35話 朱厭の掛軸(下)

 深川八幡別当べっとう永代寺えいたいじ。その塔頭たっちゅうのひとつ吉祥院きっしょういん

 書院造の座敷より名勝である庭園を眺めながら、二人の人物が相対していた。


 設えた座の上下は、一見真逆に見える。

 上段の間は空いているものの、向かって右の下座には、落ち着き払った初老の武家。左手上座には、軽装の若い侍。若殿の御忍おしのびか、もしくは唯の浪人者か。判別しかねるのは場に似つかわしく、しかも形姿なりには釣り合わない、妙なほどの落ち着き具合であった。


 初老の武家は、加納久通ひさみち。穏やかな相貌であるが、どこか古武士然とした厳しさがある。

 加納は、八代将軍吉宗に幼少期より仕える側近である。現在は御側おそば御用取次ごようとりつぎとして、吉宗と幕閣とを取り持つ重積を担っていた。その功により逐次加増されてきたが、近年所領が一万石を越え、大名となった。


 もう一人いちにんの若侍は、二木ふたき倫太郎。この物語の主人公である。

 上座にあって臆するでもなく、倫太郎はにこにこと笑顔で座していた。


「お久しぶりでございます」

 手をつき、礼をとったのは加納の方だった。


「こちらこそ、お久しぶりです。加納殿には、ご健勝のようで何よりです。有馬殿もお変わりありませんか」

 有馬とは、有馬氏倫うじのり。加納の相役となる。

「相変わらずでございます。倫太郎様にお会いしたと申したら、歯噛みしながら悔しがることでしょう」

 二人は、呵呵とばかり笑う。


此度こたびは多忙の折、無理を言いました」

 倫太郎は軽く頭を下げ、謝意を示す。

「何の、急ぎの用と聞き及んでいます。しかし、加納殿とは」

 困ったような笑顔になる。

「昔のように、角兵衛かくべえとお呼びくださればよろしい」

「それでは示しがつきません。私は二木倫太郎です」

「いや、それこそ示しがつきませぬ」

「では、角兵衛殿と」


 決めたとばかりの物言いに、加納は目を細めた。

「よう似ておられる」

「篠井の叔父御おじごも、そう申されるが。──似ていますか、私は」

「はい。似ておられます」

 倫太郎は、面映げにおのれの顎のあたりを撫でた。


「して、倫太郎様。どのような用向きでございますか」

 加納は穏やかに問いかけた。大抵のことは、篠井を通せば済む。それをわざわざ呼び出すとは、加納の知る倫太郎らしからぬ振舞いであった。


「実は、さるご直参の奥向きに奉公する娘と知り合いました」

 倫太郎は、直裁に切り出した。

「ほう」

「ああ、誤解しないでください」

「まさか、あのお凛のことではございませんな」

「私ではなくお凛に怒られますぞ、角兵衛殿」


「では、その町娘がどうしたのです」

「奉公先で由緒ある御家の家宝が奇禍に遭い、その責を負って自害しようとしています」

 しかし、と倫太郎は言う。

「このままでは、罪なき者が罪を被り、それによって、真の下手人を取り逃がすことになるかもしれません」

 倫太郎は微笑を浮かべ、淡々と語っていた。


「それをどうせいと申される。武家の家中のことであれば当主の裁量、武家同士であればご老中の裁量の範疇。武家と町方であれば、評定所の範疇。それを上から、どうこう口を出すべきではございません」

 倫太郎は、尤もだと深く頷く。


「私はとて、横車を押し通すようなことは好みません。ましてや、御迷惑をおかけするつもりはない」

 と言わずとも、加納には通じている。


「それでもその一件、倫太郎様はこの角兵衛が預かるべき事案である、と申されるのか」

 倫太郎は頷くと、傍らに置いた桐箱から、画軸の残骸を取り出した。畳の上を滑らせ、加納へ見るように促す。


「天下のご政道の為、と思うています」

 訝しげに受け取り、軸を広げた加納のまなこが、かっと見開かれた。


「これは」

「この画軸の由来は聞いています。また、先般四代様の治世、慶安の騒動との関わりについても聞き及んでいます」


 幼い四代将軍家綱いえつなの誘拐未遂と、軍学者由井正雪の企みは未遂に終わった。その際、まことしめやかに語られた噂。

 紀伊大納言頼宣の謀反への関与。

 そして、乱を察知し姿を消した、東照神君家康公御拝領の“朱厭の掛軸”。


 加納は無言だ。乱の兆しとされるを睨み付けている。この掛軸を所蔵するのは、かの旗本大久保家。三河以来の忠臣で、家名の誉れは疑いようもない。年次の披露は慣例ではあったが、となれば、噂では済まないだろう。

