第135話 ego


 エテメン・アンキ攻略から一ヶ月ほどが経過すると迷宮統括委員会(ギルド)によってエテメン・アンキの入り口に入場ゲートが設置され、探検者カードを感知する機材が取り付けられた。これにより予め入場を申請せずとも何時誰がゲートを潜ったかがわかるようになった。入場料はこれをもとに探検者カードと一体となっている口座から自動引き落としで徴収され、俺の、延いてはクラン・ログハウスの懐が潤うのだ。すばらしい。


 そして件の海外勢だが、案の定北の国の精鋭だったようだ。地上では威嚇的な行動をしていたが、ダンジョン内でエテメン・アンキに辿り着いたその人たちはとても礼儀正しく、マグナカフェやマグナダンジョンからの入り口を警備している自衛隊員たちと良好なファーストコンタクトを果たし、その後も問題も起こさずエテメン・アンキの近くに拠点を置いている。


 さて、その北の国の精鋭たちだが、日本の探検者カードのようなものは持っていないことから迷宮統括委員会(ギルド)が入場料を取り立てることができないはずである。しかし実際はしっかりと入場料をもらっている。それというのも、軍曹が仲介となることで入場の度に料金を支払ってもらっているからだ。暴力に訴えてくるのではと予想していたのだが平和的にエテメン・アンキをご利用くださっているようでこちらとしてもとてもありがたいと思っている。最も疑っていたエアリスは「ヒトとは腐っているモノと思っていましたが、腐っていたのはワタシのようです」と言っていた。疑いたくなる気持ちもわかるが、疑ってばかりではだめなのだ。


 続いて大陸の国からも20層到達者が現れ、こちらとも比較的友好的な関係を築いているが、北の国とは違い怪しい動きが目立っているのでエアリスが監視の目を光らせている。それによると、定期的にメンバーが入れ替わるようにしているらしい。ダンジョン内で問題のありそうな発言はあまりないことも加味すると、入れ替わり地上へと戻った者が調査結果をその都度報告しているのだろう。俺としては、お国の命令とかで仕方なくスパイに近い事をしているのかもしれないと思い、誰かを危険に晒すような事をしないならば基本的に放置しようと思っている。やんちゃをするやつがいた場合? それはもうしっかりお仕置きしないとな。俺の平穏に障る。


ーー マスターはすっかりダンジョンの主(ぬし)ですね ーー


 「住んでるわけだしな。自分がいる場所が荒らされるのはさすがにな」


ーー そういえばマスター、覚えているかはわかりませんが、以前20層の地中の奥深くに禍々しい気配を感じたことがありましたよね? ーー


 「そんなこともあったな。結局あれっきりだけど」


ーー それがですね……海外勢が20層へ到達した頃から、ざわざわしています ーー


 「ざわざわ? 俺にはわからないな。エアリスが辛うじて感知できる程度ってことか。ざわ…ざわ……って感じか?」


ーー もう少し勢いがありますね。ぞわ……ぞぞぞぞぞわわ〜、といった感じです ーー


 「うむ、さっぱりわからん。んでそれが何?」


ーー いえ、何というわけではないのですが、もしかしたらという仮説が浮かびまして ーー


 「仮説ねぇ。どんな?」


ーー もしかすると、アレはダンジョンの免疫機能と言えるモノかもしれません ーー


 「免疫……ダンジョンって生き物なのか?」


ーー どうでしょう。しかしそうであれば地上にあってダンジョンにないものに対して何かあるのかもしれません ーー


 「海外勢の何に反応したのか気になるな」


ーー 以前フェリシアがダンジョンに禁則事項があるような事を仄めかしていましたが、それに触れるような何かを持ち込んだ、またはその疑いがあったという事でしょうか ーー


 「それなら俺たちも疑いくらいかけられてた事になる。実際20層に来て間もない頃に感知できたことがそういうことだろ?」


ーー はい。しかしそれからは何もありませんでした。しかし今は微小ながら継続しています ーー


 「海外勢が持ち込んだなにかがあるかもしれない、と?」


ーー はい。確認はしていませんが、可能性のあるものの目星はついています ーー


 それから俺とエアリスはその件も含めた話、ほぼ雑談をしながら喫茶店兼休憩所の建築をしていた。建築といってもログハウスの時と同じく能力を使って森から切り出した材料をミニチュア化し組み立て作業をしているだけだ。よって大きな重機など必要はなく、建築の知識はエアリスがネットの海から拾ってくる。建築士の資格はないが、ダンジョン内なので大目に見てもらおう。それに実際ログハウスは安全性に問題がないし、それよりもだいぶ大きくなる予定の建物とはいえなんとかなるだろう。


 21層の森の中、必要に応じて木を伐採しながらの作業を中断させたのは腹の虫だった。休憩することにした俺は今朝出かける時に悠里から持たされた弁当を取り出し、さくらが淹れてくれた紅茶も取り出す。こういう時に中身がほぼ劣化しない保存袋は便利だ。


