新政府軍の猛攻

 六月二十四日、相馬中村そうまなかむら藩より援軍が平城に入城する。援軍の動きはそれだけにとどまらなかった。仙台藩や米沢藩よりも援軍到来の動きが見られようとしていたその日。今は会津藩を始めとした列藩同盟が抑えている白河城の支城、棚倉城が落城した。


 これにより新政府軍は、各地奪還の動きを見せる列藩同盟の兵を凌ぎながら攻勢の準備を進める。平潟の新政府軍とてそれは同様で、彼等は二十七日の軍議で、以下の構成で磐城平いわきたいらを抜ける算段を整えた。それは、複数の藩単位で三つの軍団に分かれて進むと言う物だった。一つは海岸道を通り泉藩を攻撃する部隊。一つは本街道を通り、湯長谷藩を攻撃する部隊。そして最後は、補給物資が到着する平潟の守備。


 海岸道を進む部隊は薩摩藩、岡山藩、大村藩からなり、本街道を進む部隊は柳河藩、佐土原さどわら藩が担当した。平潟を守るのは柳河藩の半小隊と第三陣で到着予定の常陸笠間ひたちかさま藩と言う構成だ。この三つの軍で翌日二十八日に攻勢を掛ける事を取り決めたのだ。


 そして、日が明け28日。平潟から関田、植田へと進軍した新政府軍は、当初の予定通り海岸道を行く部隊と、山道である本街道を行く部隊に分かれた。泉藩攻略に向かった薩摩藩の私領二番隊が先鋒となり海岸道を通っていると、先に放っていた斥候より泉と植田の間にある黒須野くろすの七回ななまわりと言う場所に砲台があると知る。そこで彼等は得意とする戦法を用いて砲台を沈黙させた。隊を二つに分けて一方を絡め手の兵としたのだ。この戦いはあっと言う間に終わった。同じ薩摩藩の私領一番隊が、二番隊が敵砲台を交戦の報告を聞き、急ぎ駆け付けた時には終わっていたのだから。


 この様に、新政府軍の猛攻は破竹の勢いと呼べた。泉近くの剣浜でも列藩同盟軍を破り、何と午前中には泉城に迫ったのだ。彼等が泉城に辿り着くと、門は硬く閉ざされているが、攻撃してくる気配も無かった。鉄格子を破り、兵を中に忍び込ませ門を開かせると、そこは無人だった。用意周到な逃走は打ち捨てられた弾薬や食料から明白であり、どうやら新政府軍の勢いに怖気ついたようだった。しかし、他愛も無いと慢心する事も無く、薩摩藩は新田坂の方より激しい銃声が響く事に気付き、然程休むことなく行軍を開始した。


 新田坂には、林忠崇はやしただたかが仙台藩らと共に詰めていた。迫るのは佐土原藩と柳河藩。忠崇は一本の松に身を隠しながら銃撃を加える。暫く時が過ぎると、僅かに敵の攻勢が緩んだように感じた。はっきり言えば、まだ撤退する筈はない。


「回り込む気だ! 道の左右に分かれろ!」


 忠崇の指示が飛び、兵が道の左右に分かれ臥せながら銃撃を加える。砲声が鳴り響き、銃声は絶え間が無い。暫く打ち合っていると、敵の攻勢が一気に強まったことを感じた。


(おかしい……何が起きた?)


 周囲の状況を探らせると、既に仙台藩が撤退して居た事が分かった。新田坂の西の入り口まで下がっているらしい。


「孤立したか……」


 呻くと同時に退く算段を始めた忠崇に、突如背後から銃声が響く。仙台藩が下がらざる得なかった理由の一つが、牙を剥いて襲い掛かって来た。薩摩藩私領一番である。最早逃げ場なし、そう悟った忠崇は、兵に各自、伏せるように命じた。抵抗が無くなれば、攻撃は止み、新政府軍は湯長谷へと向かう。こうして新政府軍をやり過ごす事に成功した忠崇だが、無事に磐城平城まで戻るのには丸一日掛かったと言う。



 連敗続きの列藩同盟だったが、この二八日には中ノ作に仙台藩から援軍が蒸気船とともに訪れた。仙台藩の大隊長である富田小五郎とみたこごろうや参謀の安田竹之助やすだたけのすけ等である。彼等の到来の報告を受け、最も喜んだのは先に磐城入りをしていた仙台藩の参謀、古田山三郎ふるたやまさぶろうである。泉陥落の報を受けて、起死回生を図るべく、富田等がいる中ノ作へと向かい古田は軍議を始めた。


「泉城より敵は北進しようとしている。磐城平より私が、あなた方は東の小名浜から共に兵を出し、挟み撃ちにしようではないか」


 富田等にとっても否を言うような作戦では無かった。二九日にこの作戦は敢行される事になった。


 さて、仙台よりの増援以上に新政府軍を驚かせた自体があった。それは、増援の兵を運んだ仙台藩所属の蒸気船により齎された。軍船であれば当然砲を積んでおり、兵を中ノ作に降ろした船はそのまま南下して、二八日の夜に平潟に砲撃を加えたのである。どれ程成果が出たかは不明だが、これが新政府軍の平潟勢を驚かせたのだ。


「揚陸されて居たら、補給路を潰される所であった」

「守備の殆どが常陸笠間藩の者達の予定……これでは手薄だ」


 平潟の参謀たちはそう囁き合った事だろう。常陸笠間藩は元より新政府軍に与していたが、幕府側に散々にやられている経験がある。急ぎ兵器の近代化に励むも小藩の悲しさ、財政に見合った分しか調達できておらず、未だに鎧武者が戦列に混じっていたと言う。まず間違いなく二九日には彼等が着陣するが、これでは心許ないと柳河藩の部隊に平潟への帰還命令が出た。


 しかし、佐土原藩だけで湯長屋攻撃を行う訳にも行かず、海岸道を進軍していた部隊から岡山藩の部隊が湯長谷攻略に割り振られた。もし、古田の読みが当たり、兵数を減らした泉攻略部隊が北上していれば、この戦いはどう転んだか分からない。だが、事態はそうはならなかったのである。



 翌日の六月二九日、明けの六つ時 (朝六時)が迫ろうかと言う時刻より小名浜で戦いが始まる。古田の予想に反して、泉城を落とした新政府軍は先に小名浜を抑えようとしたのだ。

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