35話 朱厭の掛軸(下)
深川八幡
書院造の座敷より名勝である庭園を眺めながら、二人の人物が相対していた。
設えた座の上下は、一見真逆に見える。
上段の間は空いているものの、向かって右の下座には、落ち着き払った初老の武家。左手上座には、軽装の若い侍。若殿の
初老の武家は、加納
加納は、八代将軍吉宗に幼少期より仕える側近である。現在は
もう
上座にあって臆するでもなく、倫太郎はにこにこと笑顔で座していた。
「お久しぶりでございます」
手をつき、礼をとったのは加納の方だった。
「こちらこそ、お久しぶりです。加納殿には、ご健勝のようで何よりです。有馬殿もお変わりありませんか」
有馬とは、有馬
「相変わらずでございます。倫太郎様にお会いしたと申したら、歯噛みしながら悔しがることでしょう」
二人は、呵呵とばかり笑う。
「
倫太郎は軽く頭を下げ、謝意を示す。
「何の、急ぎの用と聞き及んでいます。しかし、加納殿とは」
困ったような笑顔になる。
「昔のように、
「それでは示しがつきません。私はただの二木倫太郎です」
「いや、それこそ示しがつきませぬ」
「では、角兵衛殿と」
決めたとばかりの物言いに、加納は目を細めた。
「よう似ておられる」
「篠井の
「はい。似ておられます」
倫太郎は、面映げにおのれの顎のあたりを撫でた。
「して、倫太郎様。どのような用向きでございますか」
加納は穏やかに問いかけた。大抵のことは、篠井を通せば済む。それをわざわざ呼び出すとは、加納の知る倫太郎らしからぬ振舞いであった。
「実は、さるご直参の奥向きに奉公する娘と知り合いました」
倫太郎は、直裁に切り出した。
「ほう」
「ああ、誤解しないでください」
「まさか、あのお凛のことではございませんな」
「私ではなくお凛に怒られますぞ、角兵衛殿」
「では、その町娘がどうしたのです」
「奉公先で由緒ある御家の家宝が奇禍に遭い、その責を負って自害しようとしています」
しかし、と倫太郎は言う。
「このままでは、罪なき者が罪を被り、それによって、真の下手人を取り逃がすことになるかもしれません」
倫太郎は微笑を浮かべ、淡々と語っていた。
「それをどうせいと申される。武家の家中のことであれば当主の裁量、武家同士であればご老中の裁量の範疇。武家と町方であれば、評定所の範疇。それを上から、どうこう口を出すべきではございません」
倫太郎は、尤もだと深く頷く。
「私はとて、横車を押し通すようなことは好みません。ましてや、御迷惑をおかけするつもりはない」
誰にと言わずとも、加納には通じている。
「それでもその一件、倫太郎様はこの角兵衛が預かるべき事案である、と申されるのか」
倫太郎は頷くと、傍らに置いた桐箱から、画軸の残骸を取り出した。畳の上を滑らせ、加納へ見るように促す。
「天下のご政道の為、と思うています」
訝しげに受け取り、軸を広げた加納の
「これは」
「この画軸の由来は聞いています。また、先般四代様の治世、慶安の騒動との関わりについても聞き及んでいます」
幼い四代将軍
紀伊大納言頼宣の謀反への関与。
そして、乱を察知し姿を消した、東照神君家康公御拝領の“朱厭の掛軸”。
加納は無言だ。乱の兆しとされる猿を睨み付けている。この掛軸を所蔵するのは、かの旗本大久保家。三河以来の忠臣で、家名の誉れは疑いようもない。年次の披露は慣例ではあったが、二度目となれば、噂では済まないだろう。
ましてや、当代大樹公は尾張徳川家を差し置いて、紀伊徳川家より本家を継いだ。その際の確執はいまだ燻っている。
「このままでは娘ひとりではなく、やたら忠義の家臣を失い兼ねません。万が一そのようなこととなれば、そもそもこの軸を下された
「なぜこのようなことが……」
「それがわからないのです。思いがけず関わりましたが、すでに巷間に流出し、禍いを撒いていました。原因を突き止めたいと思っていますが…」
「そればかりはなりませぬ!」
言って加納は猿を睨み、それから倫太郎を睨んだ。倫太郎は春風のように受け流して、微笑んでいる。
幾度か視線を通わせた後、加納は
「参りました。
「よかった」
「ただ一つ、条件がございます。倫太郎様はこれ以上関わらないと、そうお約束くださるならば、角兵衛がよいように取り計らいましょう」
「約束します」
幼い頃の、ふたつの面影が重なる。その「約束」が厄介であることも、おそらく変わらないだろう。
「いまひとつ、角兵衛に頼みがある」
いつの間にか、殿が消えていた。
「この一件、どうか角兵衛の胸のうちにおき、お伝えしないでくれないか」
聡さは懸念となる。
懸念で済めばよいが──加納は思った。
二木倫太郎はおのれの主君にとって、やがて大きな奇禍となるかもしれない。いずれ──。
「承知仕った」
加納は自らを鼓舞するように声を上げ、深く頭を下げた。
倫太郎は、加納に先立ち吉祥院をでた。
委細は里哉の父、篠井正親へ知らせてある。この後、加納へ伝えた上で動きがあるだろう。
火急と告げ、加納と会えるよう取り計らってもらったが、正直なところ、相当に渋い顔をされた。
──こうならないよう、倫太郎様を見護るのが、われら江戸篠井の役目なのをお忘れか。
しかし、倫太郎には伝えるべきことがあったのだ。
──先般、
──あの者、生きておりましたか。
〈閻魔の狐〉と名乗り、恨みを晴らす義賊として、徒党を組んでいた。
──このこと、里哉は。
倫太郎は首を振った。
しばらくしてから「愚か者めが」と、長い嘆息が聞こえてきた。
人は得られぬものを渇望し、手にしたものは無価値と貶める。強欲さには、限りがない。
心底、どれほどの恨みを抱いているのか。
倫太郎は八幡詣で賑わう通りを流し、ほどなく花六軒長屋の木戸をくぐった。
「お帰りなさいまし」
木戸番は、いっとう奥に住う才助だ。やはり篠井の縁者らしい。
お凛と真慧は、まだ神田紺屋町にとどまっている。
「お里、今戻ったよ」
どうにか夕餉には間に合った。倫太郎は引戸を開け、中にいた人物に驚いて声を上げた。
「原殿」
同じ長屋の住人、原賢吾が座っていた。とっさに目が慣れず、表情が見えない。
「どうされました。里哉はおりませんか」
原は無言だった。
倫太郎は大刀を抜き、刀架に掛ける。振り返ると、広い背が平伏していた。
「若君」
倫太郎は、呆気に取られている。
「本日よりこの原賢吾、身命を賭して御身をお守り申し上げる」
(続く・第二章了)
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