第12話 5000兆円で執事を雇ってみた

 こうして、秀夫の恩師である奥田准教授の指図に従って、世界中に1万個の宗教法人を立ち上げ、そこに各5000億円ずつを持たせて塩漬けにするという壮大な作戦がスタートした。


 とはいっても、和夫と美知子の夫婦がやることは何もない。彼らがやることといえば、宗教法人設立の際に創設者として名前を貸して、実印を奥田先生に渡すことだけだ。あとは奥田先生が全部やってくれる。


 打ち合わせを終えて奥田先生と秀夫が帰った後、美知子が和夫に向かって言った。

「それにしても、100兆円なんて一体何に使うのかしらね奥田先生?」

 和夫は、わかんねぇよ頭のいい人の考える事なんて、と答えた。


 その日、ひととおり打ち合わせが済んで今後の方向性と各自がやるべき事が決まったところで、奥田先生は単刀直入にこう言ったのだ。


「この作戦が成功して5000兆円が手に入った時の報酬なのだが、私の報酬は100兆円にしてほしい」


 何の遠慮もためらいもなく平然とそんな莫大な金額を言うものだから、和夫も美知子も秀夫も最初「は?」としか答えることができなかった。

 ずいぶん吹っ掛けるもんだなと和夫は思ったが、眉毛一つ動かさない奥田先生の態度は、それくらいの額は報酬として当然だと言わんばかりだ。


「100兆円というとずいぶん欲張りのように聞こえるかもしれないが、この、ほとんど不可能に近い馬鹿げた挑戦を十年もかけてやり遂げるんだ。それなら、2%くらいの成功報酬があっても全然おかしくはないだろう、と思っただけのことだ。

 もちろん、失敗して十年後に元の状態に戻ってしまった場合に、今まで作業をした労力の分の金を払えとは言わない。成功したらお金を分け合い、失敗したらお互いに何も要求しないという一蓮托生方式だ。リスクもリターンも分け合うんだから、決してアンフェアな話ではないと思うがね」


 すると秀夫も、今が取り分の話を固める絶好のチャンスだとばかりに「俺の報酬は1兆円な」とそれに話をかぶせてきた。


「今回の作戦は全部先生のアイデアだが、俺が先生を紹介しなければそもそもこの5000兆円は諦めていたんだから、俺だってそれくらいの額はもらってもいいはずだよな。だいたい、最初はお前の方から、1兆円やるから助けてくれって泣きついてきたわけだし」


 そんな二人のストレートな要求を、和夫はぼんやりと「ああ。わかった」とあっさり受理した。何も反論せず即座に相手の要求を呑んだことで、美知子はほんの少しだけ不愉快そうな顔をしたが、もう5000兆円の取り分のことなど正直どうでもいいと、和夫はすっかり投げやりな気持ちになっていた。


 1兆でも2兆でも、勝手に持ってってくれ。

 どうせ俺には使いこなせない金なんだ。


 5000兆円を手に入れて以来、まるで歯医者がじわじわと歯を削っていくかのように、嫌な感触で精神を削り取ってくる出来事ばかりで、ちっとも楽しくない。借金が無く、普通の生活に困らないくらいの金さえあれば、俺はもうそれで十分だ――


 美知子が眉をひそめながら、奥田先生の陰口を言った。

「私……あの先生なんか嫌い。ちょっと不気味で怖くない?」

「わかる。俺も、よく兄貴あんな人を尊敬して付き合ってるよなと思った」

 美知子の言葉に和夫もうなずいた。


 ――それからというもの、何もすることがなく、ただぼんやりと日々を過ごしている和夫と美知子にはお構いなく、状況は次々と進んでいく。


 打ち合わせの数日後には、さっそく奥田先生が一人で和夫の家にやってきた。それで何やら色々な書類を渡されて、言われるがままにハンコをいくつも押させられた。金生教の立ち上げについて会計士の先生と相談をしたが、おそらく問題なく宗教法人として認可してもらえるだろうとのことで、その申請に必要な書類を作っているということらしい。


 そして、そのさらに数日後、奥田先生は今度は背の高い金髪の男性と二人で家にやって来た。年齢は三十代前半くらい、ブロンドの髪に青い目をした典型的な「白人」で、なかなかの凛々しい美男子だ。