 「ところで21層を探さないんだな、海外勢」


ーー 20層が広大な事は開示された情報により把握済みでしょう。ミスリルのような資源を主とした調査は尽きないでしょうし、本来であれば20層を実行支配し領土宣言でもしたいのでしょうが、それも不可能でしょう。さらにエテメン・アンキからの収穫もあることに加え、どうやら軍曹からの入れ知恵をされているようです ーー


 「入れ知恵? 21層に関して?」


ーー はい。21層に悪心を持って踏み入れば、超常の存在に粛清される、と ーー


 「初耳。そんなのがいたのか?」


ーー マスターの事かと ーー


 「あっ、そなの。でもそもそも海外勢がここに来たってことは、日本のダンジョンにいるカミノミツカイよりも超常かもしれない存在を乗り越えてきたってことだろ? 軍曹が言って素直に聞くもんかねぇ」


ーー それが、北の国チームのリーダーや大陸の国チームのリーダーよりも軍曹は強いらしく。以前軍曹のステータスを底上げしましたが、その時点よりもだいぶ強くなっているようです。そこにあの戦闘技術が加わるわけです。さすがレンジャー部隊出身ということもあり、モンスターよりも人間を相手にする方が本領を発揮するようですし、説得力はあるのでしょう ーー


 「幻層で軍曹のコピーと対峙したけど、たしかにステータスが同じなら勝てる確信は持てないような気はした。ってかもしかして海外勢がおとなしいのって軍曹が筋肉で解決してたとか?」


ーー それもあるかもしれませんね。筋肉は嘘をつかないという言葉は本当だったのかもしれません ーー


 斯くして俺は初めてマグナカフェへやってきた際に軍曹を強化しておいてよかったと思ったのだった。その脳裏では軍曹がボディービルダーのようにポージングしていた。


 「ある意味無法地帯なわけだし、そういう解決もありなのかもしれん」


ーー むしろ最良とも言えます。ところでマスター、ついつい覗いてしまった手前こんなことを言うのは申し訳ないのですが、軍曹がサイド・チェストをキメる姿を見せないでいただけますか? 趣味ではないので ーー


 「頭を覗くのが悪い」


ーー とはいえマスターの脳内に存在しているようなものですし。それに件の進化があってから、覗かなくとも自然と流れ込んでくることが増えたのですよ ーー


 「エアリスは存在自体がほんと謎だな。あ、進化したとかいう俺ももしかしたらそのカテゴリーなのか。でもこれといって変わったところは無いように思えるしなぁ。まぁとりあえず軍曹の筋肉には感謝しておこうぜ」


ーー 仕方ありませんね。ゴリマッチョは趣味ではありませんが、今回ばかりは成果もあることですし。南無ー ーー


 そうして俺は軍曹の筋肉に心の中で敬礼した。エアリスのはちょっと違うが、まぁいいだろう。



 「悠人さんっ! 休憩中ですか?」


 「あっ、香織ちゃん。お腹すいちゃったし時間もちょうどいいからさ」


 「こちらも喫茶店の候補地、見てきましたよ。ずっと歩きっぱなしだったので疲れました」


 「ご苦労様です。モンスターとか大丈夫だった?」


 「それは問題ありませんよ〜。チビが一緒ですし」


 「わふんっ」


 「チビもご苦労さん。よし、特製の干し肉をやろう」


 休憩中の俺に忍び寄って背後から声をかけてきたのはどこぞの探検家のような格好をした香織だ。驚かそうとしてこっそりと近付いてきていたようだが、普通に気付いていた俺は先に声をかけようとした。しかしエアリスが言うには「気付かないフリをするのも気遣い」などと人間らしいことを言い、それに従ったのだ。声を掛けてきた香織に対し平然と返事をした俺に「少しは驚いたフリくらいするものかと」とエアリスは言っていた。

 香織は喫茶店を建てる候補地を探してチビを伴い森中を歩き回っていたようで靴が汚れている。スニーカーのようにも見えるが、アプローチシューズというカテゴリーらしい。どこにいくにも歩きやすいのだとか。


ーー 一応マスターの靴もそのカテゴリーなんですがねぇ ーー


 「え? そうなの? オフロードでも歩きやすいようにエアリスが改造したスニーカーかと思ってた」


ーー 元々そういった類の靴ですが、間違いではありませんよ。戦闘に重きを置いてはいますが、どこでも歩きにくかったことがないでしょう? ーー


 「うん。エアリスの趣味で普通の靴をぼっこぼこに改造したおかげかと思ってた」


ーー はい、それは間違いではありませんね。ぼっこぼこに改造した過程で原型は見る影もありませんが。そのかわりに利便性と耐久性、それに攻撃力もなかなかのものかと ーー


 「たしかにたしか……に? ちょっとまて。攻撃力?」


ーー あっ、そういえばまだ攻撃に使用したことはありませんでしたね。これはうっかりです ーー


 「一体靴に何を仕込んだんだよ……」



 お昼休憩の後、中断していた作業を再開した。とはいえ主要な建屋はある程度できあがっているし、あとは実際に建てる場所を選んでからだ。よって必要があれば部屋を追加することもあるかもしれないと思いそれを作ったのだった。


