五十三、聖炎

 ベルゼビュートが指で私の顎を持ち上げ、顔を近付けた。


(口づけなんてさせない!)


 サロメが私の視界に入る。幸せそうな表情を浮かべている。もう動くことはない。この悪魔がいる限り、また誰かが死ぬ。どんなことをしてもベルゼビュートを止めなくては。


「許さないわ……」

「ん、なんだ?」


 私は自分を中心に炎の球を発生させた。私を結界ごと拘束していた病魔の蔓が焼ききれる。そのまま徐々に炎の球を大きくしてベルゼビュートごと包んだ。


「グッ……!」

「貴方でも熱いのね」


 炎に包まれているにもかかわらず、ベルゼビュートは私を抱き締めて放さない。炎の球は私とベルゼビュートを包んだままさらに温度を上げていく。


「離れないと流石の貴方でも焼け死ぬわよ」

「くっ……!」


 ベルゼビュートは炎の球の外へ出るべく後ろへ飛びのいた。病魔の蔓は炎で焼けるようだ。それならば……。


「サラマンドル。私の元へ来て」


 私の呼び出しに応じて高さ五メートルほど大きな炎の蜥蜴、幻獣サラマンドルが現れた。炎の蜥蜴といっても、その大きさと荘厳な佇まいからは炎の竜といっても差し支えない。


「俺に用事か、主」

「サラマンドル、聖炎でベルゼビュートを閉じ込めて」

「御意」


 サラマンドルの聖炎のブレスがベルゼビュートの体を目がけて放たれる。哀れなサロメの亡骸もサラマンドルの聖炎に包まれていく。


「所詮は蜥蜴風情の炎。これで追い詰められると思うのか。私も見くびられたものだ」


 ベルゼビュートは勝ち誇ったような笑みを浮かべ病魔の靄で防御壁を作りブレスを凌ごうとした。厚い病魔の壁はブレスの炎に堪えきるかに見えた。けれど……


「何……!?」


 黒い靄の壁が端のほうから徐々に面積を小さくしていく。炎によって病魔が急速に焼かれているのだ。


「クッ!」


 ベルゼビュートは病魔の壁では堪えきれないと判断したのか、ブレスを避けるように横へと飛びのいた。だがサラマンドルの聖炎はベルゼビュートを追うようにその軌道を変える。

 病魔の壁が完全に焼き尽くされ、聖炎がベルゼビュートの体を囲むように包んだ。ベルゼビュートは周囲と頭上全てを完全に包囲され、身動きが取れなくなる。


「ベルゼビュート。貴方を倒す前に一つ教えてほしいの。貴方はどんなふうに呼び出されたの? 召喚主が誰かは聞かないから、それだけ教えてちょうだい」

「追い詰められれば私が白状するとでも思ったのか? 浅はかな」

「そう……。残念だわ。サラマンドル、お願い」

「御意」


 捕縛するように囲んでいた聖炎の壁が徐々にベルゼビュートに向かって狭まっていく。


「アガッ……熱いッ! やめろォ! アアァ……」


 サラマンドルのブレスはただの炎ではない。邪悪を滅する聖なる炎だ。ベルゼビュートを包囲していた聖炎がベルゼビュートを包み込み血液中の病魔を焼き尽くしベルゼビュートの力を奪っていく。そしてとうとう、サラマンドルの聖炎の球が直径十センチほどの大きさになった。


「そろそろいいわ。サラマンドル」

「滅さないのか?」

「……悪魔を完全に滅することはできないわ。だけどベルゼビュートの力はほぼ消滅している。彼はもう奈落に戻るしかないわ。そして向こう数百年か数千年か、まともに戦うことはできないでしょう」

「ふむ、なるほど」


 サラマンドルの炎の球がパチンと弾ける。すると中から現れたのは小さな黒い羽虫だった。


「このような虫けらがベルゼビュートの正体か」

「……そうね。ベルゼビュートが病魔を媒介する虫の悪魔だというのは分かっていたけれど、こうして見ると力を失ってしまった姿は哀れなものね。そしてこれから彼はどこへ帰ると思う?」

「……なるほどな。流石は主」


 サラマンドルがニヤリと笑った。すっかり弱り切った小さな黒い羽虫がフラフラと森のさらに奥へと飛んでいく。羽虫は私たちを認識すらしていないようだ。もはや本能だけで動いているのだろう。そして羽虫が飛んでいった先には驚くべきものがあった。


「何、これ……」

「驚いたな……」


 私もサラマンドルも驚きのあまりに言葉を失ってしまった。羽虫――瀕死のベルゼビュートが飛んでいった先には、どこに繋がっているかも分からない黒い穴があった。その穴は直径三メートルほどの大きさがあり、何もない空中に浮かぶようにぽっかりと空いている。

