第2話 5000兆円を使ってみた

 いま、自分の家には5000兆円がある。


 とりあえず和夫と美知子は、黒いATMの操作画面に「振り込み」のボタンがあったので、そこから各自の給与振込口座にお金を振り込んでみることにした。毎回毎回お金が必要となるたびに、この黒いATMがある自宅まで戻って引き出すのは不便だし、多額の現金を持ち歩くのも物騒である。だから、街中で自由に引き出せる普通の銀行ATMにお金を移しておいた方が色々と便利だった。


「それじゃ、俺とお前の口座に半分の2500兆円ずつ振り込むぜ」

「え。ちょっと待ってよ。それって怖くない?」

「なんで?」

「だって銀行のATMなんて、キャッシュカード盗まれて暗証番号知られたら全部盗まれちゃうじゃない。今までは別に口座に大したお金が入ってなかったから全然気にしなかったけど、これからは大金持ちなんだから泥棒には気を付けなきゃ」

「そりゃそうだけど」

「この黒いATMだったら、仕組みはよく分からないけど、とにかく私とあなたしか使えないんでしょ?だったら、万が一家に強盗が入ってこのATMを持ってっちゃったとしてもお金は出せないんだから心配ないし、とりあえず5000兆円はこの中に入れておいた方がいいわよ。それで、必要な分だけ銀行口座に移して、使って足りなくなったらまた振り込んでくほうが安全じゃない?」


 美知子の意見はもっともだという事で、まず二人はそれぞれ1000万円ずつを各自が持っている銀行口座に振り込むことにした。振り込み手数料220円が二回引かれて、黒いATMの残高表示は「4,999,999,979,699,560円」になった。


 最初一瞬、なんで銀行から銀行に金を移すだけで220円も取られるんだよ、という不満が和夫の頭によぎった。だが、何を言ってるんだ俺は5000兆円も持っているのに、と和夫はその考えを慌てて打ち消した。


 この怪しすぎる黒いATMからの振り込みを本当に銀行がちゃんと受け入れてくれるのか、不正入金だといって警察に通報されたりしないかという不安もあったが、操作は全く問題なく終わった。そしてこれは翌日のことになるが、銀行で残高照会をしてみたら、ちゃんと口座には1000万円が入金されていた。


 面白いもので、300万円の札束がATMから出てきて自分の目の前に積まれた時は、確かに嬉しくはあったが不思議なほどに現実だという実感が全くなかった。何しろ和夫も美知子も、札束というものをテレビの映像でしか見たことがない。一枚ずつバラバラにすれば見慣れた一万円札なのだが、それが束になって目の前に積まれると、完全にテレビドラマの小道具だとしか思えなかったのだ。


 それが、銀行のATMから印刷されて出てきた紙の預金残高の欄に1000万円と書かれているのを見ると、このお金が本当に自分のものであるという実感がずっと強く湧いてくる。前日に300万円の札束を見た時よりも、この残高の数字を見た時の方が、二人としてはむしろ深く心に染みわたる喜びがあった。


「せっかくだから、もう今日の夕飯は外食にしない?」

「そうだな。パーッと豪遊しようぜ!焼肉とかどうだ?」

「いいわね!借金できてから、牛角も長らく行ってなかったもんね!高い上カルビとかも、もう財布を気にしないで、これからはいくらでも頼めるんだよね」

「そうだよ。何しろ5000兆円あるんだから。しかも10年で全部使わなきゃいけないんだから」

「あー!何これ最高!幸せ!お金の心配しなくていいのって、こんなに楽だったんだ!」


 そして二人はウキウキした気分で近所の牛角に行った。日曜夜の夕飯時の牛角は混雑していて、30分ほど待たされたが全く気にならなかった。二人はメニューの高いものから順番に食べきれないほどの肉をオーダーして、上機嫌に何杯もビールを空けて愉快に酔った。


「なあ、もう明日会社行く意味なくね?」

「え?それはダメだよ。前にテレビで言ってたけど、宝くじに当たった人って、だいたいそれで人生破滅してるんだよ」

「そうなの? 3億とか4億とか当たってんのに?」

「そうだよ。3億4億なんて、ちょっと贅沢して遊び回ったら、パッと消えちゃうらしいよ。それで気が付いたら宝くじのお金は一円も残ってなくて、しかもその時には仕事も辞めちゃってるから収入もない、っていう悲惨な人生に転落する人、かなり多いんだって」

「マジで?怖!」

「だからさ、宝くじが当たるとお金と一緒に必ず渡される本があるらしいんだけど、そこには一番最初に『仕事は絶対にやめるな』って書いてあるみたい」


 そんな美知子の言い分に相槌を打ちながらも、和夫は口をはさんだ。


「えー。でもさ、俺らは5000兆円あるんだぜ? しかも10年後までに全部使わなきゃいけないんだから、働いて金増やしちゃうのマズくない? 使い切れなくなんない?」


 すると美知子はピシャリと言い切った。


「だーかーらー。5000兆円は10年経って最後に余りそうだったら、株でも金でも土地でもいいから、何か後に残るものを買って使い切るって話だったでしょ。それとこれとは話が別。これからの10年は、私たちの生活費は5000兆円から出すことにして、会社の給料は将来に備えて全部貯金。それでいいわね?」

「わかった」

 全然納得していない顔だったが、和夫はしぶしぶ頷いた。


 翌日、自宅に残高約4999兆9999億7970万円のATMを持つ夫婦は、普通の夫婦と同じように朝早く起き、通勤し、普通の人間と同じように会社で働いた。

 二人にとって深刻な悩みの種だった300万円の借金は、昼休みに街角にある自動契約機に行って、あっさりと一瞬で全額を返済した。


 ただし、それまで二人は毎日遅くまでダラダラと残業するのが習慣だったが、その日は二人そろって定時で仕事を切り上げた。会社を出たのは早かったが、家に着いたのはいつもと同じく、夜もかなり遅くなってからだ。

 帰宅した和夫の手にはたくさんの新車のパンフレットが、美知子の両腕からは大量のデパートの紙袋がぶら下がっていた。


「いやー。色々目移りして迷ったりもしたんだけどさ、やっぱり俺の心は昔から黒のアルファードで決まってんだよな。その場で決めてきちゃったよ」

「前からずっと憧れてたティファニーのネックレス、買っちゃった!。あと秋物のコートとジャケットと……もう持って帰ってくるの大変!」


 和夫は500万円の新車を現金一括払いで即決し、美知子は30万円のネックレスと20万円のコートと、その他何着もの服を衝動買いしていた。彼らの人生で今まで一度も経験したことのない衝動買いだ。

 それでもなお、昨夜二人で1000万円ずつ下ろした現金はそれぞれ半分近く残っている。まだ全然使い終わる気配はなく、黒いATMからお金を下ろして補充する必要もなかった。


「あーもう5000兆円最高!」

「これだけ使っても、まだこんなに銀行に残高あるんだぜ!たまんねぇな!」


 黒いATMには、昨日と全く変わらない「4,999,999,979,699,560円」という残高が静かに表示され続けていた。

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