 ましてや、当代大樹公は尾張徳川家を差し置いて、紀伊徳川家より本家を継いだ。その際の確執はいまだ燻っている。


「このままでは娘ひとりではなく、やたら忠義の家臣を失い兼ねません。万が一そのようなこととなれば、そもそもこの軸を下された御方おんかたのご遺志が、至って蔑ろになる」

「なぜこのようなことが……」

「それがわからないのです。思いがけず関わりましたが、すでに巷間に流出し、禍いを撒いていました。原因を突き止めたいと思っていますが…」

「そればかりはなりませぬ!」

 言って加納はを睨み、それから倫太郎を睨んだ。倫太郎は春風のように受け流して、微笑んでいる。


 幾度か視線を通わせた後、加納はわらいだした。どこか晴れ晴れとした笑い声だった。


「参りました。流石さすがは新之助様のお血筋。ご懸念の件、確かに承りました。東照神君様まで持ち出されては、敵うはずもごさいません」

「よかった」


 てらいのないその笑みに、加納は目を細める。二親ふたおやの気質をくも鮮やかに継いだかと、嬉しさとともに、強い懸念が湧き上がる。


「ただ一つ、条件がございます。倫太郎様はこれ以上関わらないと、そうお約束くださるならば、角兵衛がよいように取り計らいましょう」

「約束します」

 幼い頃の、ふたつの面影が重なる。その「約束」が厄介であることも、おそらく変わらないだろう。

「いまひとつ、角兵衛に頼みがある」

 いつの間にか、殿が消えていた。

「この一件、どうか角兵衛の胸のうちにおき、お伝えしないでくれないか」


 聡さは懸念となる。

 懸念で済めばよいが──加納は思った。

 二木倫太郎はおのれの主君にとって、やがて大きな奇禍となるかもしれない。いずれ──。

「承知仕った」

 加納は自らを鼓舞するように声を上げ、深く頭を下げた。




 倫太郎は、加納に先立ち吉祥院をでた。

 委細は里哉の父、篠井正親へ知らせてある。この後、加納へ伝えた上で動きがあるだろう。

 火急と告げ、加納と会えるよう取り計らってもらったが、正直なところ、相当に渋い顔をされた。

 ──、倫太郎様を見護るのが、われら江戸篠井の役目なのをお忘れか。


 しかし、倫太郎には伝えるべきことがあったのだ。

──先般、音哉おとやに会いました。

──あの者、生きておりましたか。

 〈閻魔の狐〉と名乗り、恨みを晴らす義賊として、徒党を組んでいた。

──このこと、里哉は。

 倫太郎は首を振った。

 しばらくしてから「愚か者めが」と、長い嘆息が聞こえてきた。


 人は得られぬものを渇望し、手にしたものは無価値と貶める。強欲さには、限りがない。

 心底、どれほどの恨みを抱いているのか。

 

 倫太郎は八幡詣で賑わう通りを流し、ほどなく花六軒長屋の木戸をくぐった。

「お帰りなさいまし」

 木戸番は、いっとう奥に住う才助だ。やはり篠井の縁者らしい。

 お凛と真慧は、まだ神田紺屋町にとどまっている。

「お里、今戻ったよ」

 どうにか夕餉には間に合った。倫太郎は引戸を開け、中にいた人物に驚いて声を上げた。


「原殿」

 同じ長屋の住人、原賢吾が座っていた。とっさに目が慣れず、表情が見えない。

「どうされました。里哉はおりませんか」

 原は無言だった。

 倫太郎は大刀を抜き、刀架に掛ける。振り返ると、広い背が平伏していた。

「若君」

 倫太郎は、呆気に取られている。

「本日よりこの原賢吾、身命を賭して御身をお守り申し上げる」




(続く・第二章了)

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