第二章一幕 俺と彼女の前哨戦
5月2日。
下校前のホームルームが終わり、クラスの連中がそわそわと騒いでいた頃、俺はというと昨日すっぽかされた五十嵐とのデート(俺は認めていない)が考え事の九割を満たし、苛立ちを噛み締めていた。
放課後の帰り際にでも問いただそうとしたが、五十嵐は学校を休んでいたのだ。
自分から約束を取り付けておいて守らないなど言語道断だ。人の気も知らないで。
五十嵐は、俺に向けた不履行な態度を除けば、普段は約束を破るなどする筈もなく、友達を第一に考えている温情な人間だ。
となると一昨日の大胆不敵な行動はやはり遊びで、大いに俺をからかっていたということになる。バージンだと断言していたのは俺を欺くための嘘で、キスだって中古だったのだろう。どおりで慣れた舌さば――。
途端に脳裏を五十嵐のキスの感触が侵食し、口を右手で抑え舌を噛み、己の舌の動きで反芻しないよう全神経を集中させた。あれはマジでヤヴァかったのだ。
記憶に鮮明と刻まれているだけ、思い出すたびに赤面ものだが、同時に、やはり遊びだった事実に憤りを覚えた。
めいめいに下校する生徒に混じり、俺も鞄を引っ下げて周りに習う。
「……やっぱりビッチじゃないか」
思わず憎まれ口を叩く。
すると、『ビッチ』に反応したかのように、誰かが俺の襟首を勢いよく掴んだ。
学ランに首を締められて咳き込んでしまう。
「いっ……誰だ!」
振り返ると、琥珀色のショートボブをした女子が、俺をジト目で見ていた。
釣り上がった眼に端正な眉目。学校指定の制服を従順に着込んでいて、縦に細い肢体は運動部であることを示唆している。右肩には鞄を掛けて持ち手を握り、反対には竹刀を収めた竹刀袋を持っていた。
幼馴染の、二葉
クラスは隣の2年A組。頭には空色のリボンを着けている。
なにせ短髪の二葉だ。リボンを着ける意味がない。可愛げを装うためなのだろうが、ぶっちゃけ似合っていない。高校に入学してから現在まで、同色のリボンを着用しているが、何を意識して選っているのか聞いても教えてくれないため、依然として謎のままだ。
「ビッチって、あたしのこと?」
二葉は険悪な表情で俺を睨む。射殺すような視線に一步二歩と後退ってしまう。
剣道部の瞳孔はこうも人を戦慄させるのか。こっわい。
「ああ、二葉か。今のは独り言だ」
「『ああ』って何よ? あんたの独り言から人を指す名詞が出てくるわけないでしょ」
「場合によっては出るさ。ギャルゲで主人公を誑かすヒロインとかな」
「ギャルゲするほど人恋しいならはやく友達つくれば?」
「例え話だ」
「なら違うじゃない。やっぱビッチってあたしのことでしょ」
二葉は腰に両手を添えて口をへの字にしながら言う。想像以上に噛み付いてくる。
こいつは家族を除いて唯一俺が相手にしている人間だ。というか相手にしなければならない。
お互い家が真隣なために、小さい頃はよく二人で遊んだ。時折、二葉の男友達も交えて家でおままごとなんかもした。その際はいつも二葉が場を仕切って、俺と男友達が二葉を取り合う、どろどろの三角関係を熱演させられた。
体外、俺が二葉に捨てられていた。
もしかすると俺の一人好きは、二葉の長きに渡る独裁体制が目覚めさせたのかもしれない。恩に切るべきなのか。
「いや、マジでお前のことじゃないんだ。読んでた小説の清楚で奔放なヒロインが、実は男癖の悪い淫靡な奴で驚いたんだ。……だからその手に持ってるもんを下ろしてくれ」
「ふうん。そう」
二葉はそう吐き捨てながら、半ば振り下ろしそうになっていた竹刀を収める。本気でぶつつもりだったのか……。
「まあ、別にいいけど」
「いいのかよ……」
「性根の腐ったあんたのことだし、どうせそんなことだろうと思ったわよ」
だったら先刻の鋭い眼光は何に対してのものか。
二葉はふんっと、鼻を鳴らし、慣れた手付きで竹刀を入れ、竹刀袋を縛った。
「腐ってるのは『俺らは友達だ』とか言って周りで戯れてる奴らだ。自分に向けられている笑顔が偽物だと知らない哀れなお人達だ」
「その批判的な思考はいつになったら直るのよ」
二葉は蟀谷を抑えて呆れ返る。
やはり発端はおままごとなのか、俺の『友達をつくらない系人間』の指針に負い目を感じているらしく、会う度に気立てを矯正しようと口を挟んでくるのだ。はっきり言って、余計なお世話でしかないのだが。
俺からすれば、学年は同じでも壁を一枚隔てた姉のような存在だ。俺の人生観を知っている分、他人より気安く反論できる。
「実用的と言ってもらいたい。友達みたいな人間関係は全ての妨げになる。必要と言うのなら社会人なってからだ。自分の立場を理解し、献身的かつ、柔軟に業務をこせれば信用なんて簡単に得られる。まあ上司と部下の関係だけどな」
