欲しかった5000兆円を手に入れた話

白蔵 盈太(Nirone)

第1話 5000兆円が手に入った

「あーあ。5000兆円欲しい」

 濁りきった虚ろな目で、和夫が投げやりな口調でつぶやいた。


「何なのよ、その5000兆円って」

 和男の妻、美知子がイラついた声で返す。


「お前知らないの?『5000兆円欲しい!』って画像。意味はよく知らないんだけど、ネット見てると最近よく出てくるじゃん。パチンコのリーチの時に出る数字みたいな、派手な字で『5000兆円欲しい!』って書いてあるやつ」


 和男はそう言いながら、自分のスマホをいじってその「5000兆円欲しい!」の絵を検索し、美知子に見せた。

 和男が差し出したスマホの画面には、立体的に描かれた真っ赤な文字で「5000兆円」、その下には銀色で「欲しい!」と書かれた、やたらギラギラした金属光沢のある飾り文字が表示されている。


「何これ意味わかんない。5000兆円なんて手に入るわけないじゃん。バカみたい」

「バカみたいだから面白いんだよ。誰だって大金は欲しいけど、リアルな金額だとなんか重くなっちゃうじゃん。例えばここで俺が『300万円欲しい!』って言ったら、すげえ惨めだろ」

「確かにね……」


 そう言って深い深い溜め息を吐いた美知子の前には、消費者金融からの返済の督促状が置かれている。そこには厳めしい明朝体で大きく書かれた「借入額 三百万円」の文字があった。


「でも『5000兆円欲しい!』だったら、なんかそういう重さが無いから気楽に言えんだよね。あー5000兆円欲しい!」


 さっきから二人は、何もしていないのにいつの間にか溜まっていたこの借金をどうするかで、先の見えない不毛な話し合いを延々と続けていたのだった。

 その長い議論に疲れた和男の口から、思わずこぼれた本音のひとことが「5000兆円欲しい」だった。


 しかし、何時間話し合いを続けたところで、実は最初から結論は見えている。

 和男のギャンブルと、美知子の浪費癖を止めればいいのだ。ただそれだけのことだ。この二つができれば、全ての問題はすぐに解決する。


 二人とも健康でちゃんと働いていて収入はあるので、ギャンブルと浪費を我慢すれば少なくともこれ以上、夫婦の借金が増えることはない。それどころか、ほんの少しずつだが、この無計画に積み上がった借金を返していくことだって不可能ではない。


 だが和男も美知子も、そんなことは最初から重々承知の上で、それを我慢したくないからこう悶々としているのである。

 だいたい、「止めよう」と決意しただけでギャンブルや浪費癖を止められるくらいなら、誰だって最初からやっていない。

 それが止められないからこそ、別に車や宝石を買ったとかいうわけでもないのに、二人はダラダラと無駄に300万円もの借金を抱えてしまったのではないか。


 「あーあ。5000兆円欲しいなー」

 「ホント。5000兆円あれば、こんなチンケな借金で、アホみたいに悩む必要もないのになー」


 そんな他愛のない愚痴を言い合いながら、借金の督促状を前に二人が不毛なため息を吐いていると、どこからともなく年配の男性の重々しい低い声が響いてきた。


「わかった。それでは、お前たち夫婦に5000兆円をやろう」


 なんだ?と和夫は慌てて周囲を見回した。頭の中に直接語りかけてくるような不思議な声だったが、美知子も同じように戸惑った顔で周囲をキョロキョロ見ているので、この声は彼女にも聞こえているらしい。


「あんた誰だ?俺んちのどこから話している?」

 和夫の問いに、謎の声が事もなげに答えた。


「私は神だ。お前たち夫婦が5000兆円を欲しがっているのを天国から眺めていた。そんなに5000兆円が欲しいのなら、儂がくれてやろう」


「何言ってんだお前? 自分が神様だとか、頭大丈夫か?」

 すると、神を自称する謎の声が答えた。

「まぁ、そうそう簡単に儂の存在を信じる気にはなれぬだろうな。そんなお主には、説明よりも実物を見せてしまった方が早いだろう」


 謎の声がそう言うと、ボウンという何かが軽く爆発するような音がして、二人の目の前に白い煙が立ちのぼった。

 突然の出来事に二人が呆然としていると、白い煙が晴れ、その中から巨大な縦長の機械が現れた。その形はコンビニなどに置かれているATMによく似ているが、全てが真っ黒で、漆塗りの重箱のようにツヤツヤと黒光りしているので、町中で見かけるATMとは明らかに雰囲気が違う。


「なんだこの機械?お前これ、俺の家に一体何をした?」

「何を怒っている。私は神だ。いま、お前たちが望む5000兆円をくれてやったのだから感謝するがいい」

「なんだと?5000兆円をくれた?どういうことだ?」


 怪訝な顔をする和男に、神は静かに諭すように説明した。

「この機械の使い方は分かるな。お前たちが日々使っているATMとほぼ一緒だ。使い方は簡単だから、少し使えば後はやり方で迷う事はないはずだ。お前らが望んだ5000兆円がこの中に入っている。

