第2話 マイナードーンチクタクサミット

 ここはなんとしても死守しなければ――。

 ヨルの国国境警備隊・隊長のスイは、国の象徴である漆黒をすべて独り占めしたかのような、見事な長い長い黒髪の持ち主。膝から下を黒鉄に覆われた足を踏みしめ、その編んで束ねた美しい黒を揺らすと、一層表情を険しくする。

「長針殿は、先ほど『11』を回られたとのことです!」

 場は一層緊迫する。傍らに膝をつく部下からの報告に、スイは濡れたような艶だけで返事をした。相対する桁違いの行軍――今はかりそめに歩みを止めてはいるが――からは目を離さない。たとえどんなに闇色の瞳が割られるほど眩しくとも。

「今日こそ、『3時』は我々ヒルが頂戴する」

 国の領土すべての光を浴んでまぶしたような輝きを放つのは、ヒルの国の将軍、サカエだ。この人がこの任に就いてからというもの、ヨルの国はあれよあれよと侵攻を許し、毎夜もしくは毎日、この時間の奪い合いが繰り広げられている。もっとも、一度ヒルの手に渡ってしまえば、ヨルの力では取り返すことはできないため、ただただ、一方的に略取されるのみであった。

「なんでそんなに『3時』を欲しがるのよ、ヒルは」

 「号令」を待つ二人はこの間だけいつも、刹那の言葉を交わす。この文字盤の「3」を天地に挟んで向かい合う。短針がゆっくりとヨルからヒルへ向かい、国境にピタリと重なるまでの束の間のサミット。

「一分一秒でも多いほうがいいだろう?陣地は」

 一直線の影が、フッとスイの身体を安寧の闇に染め始める。頭上を、短針が悠然と泳いでいる。まさにその「3時」を迎えようとしているのだ。

 もうすぐ長針殿も天辺に到達する頃、あのご老体がさえずるのもじきだろう――。すっぽりと覆われ真闇に融かされた自身の姿を感じながら、スイは遥か後方の観音扉に、瞬間だけ視線の矢を放った。

「それに、3時1分からがヒルの国です、なんてキリが悪いしな。気持ちよく3時丁度に、我々の国へようこそと、長針殿と短針殿を迎えてやりたいものだ」

 はっはと笑って見せるサカエも、スイの瞳に誘われるように今か今かと「号令」を待つ。

「そうやって鞭打ってこき使うから、ほら。あんたの後ろ、何人も寝てるじゃない」

「何ッ!」

 サカエの怒声を目覚ましに、うつらうつらしていた兵士は、ピッシと姿勢を整える。光速の反応に、どれが任務中に怠けた態度を取ったのかは、最早分からない。自分の顔に泥を塗られたと、サカエは光を揺り乱して歯噛みする。

「『休息』を蔑ろにしすぎなのよ、あんたも、…人間も」

「馬鹿を言うな。それを望んでいるのは人間だろう」

 サカエが指差した先、夜闇に身を委ね静まり返ったこの時計店とは対照的に、目の前の大きな道路を何台ものトラックが、レーザービームを放ち、地を揺らしながら轟々と走っていく。

「こうして夜も、働きたがっている。だから俺たちは『活動』時間を広げようと日々邁進しているのではないか」

「あんた、あのトラックの運転手が、こんな深い夜にまで働きたいだなんて、本気で思ってる?」

「…何?」

 スイの言葉に、サカエは少し、光量を落とす。こいつは、威勢がまさに目に見えるからチョロ…もとい、分かりやすくて、その点は好感が持てるな――と、スイは思わず吐息で微笑う。

「彼らは、あんたの言う『一分一秒』の犠牲者なのよ」

「…どういうことだ」

 しかしながら、大して自分の頭で考えようともせず、すぐに答えないし解説を求めてくるところは、光るしか脳の無い、実に愚かで浅はかだとも思った。

「少しでも、一分一秒でも早く。絶対に明日、届いて欲しい…本当にそうなの?早く欲しいなら前もって行動を起こせば良い。限られた活動時間の中を上手に渡れば良いだけなのに」

「遅いよりは早いほうが良いに決まっている」

「だから、それが労力の無駄遣いになるって、言ってんのよ!」

「…分からないな。それを便利だと人間は喜んでいるじゃないか」

「その裏で誰かがすり減らしている。物が棄てられているのに?」

「それを良しとしているから今、現実にトラックは往来し、コンビニエンスストアは24時間明かりを灯し、生産工場は休みなく煙を噴いている」

「あんたも見たでしょう、サカエ。そこで今は休んでいるテレビで。無残に棄てられるパンの山を。過酷な労働の果てに命を投げた人の叫びを。まるで世は地獄だと、あの時あんたも嘆いていたんじゃないの!?」

 格段に、目を開く辛さが和らいできた。スイは、そろそろと光の剣を収めつつあるサカエの双眸をしっかりととらえ、闇より澄んだ声で謳う。

「それらは全て、行き過ぎた『活動』のせいなのよ」

 スイの声は文字盤じゅうを駆け巡りこだまする。ヒルもヨルも、誰もがその演説に耳を傾けていた。

 しかし長針短針は我関せず。彼らは情には流されない。ただ時の海流に従うのみ。無情で公平。それは波間にたゆたうくじらのような雄大さでもって、二人をいっぺんに今、包まんとしていた。