 ベルゼビュートはその穴にふらふらと力なく入って姿を消した。その様子を見ていたサラマンドルが呆然としたように呟く。


「アビスホール……」

「アビスホール?」

「ああ。主が知っている通り、幻界はこの世界とは全く別の次元にあるものだ。奈落も同じく別の次元にある世界。この世界と自然に繋がることはない。だが何らかの手段で無理矢理抉じ開けられた奈落と繋がる穴をアビスホールというのだ。私も初めて見たが間違いない。この穴の向こうは奈落だ」

「奈落に通じる穴……。ベルゼビュートはここから呼び出されたのね。……うん?」

「どうした?」

「この穴を抉じ開けたのは、やはり人間だわ。術式で穴を開けたまま維持しているみたい」

「なんと危険な真似を……」


 私はそのまま術式の観察を続ける。術式を破壊すればこのアビスホールは閉じるはずだ。破壊によるトラップがないことを確かめながら、その術式に何やら引っかかるものを感じた。


「これは……。この術式は……」

「む?」

「アンの腕輪の呪術式のパターンによく似ている」


 術式は目的を達成するために構築するものだ。そしてその手段に用いられる公式と手順は作る人間によって様々だ。人の数だけ術式があるといってもいい。だから術式を見ると、構築した人物の癖のようなものが見えてくる。

 驚くべきことに、アビスホールを抉じ開けている術式のパターンが、アンの腕輪の呪術式によく似ていたのだ。

 複雑で奇抜な発想。それにフェイクをたくさん混ぜることで回りくどく見せているけれど至極効率的に目的に到達するパターン。

 術式を作っている人物は極めて論理的思考の持ち主だと想像できる。かなり頭がいい人物なのだろうけれど、術式から感じ取れる嫌らしさから想像すると、私と気が合う人間ではなさそうだ。


「アンを捕らえた人物がアビスホールを抉じ開けた。そして悪魔を召喚して私の命を狙った。一体どういうこと……?」

「いずれにしろ、ろくな奴でないことは確かだな」

「そうね……」


 このような危険な穴を開けっぱなしにしておくわけにはいかない。早急に閉じないと、奈落から他の悪魔が出てくる可能性がある。

 私はアビスホールを抉じ開けている術式をグリモワールを行使して破壊した。黒い大きな穴が徐々に小さくなり、ゆっくりと閉じられていく。そして最後には完全に消え去った。

 それからベルゼビュートと一緒に戦っていた場所へと戻り、病魔で腐食して枯れた森をサラマンドルに聖炎で焼き尽くしてもらった。この更地に再び健やかに樹木が育つように、病魔で穢れた土を浄化しなければならない。ほんの僅かも穢れが残らないように。

 全ての後始末が終わったあとに、私はサラマンドルに町まで連れていってもらうことにした。


「サラマンドル、悪いけど私を町まで乗せていってくれるかしら」

「御意」


 私は町までサラマンドルの背中に乗せてもらい、町の中心部に降ろしてもらった。町の中には、もう直轄の眷属は存在していないはずだ。私は両手を広げ瞼を閉じて治癒魔法の行使を始める。

 私の体を中心として広がっていく白く眩い光が町全体を包む。すでに日が傾き始めていた街が真っ白な眩い光に覆われていく。私の魔力が街の隅々にまで行き渡っていくのが分かる。町全体に治癒を施したあとにようやく魔法の行使を終えた。

 町の人たちは一体何が起こったのか分からないといったふうに、きょろきょろと辺りを見渡している。急に眩い光に包まれたのだ。さぞ驚いたことだろう。

 私の命、アンの捕獲、悪魔召喚、呪いの腕輪。――要素がばらばらすぎて考えが上手く纏まらない。私を殺そうとした者とアンを捕らえようとした者が同一人物である可能性は限りなく高いのだけれど、アンと私は森で会ったのが初対面でそれまでは何の繋がりもなかった。首謀者の目的は一体何なのか。考えれば考えるほどに困惑する。

 私が治癒魔法の行使を終えたあとにその場でじっと考え込んでいると、私の帰還に気付いたアンとエルネストとフェリクスが私の元へと駆けつけてきた。エルネストが私の顔を見た途端、安堵したように微笑んだ。心配をかけてしまって申しわけない。皆を安心させないと。


「皆、心配させてごめんなさい。ベルゼビュートは倒したからもう大丈夫」

「クロエ、君は……! ……無事に帰ってきてくれて本当によかった」


 エルネストはほんの少しだけ泣きそうな表情を浮かべて、私の腕を引いて私をギュッと抱き寄せた。

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