 外国人と話した機会などほとんどない和夫と美知子は、いきなり現れた外人に驚いて何も言えなくなった。それで、ただ意味もなくヘラヘラと愛想笑いを浮かべながら何度も頭を下げつつ「ハロー」と言ったら、その外国人は


「大丈夫です。私日本語ペラペラですから」


と流暢な日本語で言って、笑顔を浮かべつつ右手を差し出して自己紹介した。

「私の名前は、セバスティアン=シュミットです。スイス人ですが日本に住んでます」


 和夫は、金髪の外国人が日本語を上手に話す様子を不思議そうに眺めながらも、彼のさわやかな笑顔にひきずられるように自然と笑顔になり、右手を出して握手をした。


「はぁー、セバスティアンさんね。へぇー、ずいぶん日本語上手だねぇ」

「はい。日本に留学していま4年目です。奥田先生には研究で色々とお世話になっています」

「セバスティアンは日本語も話せるけどね、英語、ドイツ語、フランス語もペラペラなんだ。スイスの銀行に若干のツテがあって、ヨーロッパの金融全般にも詳しいので、今回の件に協力してもらうことにした。彼にはヨーロッパ各国での金生教の立ち上げをやってもらう」


「すごい!四か国語を話せるなんて信じられない!」

 美知子がうれしそうに歓声を上げた。「四か国語を自由に操り、一流大学で経済の研究をしている金髪のハンサム外国人」などという、今までの人生で全く縁の無かった雲の上の世界の人とお近づきになれて、思わずはしゃいでしまったらしい。

 和夫は一瞬だけムッとしたが、しかしセバスティアンの端正な顔と柔らかな物腰を見ていると、美知子が色めき立つのも無理はないよなと思った。


 男の自分から見ても、セバスティアンはとても魅力的な人間だった。和夫など及びもつかないインテリであるにも関わらず、それを全く鼻にかける様子もなく、ニコニコと丁寧に自分に接してくれる。同じ高学歴の人間でも、自分の兄とは大違いだと和夫は少しだけ悲しくなった。


 それからというもの、奥田先生が和夫の家に来る回数はめっきり少なくなり、その代わりにセバスティアンが伝言や必要書類を預かってやって来ることが多くなった。

 秀夫に至っては、最初に奥田先生を家に連れて来て、一緒に今後の方針を決めて以来、一度たりとも和夫の家に来ることもなく、電話もたった一回しかよこしていない。

 その電話だって、内容は実に自分勝手なものだった。先日決められた自分の取り分一兆円のうち、二十五億円だけ先に今すぐ受け取ることはできないか?という、自分への報酬に関する話だ。

 もうこの際どうでもいいと思って和夫はすぐにOKを出したが、親身になって自分たちと話をしてくれるセバスティアンと比べたら天と地ほどの差だと、自分の兄の心の狭さに和夫は心底うんざりしていた。


 何度も家に来てもらって雑談をするうちに、和夫も美知子も自然とセバスティアンとすっかり仲良くなった。彼はユーモアのセンスがあって、一緒に話をしているだけで心地よいし、セバスティアンの方も二人によく懐いた。


「日本に来て4年ですが、あなた方が一番優しいです。私は日本に来てあなた方に会えて本当に良かった」

などと嬉しいことを言ってくれるので、美知子などはお世辞でしょと言いながらも喜びを隠せない様子だ。


「お世辞なんかじゃないです。日本人、基本とってもいい人ばっかりだけど、時々ちょっとよそよそしいなって思う時あります。でも、和夫さんも美知子さんも、そんなこと全然ない。家族みたいに仲良くしてくれるから、私、さみしさ、無いです」

 セバスティアンはそんな事を言う。大学で自分の周りにいる人間は、皆いい人達だし頭もいいけど、どこか冷たい。だから時々寂しくなって、無性に故郷のスイスに帰りたくなるのだという。


「いいじゃない。それなら私たちの所にちょくちょく夕ご飯食べに来なさいよ。どうせ私たちヒマなんだし、一人暮らしなんでしょ?一人で寂しくご飯食べるより、みんなで食べた方が楽しいわよね」


 美知子がそう言って誘った。和夫もそれに賛成だった。セバスティアンと話をするのは楽しかったし、5000兆円を使い切る作業について、彼は和夫と美知子にも分かるような簡単な説明で、いつも親切に進捗状況を教えてくれたからだ。

