磐城平城を巡る戦い
六月二十九日の戦いに際しては、列藩同盟側も非常に危機感を持っていた様で、
さて、
湯長谷城や泉城に比べれば遥かに堅牢な磐城平城へと新政府軍が再び兵を進めたのは、七月一日の事であった。小名浜を落とした薩摩藩と大村藩が、佐土原藩や岡山藩と連携を取らずに進軍を開始したのである。連携を取らなかったのは、やはり勝利を重ねすぎて慢心があったのだろうか。或いは、棚倉城を板垣隊が落とした事で、平潟勢には競争心でも芽生えていたのかも知れない。
朝方、六つ半 (現代の七時頃)を回った頃合いに新政府軍は山を抜けて平城より南の谷川瀬に侵入を果たした。だが、これまでの戦いとは較べようもない猛攻が新政府軍を待っていた。磐城平の南西、城下への西の入り口であった長橋が二十九日の激戦区であった。この橋を越えられると磐城平城まで阻むものは何もない。西の湯本方面から来た岡山藩や佐土原藩が目指すのは当然であり、防衛もそこに主眼が置かれたのは当然であった。その二十九日の戦いで中村茂平らが慌てて老公を退避させたのも、新政府軍が長橋を突破したと言う誤報が駆けまわった為だ。
薩摩藩、大村藩からなる新政府軍も当然この長橋を狙った。だが、谷川瀬からならば東側の城下への入り口である新田橋の方がはるかに近い。そこで隊を二手に分けて攻勢に出たのである。だが、彼らの思惑は外れた。新川を越える事が出来ない。降り注ぐ六斤砲の砲弾、列藩同盟側の放つ弾雨。これまでに比べるべくもない抵抗にあった。その抵抗の要の一つに米沢藩の三小隊がある。この約百三十名ほどの兵士達は後装式(こうそうしき)、の銃で武装しており、非常に高い火力を有していた。その火力が新政府軍の足を止める。
谷川瀬に新政府軍到来の報告を聞けば、長橋より西の小高い山である
こうなると新政府軍は迂闊に動けず足を止めて銃撃戦を行うより無かった。連戦連勝自体は悪い事ではない。だが、連戦すれば疲労は溜り弾薬の備蓄も減って居るのだ。そこに来て消耗を強いるような戦いに出くわせば、どうしようもない。それでも、精強な新政府軍。彼等の反撃も生半可な物ではなく、米沢藩の小隊長である
この様に全くの無傷とはいかなかった。だが、それだけに列藩同盟の戦意は高かった。これまでの雪辱を晴らせるかと言う段階になればなおさらだ。小隊長を一人亡くした米沢藩の部隊は戦意衰えず、それ所か長橋を渡って、新政府軍の背後に回り込んで攻撃を加えたのだ。こうなれば、如何に精強な部隊と言えども退かねば被害を増すばかり。城の守りの堅牢さを肌で感じ取った薩摩藩や大村藩は、日没前に撤退を始めた。
二度にわたる攻勢に失敗した新政府軍は、己の中にあった慢心を改める必要があった。武器弾薬の補充は勿論の事、各藩の連携を密にとることを確認し合い、そして、援軍の要請までを行った。援軍の到着や全軍の引き締めに時間を取る事に決めた彼等を尻目に、列藩同盟は平と小名浜の中間地点である鹿島の七本松と言う場所に砲陣を築き上げた。これが防衛の要となる筈であった。
だが、この砲陣は七月十日に潰される事になる。小名浜から迫る新政府軍を迎え撃つはずだった砲陣。だが、背後に回る道筋を知る者が新政府軍に手引きした為に、然したる効力を発揮できずに潰される事になった。背後に回る道筋を知る者とは地元民の他ならない。小名浜の目明し役であった若松鉄五郎、誠三郎親子が偵知の役割を担ったのだ。仙台藩により石炭を燃やされた小名浜の者が。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます