♦︎4
自分を呼ぶ声が、確かに聞こえた。
廊下の先にある部屋から明かりが漏れているが、その部分が不自然だ。何かが部屋の前にあるのか、一部分だけ黒くなっている。
その正体を確かめる為に近づくと、そこから声が発せられていることに気づいた。
「ケイト……」
「貴方、もしかして」
どうしてそんな煙のようになってしまったのかは分からないけど、その可能性しかなかった。
「一体何があったの」
「ケイト……」
「どうしてそんなに……」
悲しそうな声で私を呼ぶの?
「寂しいの? でも貴方、シンクを連れていっちゃったでしょう。まだ足りないの? シンクを返して、こっちに来ればいいじゃない。襲わなきゃ、みんな受け入れてくれるわよ」
多分ね。
何を話しかけても、名前を呼ぶだけだ。言葉を忘れてしまったのか、それしか言えない呪いにかかったのか。
もう少し近づいても、ただの黒い煙だった。それが人間程のサイズになり、揺らめいている。
「呪いかしら、誰かの」
引き返そうとすると、腕を掴まれた。煙のはずなのに、がっちりと力が込められている。ちょうど人の体温程の熱さも感じた。
「なに、離して!」
シンクもこんな風に引き込まれたのだろうか。確かにこれは、戻ってこられそうにない。
「嫌よ、私はそっちへ行かないわ。貴方は可哀想だけど、もっと大事にすべき存在がいるの」
「ケイト……」
「そんな声で呼んだってダメ……っ」
「ケイト、君は優しい子のはずだよ」
突然喋り出した声に、思わず体が止まってしまった。
「君は私を、誰も否定しない。慈愛に満ちた子。美しい子。母の役割を持った子」
「……黙って。何を言われたって私は」
「女の子にしても良かったんだけど、少年だからこそのアンバランスさがあるだろう? それにより、君の魅力はより引き立つわけだ。もっと華奢に作ることもできたが、あえてその骨格にしたんだよ」
まるで私の体が、貴方によって作られたかのような言い方。
「不快だわ。その口を閉じて」
「そのせいかな、思ったよりも少年らしさが残っちゃった」
引っ叩きたくなったが、腕を振り上げたところで空気を殴るようなものだ。呆れて、黒い煙が巻きついた腕を眺める。どうしよう。逃げなくちゃ。どうやって。誰かここに来て。誰でもいいから。
「お喋りな女の子みたいで、綺麗なもの、可愛いものが好きな、優しく、器用な子……それが私の決めた性格。そこまでは台本通り。君のそれからが見たかった。シンクにも伝えたことだが、君達は想像を超えてくれない……つまらない」
「神様にでもなったつもり? 傲慢だわ。貴方はただ私達をここへ呼んで、名前を決めさせて、しばらくここで生活するように言っただけ。それをどうしてそんな風に言えるのかしら」
「だから、見ることにした。この世界でしかできないことを」
会話が噛み合っていない。なんとなく空気が変わった気がして逃げようとしたけど、やはり離せない。
「嫌、離して!」
部屋に連れ込まれ、勝手に扉が閉まった。
「シンクから良いものをもらった。今度はこっちを試してみようか」
何かが突き刺さった。お腹に鋭いもの……ナイフが。
「もっと深く……奥まで」
面白いほど流れていく血を眺めていると、力が抜けてきた。床に倒れて、上を見上げる。
「これは……素晴らしい。熱い、こんなに沢山の血が! ああ、溺れそうだ……ほら、見てごらん。こんなものが君の中に詰まっていた! どんな宝石よりも美しいよ……君の生きている証だ!」
内臓のようなものを持ち上げて、顔の前に近づけてきた。ピクピクと動くそれは、本当に私の中に詰まっていたものなのだろうか。
「ケイト、今までで一番綺麗だ。そうだよ、そういう君が見たかったんだ!」
綺麗なの? 今の私は……。
「ねぇケイト、答えは見つかったかい? 愛か、美か」
手を伸ばすと、赤に染まっていた。それはまるでドレスをまとっているかのようで、美しいと感じた。
この手を取ってほしかった、貴方に。
「大丈夫、私は……愛も、美しさも、知っているわ……。先生が、教えてくれた、もの……」