 同じことを和夫が奥田先生に質問しても、先生は無視してほとんど教えてくれない。ときどき気が向いた時だけ面倒くさそうに説明してくれはするが、先生の説明は難しい言葉ばかりで彼にはさっぱり理解できなかった。


 そのうち、セバスティアンは用件がない時でも金井家に遊びに来るようになった。彼はとても気の利く男で、「これ、お困りではないですか?」と言っては色々と役立つものを買ってきてくれる。


 5000兆円を持っている和夫と美知子は、本来なら好きなものを何でも買い放題のはずなのだが、近所に目立つような贅沢な買い物を奥田先生から禁止されている。以前、家に置いてあった美知子のヴィトンの鞄を奥田先生に注意され、手厳しく怒られてからというもの、和夫も美知子もすっかり萎縮してしまって、5000兆円を手に入れる前と全く同じ質素な暮らしに戻っていた。


 そんな中で、セバスティアンは「これくらいなら奥田先生も怒りませんよ」といって色々なものを買ってきてくれる。彼が選んでくるものは、有名ブランドではないがどれもほどほどに高価で、センスが良く上質なのに周囲からは目立たないものばかりだった。

 セバスティアンは、決して自分が良いと思ったものを一方的に押し付けたりはしない。それなのに、彼の選ぶものは不思議なくらい彼らの好みと合っていた。日頃、二人をよく観察して会話の端々から彼らの好みを感じ取り、それとピッタリ合致するものを、何も言われていないのに用意してくるのだ。


「すごいわよねセバスティアン。彼、社長秘書とかやらせたら絶対向いてるわよね」

「社長秘書というか、執事とかいいんじゃないか?」

「あー!執事! それ最高。金髪の美男子だし、彼がモーニングとか着て紅茶入れてくれたりしたら最高かも!」


 和夫と美知子はそんな他愛のない話をしつつ、次第にセバスティアンに色々な買い物を任せるようになった。


 二人は資産5000兆円の大富豪でありながら、奥田先生の指示でボロい賃貸アパートに住み続け、贅沢な生活を一切禁止されている。以前に申し込んだ世界一周旅行も、結局はキャンセルして行かずに終わってしまった。宅配便に怪しまれるので、通販での買い物もダメだ。

 セバスティアンはそのことをしきりに気の毒がり、5000兆円使い切るまでの十年間は辛抱です、その後でみんなで楽しみましょう、と親身になって励ましてくれていた。


 そのうち、そんな同情的なセバスティアンに頼んで、美知子は様々な高級食材を入手してもらうようになった。

 あまり収入の多くない人たちばかりが住むこの界隈で、他人の目につく車や服に金をかけることはできない。

 そこで彼らは、派手な外食などができない代わりに、セバスティアンを通じて高級食材を手に入れて、それを自分で料理して楽しむことにしたのだった。それくらいが、5000兆円の資産を持つ大富豪である彼らのささやかな楽しみだった。


 自宅から離れた町で高級食材を調達して来て、それをこっそり自分の家に持ち込む分には、誰にも怪しまれない。最初は美知子が自分で買い物に行っていたのだが、美知子はそんな高級食材など使い慣れていない。よく分からずに買って、せっかくの高級品なのになんか微妙な味よね、とがっかりする事が多かった。

 それが、たまたま一度だけセバスティアンに買い物を頼んだところ、彼はセンスが良く美味しい食品ばかりを的確にチョイスしてきた。彼は裕福な家庭に育ち、幼い頃から高級な料理も食べ慣れているので、そのような料理のレパートリーとそれに合う食材も耳学問でよく知っているということが分かった。


 それからというもの、自分よりもセバスティアンに食材を選ばせた方がずっとマシだということになり、美知子は買い物をすべてセバスティアンに任せることにしたのだ。


 するとそのうち、セバスティアンが「私、料理はけっこう得意なんですよ」と言い出し、美知子に代わって料理まで時々やってくれるようになった。

 自分から得意と言うだけあって、セバスティアンの作る料理は確かに素人とは思えないほどの腕前で、美知子はますますセバスティアンを信頼するようになった。


「なんか、本当に執事みたいになってきたわね、セバスティアン……」

和夫と美知子はそう言い合った。

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