り戻せるのか?という質問が出た。セバスティアンは「取り戻せる」と強気で言い返したが、その目には力が無かった。


 状況が厳しいのはアメリカだけではない。家に警察がやって来るくらいだから、今後、日本で金生教の資金を増やすこともかなり見込みが薄いと言っていいだろう。ヨーロッパがダメなら、アジアとか他の地域でやったらどうなんだ?という質問もあったが、どの地域も状況は似たようなものだった。


 結局、「宗教法人に5000兆円を塩漬けにさせる」という最初の案そのものが、「最後の福音者」のテロのせいで完全に筋の悪い方法になってしまったので、この案に固執している限り何も解決しないということで全員の意見は一致した。それで、この案は捨てるしかない、という結論は固まった。


 かといって、それならば別の案があるか?と言われても誰にも妙案はない。外が暗くなるまで長々と議論を繰り返したが何一つ良いアイデアはなく、優秀な男たちはみな腕を組んで、疲れた顔でむっつりと黙りこくってしまった。


 重苦しい沈黙に耐えられなくなった美知子が、はぁーとため息をついて言った。

「あーあ。何でも自分勝手にできる国があればいいのになー」


 頭のいい人たちに囲まれて、さっきから肩を縮めて萎縮している和夫が「おい!お前何バカなこと言ってんだよ!」と美知子を小声で叱りつけた。


「だってさぁ。さっきから国の規制がどうだの、国に見つかったら全部おしまいだの、コソコソ隠れてんのなんか悲しくない?5000兆円もあるんだからさー、それでどこかの国を買っちゃって、それで自分勝手にできたらいいのになー、って思っただけよ。まぁそんなの無理だけどね絶対」


 すると、その美知子のぼやきを聞いた奥田先生が、普段は細くて切れ長の目をカッと見開いて、美知子を指さして大声で叫んだ。


「それだ!」

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