貴方と踊った時、私は幸せだったわ。愛に包まれている感じがしたの。
ねぇ、そうでしょう先生? 私覚えているのよ。
君の瞳にぴったりな髪を見つけたって、嬉しそうに笑っていた日のことを。
【fate】
「そろそろ限界が来る頃だろうか」
「いや、まだ大丈夫だ。誤魔化せている。異変は起こっていない」
「少し乱れた時もあったようだけど、今は落ち着いている」
「だけど……あの件は見過ごせないよね」
「まぁ止めるのは難しいと思っていたけど。でも、あれは彼ではないから。自覚がないなら平気だろう」
「しかしこれ以上減ると……さすがに不安定になってくるかも。追い詰めてしまうタイプに見える」
「僕らが誤魔化すしかない」
「しかしそれも、決まっている出来事だったら」
「今、君達は自分の頭で考えているだろう? 彼の為、みんなの為。それって嘘なのかな。感情がないだなんて、言えないだろう?」
「どうすればいいのか、お互いに考えている。この気持ちが嘘だなんて、思いたくない」
「……分かったよ。ぐちゃぐちゃでも、他の奴から見たら滑稽でも、最後まで踊ってやろうぜ。美しいだけの存在じゃないって分かったら、あいつへの復讐になる」
「僕らにできることは初めから決まっている。あの人の願いを叶える、それだけだ。でもそれは、僕らの望みでもある。だから、頑張るんだ。頑張るしかない。終わらせない為に」
「貴方を一人にしない為に」
「僕らは死なない」
【scar】
腕を思いっきり振っても、傷一つつかない。体は簡単に吹っ飛び、おもちゃのように壁に当たる。
「中途半端だ」
自分がどちら側か分かっていないのだろう。だから壊れない。傷もつかない。
「痛いと言ってみろ。やめてと泣き叫べ! お前は……っ、痛がってすらいない」
痛みを知らないから。どんなものなのか、分からないから。
「知っているつもり……、それ以上のことはできない」
それでも可能性を信じて腕を振り続ける。
「どうして、苦しそうにしない! 普通は、本来なら怯えたように体を守って、やめてくれと懇願するんだよ。お前は何も……抵抗すらしないじゃないか! ここにいるんだろう? それも理解しているんだろう!」
どれだけ殴ったところで、皮膚の色は変化しない。血も出ない。顔も歪まないし、歯も折れない。
「人なら痛がって傷がつく。今頃その頰は涙に濡れているはずだ。人じゃないというなら、壊れるはずだ。ボロボロに。どっちつかずだから、そんなことになっている。選べ、ナイン。自分を捨てるか、保つのか」
これは君なりの復讐か? それとも覚悟か?
「分かるだろう? 君が本当に望んでいるのだとしたら、君は泣き叫ばなければならない。痛がって、血を流さないといけない」
腹を踏んづけたところで、声すら上がらない。
「君が認めたのだとしたら、壊れなければいけない。割れて、空洞の中身を晒すのだ。そのどちらでもないということは、君の中に正義なんかありはしない。ただのワガママだ。どっちにもなりたくなくて、どっちにもなれないなんて……哀れだよ、ナイン」
何も映していない瞳がこちらを向いた。
「せ、んせぇ……」
振り返ったが、誰かがいる様子はない。
「演じるというのか、あくまで彼の生徒を」
「僕は、ここに……います、から。……どっちでも、ない、バケモノになったとしても……貴方といる、世界を選ぶ、から」
「……哀れだ、本当に……っ」
そんなもの、私が望んでいるわけがない。こんなことを言わせてまで、愛されたいか。
「……悪いことじゃない。幸せを望んで、何が悪い」
「ナイン……」
「こんな状況になってまで悩むなんて、貴方は優しい人ですね。とっても可哀想だ。もっと簡単に望むことができれば良かったのに、それができないからこんな……こんな、世界を」
ナインの首を絞めたが、それが何の意味もないことには気づいていた。
「ごめんね、先生。死んであげられなくて」
いつまでも、ナインは傷つかないままだった。
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