「…不要な便利こそ捨て去るべき。一人一人の心持ちや工夫で、いくらでも彼らは『休息』を手に入れられると、そうは思わない?」

「なんだ、結局は『休息』か。おまえも自国の陣地は欲しいと見える!それこそ、『一分一秒』でもな!」

 サカエが叫ぶや否や、その姿にも短針の影が差す。ついに「3時」が来た。

 しかし、「号令」は鳴かない。

「あの老いぼれ…!」

 またか、とスイが思うより早く、ゴウッと、洪水のように押し寄せる光が、ヨルの国の兵士たちを薙いで焦がす。それでもしっかりと、今はもう光にまみれたその漆黒の甲冑を、地につけたままでいられるのは、彼らの敬愛する隊長が塵ほども狼狽えず、その光を真っ直ぐ刺すように見据えているからだ。

「解ってないな、スイは。人間はな、自分だけは損をしたくない!そういう生き物なんだよ!」

「だからって『活動』ばかりを増やすのか!その結果が物や人すら蝕んでも!」

「それが自分でなければ良いだけの話だと言っている!」

 不遜な光は今日一番の輝きを迸らせ、周囲一帯は煌めく海となる。文字盤はこの「3」はおろか反対側の「9」まですべてが浸り、底に落ち揺らめいた。

 これには長針たちも驚いたが、そのリズムを狂わせることは無い。光の表面を弾きながらマイペースに時を刻みゆく。彼らは「3時」を過ぎ、戦禍の中をめぐりゆく。

「志だけは立派だがな、スイ。それじゃ国境を守ることはできない」

 水面を乱反射するように閃光が、サカエが、無差別に何もかもを貫こうとする。

「今日もまた我らが押すぞ。軍事力を、活動力を高めなければその崇高な志もただの泡沫だ」

 闇では光は防げない。晒されるがまま、スイの頬は焼けつき、本来ならば目も開けていられないほどだった。腕も足も、光に抉られた痕がいくつも、そして次々と塗り重ねられる。

「武力は要らない。私はこの志でねじ伏せる。あんたの、ヒルの、尊大な行進を!」

 仁王立ちのまま、兵士たちを背に庇いながら。スイは、サカエが顔の皺を深くするたび食い込む光に耐え続けた。たしかに貫かんとしていたはずのサカエは、ここでやっと違和感をおぼえる。なぜ、ここまでやって、かすり傷しか与えられていない――?

「…分からないの?大事なのはバランスなのよ。『活動』を過多にしてしまえば、どこかで壊れる。ほら、あんたの後ろ、また何人も寝てるわ」

「何ッ!?」

 サカエが振り向くと同時、先刻と同じように兵士はピッシと背筋を伸ばす。しかしもう精も根も尽き果てて、「3時」と「4時」の間へと続々倒れ込んでいく。光の海に沈みゆく。

「…気付いてる?あんたたちが『3時』に攻め入るずっと前から、そうやって綻びが生まれていたこと」

「…『3時』より前から…?」

 スイの漆黒の髪は、あまねく影に撫でられた後、ほの暗さの下に再び、そのなめらかな艶を浮かばせる。

「昔、言ったわよね?『活動』を最大限にするには、それ相応の『休息』が必要だって」

 そしてその表情も上から少しずつ影を脱いでいく。

「馬鹿馬鹿しい…陣地を広げたいがための詭弁じゃないか」

「本当に馬鹿なのはあんたのほうよ。…身をもってしても、まだ分からないの?」

 腕に彫られた深紅の真一文字を舐めながら、スイは冷めた視線をサカエに投げつける。

「な…に…」

 国中の光を宿したはず。それなのになんて頼りない、消えそうな薄明かり。サカエは自身の両手を互い違いに見て、脚を見て、腹を見て、そのどこにも光と呼べるものが無いと知る。

「どういう…ことだ…」

「だから言ったでしょう。『休息』を蔑ろにしすぎなのよ、あんたも、人間も」

「…」

「やっと理解した?」

「…『活動』するには、『休息』が必要…」

 頭上を完全に短針が通り過ぎた後、真闇から現れ出たスイの顔は傷だらけで。それすらも美しさにはっとさせられる程に、凛と強く笑っていた。

 それは気高い勝利の微笑。

「そ。しばらく休んでなさい。そうね、『5時』までは私たちヨルが頂いていくわ」

 そう言ってスイは、痛む足を踏み出す。晴れて守りきった「3時」を飛び越える。

「なっ…!」

「それくらいがバランスなのよ。夜は寝て、昼に働く。いいわね?」

 そして手を差しのべる。まだ「3時」の足元に未練の手指でしがみついていたサカエは、とうとう観念して、その手を取り立ち上がる。

「じゃあこれからヨルは、忙しくなるから!お大事に!」

「スイ!」

 警備隊を引き連れて、颯爽と身を翻していくスイの黒髪がいつまでも、サカエの網膜に焼き付いた。しかし将軍には追い縋る暇など無い。撤退準備、兵士の手当て。昼がやって来る前に、皆の疲れを癒してやらねば差し支える。この時ほど夜が長引いて良かったと、染み入るように感じることはないだろう。

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