 ただしATMと違って、ここから5000兆円を引き出すのにキャッシュカードは要らない。お前ら二人が触れた時だけこの機械は動き、他の人間が触っても絶対に動かないから、カードは要らないのだ。

 5000兆円から引き出した後の残高は、画面の一番上に書かれている。試しに見てみろ」


 謎の声がそう言うので、和夫と美知子は恐る恐る漆黒の機械の前に立って、腰のあたりの高さにあるタッチパネルに触れた。途端に機械に電源が入り、「イラッシャイマセ」という機械音声と共にパネルの液晶画面が光った。

 表示された画面には「お引き出し」「振り込み」「使い方」のボタンだけがあった。「お預入れ」と「残高照会」のボタンはなく、その代わりに一番上に、画面の横幅いっぱいの長さで


「残高:5,000,000,000,000,000円」


と書かれている。


 和夫は半信半疑ながらも、ゆっくりと指を伸ばして「お引き出し」のボタンを押した。金額を入力する画面が出たので、彼は試しにゆっくりと「300万円」と入力してみて、「お引き出し」の赤いボタンを押す。


 途端に黒い機械から、ガガガガというATMが紙幣を数える音が鳴りはじめた。


「嘘だろ……」

と和夫は小声でつぶやいたが、ATMのたてる機械音は嘘やまやかしではなく、しばらくすると止まって、タッチパネルの横の小さなスライドドアがスッと開いた。


「ゲンキンヲ、オトリクダサイ」


 スライドドアの中に、みっしりと紙幣が詰まっていた。それを見た美知子が、喜びというよりは恐怖に近いような「ヒッ!」という声を上げた。和夫は震える手でスライドドアの中に手を伸ばし、中の札束を取り出す。

 偽札ではないのか?と思って和夫はその紙幣を念入りに確かめたが、質感といい絵柄といい、少なくとも和夫が見る限りは間違いなく見慣れた本当の一万円札だ。それが三百枚、彼の手元にある。


「うっそおおお?」

「ちょ……ちょ……!ちょっとマジで?これマジで?」

「嘘でしょ?三百万、本物?本物?」

「何これ!夢みたい!ねえ本当にこれ本当?本当なの?」


 和夫と美知子は、あまりの驚きと喜びに語彙力が極端に低下し、言葉にならない意味不明な叫び声を上げながら、しばらく二人で興奮した猿のようにはしゃぎ回った。


 何分か経って興奮が少しだけ収まり、冷静さを取り戻してきた和夫が、誰もいない中空を見上げながら尋ねた。


「なあ神様。このお金、本当にありがたいのは確かなんだけど、本当に、本当に俺たちが全部もらっちゃっていいんだよな?後で返せとか言わないよな?」

「ああ。いま引き出した300万円だけではない。ATMの画面を見てみろ。5000兆円から300万円を引き出した後の残額が表示されているだろう。ここに書かれている金額、全部が間違いなくお前たち夫婦のものだ」


 さっきまでは半信半疑で、警戒しきった口調でぶっきらぼうに会話していた和夫も、目の前にある三百枚の札束を前に、すっかり相手を信じ込んで口調が柔らかくなっている。神様に言われて和夫がATMの操作画面を見てみると、画面上段にある表示が


「残高:4,999,999,997,000,000円」


に変わっていた。確かに300万円が引き出されている。


 それでも和夫は、注意深く神様に確認をした。

 物語とかで時々こんな類の話はあるけど、この手の話って大抵、愚か者が最初に甘いことを言われてホイホイと話に乗って、後で痛い目に遭うというのがお約束のパターンなのだ。そんなベタな罠に騙されないように、最初にちゃんと確認をしておかねばならない。


 「なあ神様。あんたが神様だってことを俺は完全に信じたけどさ、でもこれ、実は偽札でしたとか、魔法が解けたら紙切れに戻るとか、そういう罠は無いよな?」


 神は平然とした口調で答えた。

「あるわけないだろう。おまえは昔話の読み過ぎだ。この金は正真正銘の本当の金で、偽札などではない。全く問題なく、お前の自由に使うことができる。

 ただし、十年以内に必ず全額を使い切ること。それだけが条件だ」


 やはり神様が条件を出してきたので、和男は身構えた。

「全額を使い切る?」

「そうだ。十年以内に全額を使い切れ。もし十年経って、このATMの中に使われていない金が一円でも残っていたら、その瞬間にお前は今の状態、300万円の借金を抱えた状態に逆戻りする」