「若干17歳が偉そうに熱弁してんじゃないわよ。そのための学校でしょうが。最初から閉鎖的になってちゃ仕事で実践できないわよ」
「そんなことはない」
口籠る俺を気にもとめず、二葉は続ける。
「じゃああたしが上司だとしよう」
「……はあ?」
「新月、この資料を明日の会議までに部署の人数分コピーして皆に配ってくれないか?」
「嫌です。自分でやって下さい」
「言わんこっちゃない」
してやったり顔で微笑する二葉に俺は顔をしかめながら開口した。
「俺は助言のつもりで言った。部下に仕事を押し付ける上司は遅かれ早かれ周囲からの信頼を失う。自分の首を締める行為を俺は事前に防いだんだ」
だから的確な対応だ。俺ほど親切な部下はいない。と解説すると、二葉は肩を戦慄かせて俺を小突いた。
「屁理屈言ってんじゃないわよ。そういうのを直せって言ってんのよ!」
想像以上の腕力に我知らずその場で呻き声を上げてしまう。
一体今の対応のどこに不備が合ったのだろう。ううん、わからん。
「痛い」
「自業自得よ」
これ見よがしに嘆息した二葉は、スカートのポケットから『必勝』の文字が刻まれたライトブルーのスマホを取り出して時刻を確認する。
話題や行動を帰結させるために切り出す初動。
よくあるこういうの。友達同士の会話が冷めて気まずい空気になると、決まって誰かが時計を見て時間を確認する演技をし、「いけない! もうこんな時間! 私用事頼まれてるんだった!」とか言って重苦しい空間から逃走する常套手段。
この見苦しい場面に遭遇すると、俺はいつも隠れて嘲笑っていた。もちろん蚊帳の外から見てだ。
しかし二葉の場合は違った。
「丁度よかった。新月、この後ちょっと私に付き合いなさい」
「? 丁度ってなにが?」
別れとばかり思っていた俺は虚を衝かれて、そう疑問符を投げかけた。
心なし二葉は頬をピンクに染め、早口になる。なんか目も少し泳いでいる。
「な、なんでもいいでしょ! か、買い物よ買い物!」
「やだよ。一人で行けばいいだろ。俺は家に帰る」
「いいから!! 嫌と言っても連れて行く!!」
「うぉ!?」
右手で勢いよく袖を掴まれ、俺は無駄に早い二葉の歩調に足をとられた。
明日は祝日だ。家に帰ってゆっくり計画を組みたいのに。
「おまっ、部活は!」
「今日は休み!」
二葉は掴んだ俺の裾を勢いよく手前に引っ張る。俺は反動で転けそうになるのを踏ん張って堪えた。
「っぶねえ! 逆ギレか! 俺がなにしたっていうんだ!?」
全くもってどいつもこいつも俺の意見を尊重しないな……。行動力の化身共め。
二葉の、有言実行を絵に描いたような性格に、俺は度々立てた予定を崩される。
人生、計画通りに行かないといえばそれまでだが、行動を予測し備えても、家が真横じゃ防ぎようがない。
どうやら二葉は俺を離す気はないらしい。
どうせ逃げられないと悟った俺は、仕方なく折れることにした。その方が、ごねる時間も短縮でき、円滑に買い物を済ませられる。
「わかった! わかったから袖を引っ張るな! 付き合うから!」
後文を聞いた直後に二葉が脚を止めた。急に止まるもんだから俺は静止できずに二葉の背面に頭突きをお見舞いしてしまう。
二葉は予想外の衝撃を受けて思わず手を離す。
おっ痛がってるぞ。これは不幸中の幸い。ざまあ見――。
「うぶっ!」
二葉は仕返しとばかりにローキックを炸裂させて、倒れた俺を見下ろす形で話を進める。
「じゃあ私、部室に用あるから先に裏門で待ってて」
「トイレにでも行くのか?」
「違うわよ。新調した竹刀を部室に置きに行くの」
「ああ。そうか。そういうことなら」
俺は頷き、互いに背を見せて反対方向へと歩き出した。
一瞬、このままばっくれてやろうと考えた。
でもまあ。どうせ皺寄せがきて、倍苦心するだろう。無抵抗でいよう。
二葉の執着心は存外に深いから、ロープで逆さに吊られて竹刀で滅多打ちにされないとも言い切れない。
しかし、背筋が凍る感覚と並行して既視感を覚え、俺は二葉を顧みた。
「おい二葉!」
「? なに?」
「まさかお前もすっぽかしたりしないだろうな」
昨日のことがあるからな。つい釘を打ちたくなってしまった。
「……あんたと違っておざなりにしないわよ。そっちこそ、ちゃんと待ってなよ。逃げたら命はないから」
「……当たり前だ」
なにか勘違いをしているようだが、俺を見下してることに変わりはない。
俺の人生を乱用されてる気分で心底酷な扱いだった。
……言い返しても仕方がない。
俺は腹を据えて待つことにした。
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