 それを聞いて、和夫は残念そうに言った。

「なんだよそれ。じゃあ俺たち、十年間は大金持ちでも、十年後は全部手持ちの金を使い切って、一文無しに戻るという事かよ。それじゃ全然面白くねえなぁ」


 今まで300万円の借金を負っていた男が、十年間贅沢三昧をした挙句に一文無しになるだけでも十分プラスに違いない。それでも満足しない貪欲な和夫に対して、神は怒るでも叱るでもなく静かな口調で諭した。


「別に、一文無しに戻るわけではない。この5000兆円を使って買ったものは、十年経った後もお前の手元に全部残る。買った車も、買った家も、全部お前のものだ。十年経った後に、それまで買った車や家を売ってもう一度金に戻すのは全くの自由だ」

「え?そんなんでいいの?」

「ああ。全く問題ない。お前はただ、このATMから金を引き出して、何かに使えばいいだけだ」

「それじゃ、美味いものを食べたり世界中を旅行したりして、ぜいたく三昧の暮らしをしたらその分は消えちゃうけど、車とか家とか、後に残るものを買っとけばそれは十年後も俺のものなんね?」

「そうだ。それに買うものは、別に車や家などでなくたって構わない。全くの自由だ。例えば株券や債券、金・プラチナといった投機商品を買うのに使ってもいいし、もちろんその買った株券や債券、金・プラチナは十年経った後もお前のものだ」


 その破格の条件を聞いて、和夫と美知子は顔を見合わせた。


 車や家は、確かに売ることはできるかもしれないが、中古になるので価値はガクンと目減りする。でも、株券や債券なら多少の手数料は取られるかもしれないが、買って売るだけなら一円の損にもならない。もし株価が上がれば、さらに貯金を増やすことだって不可能ではない。


 こんなゆるゆるの条件なら、十年後までに全額を使い切るなんて楽勝ではないのか。要するに、十年間は贅沢三昧で好きなように遊び暮らして、十年後の期限が近づいてきたら、この黒いATMに残った金を全部引き出して、それを全部株券や債券に換えればいいだけの話である。

 それで、すぐにまた株券や債券を売って現金に戻せば、5000兆円の資産の大部分を、十年経った後もそっくり自分の手元に残すことができるだろう。株を売り買いする時の手数料で多少は損するかもしれないが、5000兆円もの大金を十年後以降も自分の手元に残せると思えば、手数料などは大した額ではない。


 「ええ……?神様、それ、あまりにも都合よすぎない?」

 和夫が馴れ馴れしい口調でそう聞くと、神は気にする様子もなく平然と答えた。


 「都合がよすぎると思うのであれば、止めたらいい。今ここでこの話を受けるのも断るのもお前たちの自由だ。私はどちらでも構わない」


 和夫は美知子を呼んで、物陰に隠れてひそひそ話で相談した。相手は神だから、何かに隠れて声を潜めたところで全てお見通しなのだろうとは思うが、人間の習性として、人に聞かれたくない話を明るい場所で大声上げてやる気にはなれない。


 この話は、きっと何かの罠があるに違いない。

 だって、あまりにも都合がよすぎる。昔話ってだいたい、こういう時に欲張りな奴が天罰を食らうのが定番のパターンだよね。


 この点では、迷うまでもなく夫婦の意見は一致した。たぶんこの話は、神様の意地悪な罠なのだ。……でもさ、これで私たちが食らう天罰って何?


 今の状態に戻るだけである。300万円の借金を抱えた、今のみじめな状態。ただし借金が増えるとかはなく、別に今より悪くなるわけではない。


 ――失敗して罰を食らっても、今より悪くならないなら、たとえ罠でもやった方が得じゃね?


 ここで罠を恐れてこの話を断って、300万円の借金をどうするのかという不毛な議論に後戻りするのと、とりあえず今5000兆円もらっておいて、楽しく十年間暮らした後で全部失って300万円の借金生活に戻るのと、どっちがいい?


 そりゃ当然、5000兆円もらっとくべきでしょ!


 かくして、和夫と美知子夫婦の結論は固まった。だが、絶対に罠にかからないよう、この一点だけは念入りに確認をしておかなければならない。


「十年後にこの5000兆円を使い切れなかった時は、本当の本当に、今の300万円の借金に戻るだけなんだよな?」

「そうだ」

「本当に、それ以外の罰は何もないんだよな?」

「ない。安心しろ」

「死後に地獄に落ちるとか、健康を損ねるとか、何かの障害を負うとか、お金以外の罰は一切ないんだな?」

「ない。使い切れなかった金額と、この5000兆円で買った全ての財産が消滅し、300万円の借金が復活する。それだけだ。それ以外は何も起こらない」

「本当だな!今の話、全部録音したぞ?」

「私の声はお前の心に直接語りかけているから、録音しても何も残らないが、まあいい。神の名に懸けて約束は守るから安心しろ。

 それで、お前はこの5000兆円を受け取るのか?断るのか?」


 和夫は決意を込めた目で中空を睨みつけ、力強く答えた。

「受け取る。5000兆円、俺たち夫婦で全部使ってみせてやる!」

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