 昔、父親に強請ってログハウスの模型を買ってもらったことがあった。当時の自分の指と同じくらいの太さの、似たような丸太が部品としてたくさんありなかなか完成できずにいた。見かねた父親が手伝ってくれたのだが、日に日に父親の方が夢中になっていたものだ。その様子を俺は楽しく見ていた。その模型は今も実家の部屋に飾ってある。

 指サイズに小型化した丸太を俺は組み立てていく。子供の時分に俺の代わりに組み立てていた父親が夢中になった気持ちに共感を覚えていた。現在俺たちが住んでいるログハウスを組み立てていた時にも増して、今度は自分で、自分たちのログハウスを組み立てているという実感が湧き、自然と頬が緩む。


 しばらくすると組み立て作業に夢中になっている俺にエアリスが話しかけてくる。それには香織も反応していたのだが……エアリスの声は聞こえないはずでは? と思っていた。


ーー あのぉ、マスター? ーー


 「ん〜? どした〜?」


ーー 香織様も聴こえていらっしゃいますか? ーー


 「聞こえてるよ?」


ーー と、言うわけなのです ーー


 「あぁ……フェリの力を借りなくても聴こえるようにできるようになったのか」


ーー あまり驚かないんですね? ーー


 「エアリスがする事にいちいち驚いててもなぁ?」


ーー 香織様もさして驚いていませんね? ーー


 「エアリスなら なんでもありかなぁ〜って」


ーー マスターはさすがワタシと二心同体の存在ですね。しかしおそるべきはすぐに慣れてしまう香織様の能力【悟りを追う者】ですか ーー


 「まぁそんなことより、なんか話があったんじゃないのか?」


ーー あっ、そうでしたそうでした。例のざわざわですが、動き出しました ーー


 それを聞いた俺は、かつて20層で感知した地中深くを蠢く気配を幻覚したことで肌が泡立ち、一瞬ではあるが息苦しさを感じ、根源的な恐怖、嫌悪のようなものを強制的に引き出されるような感覚を思い出していた。


 「……そうか」


ーー そうか……で済ませるんですか? ーー


 「え、だってあのやばい気配だろ? あれに関わるのはダメだと本能が言ってる」


ーー ですがそれでは21層の主の名が泣きますよ? マスターの平穏が脅かされるかもしれないのですよ? ーー


 「平穏は大事だけど、そんな名乗りをした覚えはない。それにもし21層の主なら、20層は管轄外だ」


ーー ですがですが ーー


 「……悠人さん、エアリスがなんだか必死に思えるんですが」


 香織の話を聞いてあげてほしいオーラみたいなものを感じ、仕方ないなと心の準備を整える。アレには関わりたいと思わないんだが……隣で袖を摘みこちらに綺麗な瞳を向ける女性がいなければ、話すら聞こうとしなかったかもしれない。


 「……エアリス、ほんとうの理由は?」


ーー えっとですね〜、20層へのアクセス権の一部をですね……得られるかも〜? と思いまして ーー


 「……」


ーー お願いしますぅ……お願いしますぅ……近くに行くだけでいいんですぅ… ーー


 必死に訴えるエアリス、それを援護する香織、どうでもよさそうなチビ。どうやら味方はいないようだ。


 「……はぁ、様子見に行くだけだぞ?」


ーー はい! 是非に! ーー


 結局、エアリスの私欲のために、かつて20層の地中深くに感じたおぞましい気配を持つナニカへと向かうことになった。

 すぐに現場に行きたいというエアリスによって転移させられた俺、訓練と称して自らの能力で俺の転移をコピーし、しかもなぜか場所も正確に捉え付いて来た香織、首輪に付与された能力を使い俺の元へと転移してきたチビは小高い丘のようになっている場所から遠巻きにそれを目撃した。

 そこでは北の国の軍服のようなものを着た集団が車両に積まれた近代兵器と思しきものを守るように銃器やロケットランチャーを持ち周囲を囲んでいた。

 その集団の正面二百メートルほどの地面から、コールタールのようにドロドロとしており、明らかに粘性を持つ真っ黒な液体がゆっくりと湧き出ていた。その粘液はある程度の距離まで地を這うと、車両を中心に周囲を囲うように円形に伸びている。それにより北の国の車両はすっかり包囲された形となっていた。


 「遠くてよく見えないんですが、なにか石油? みたいなのが湧いてるんでしょうか?」


 「うん、ドロドロしてるのが湧き出てるよ。それが伸びて北の国の車両を囲んでるね」


 「そうなんですね。なんだか気配を感じてるだけでも気分が悪くなってきますね……」


 どうやら香織は以前の俺と同じように気分が悪くなっているようだ。俺はというと、以前のように嫌悪感はあまりなく恐怖を感じることもほとんどなかった。チビはいつも通りだった。


ーー 香織様は以前のマスターと同じように嫌悪感を覚えているようですね ーー


 「なんだかすごく気分が……」


ーー ですが、マスターは問題なさそうですね? ーー


 「そうだな。全くないわけじゃないけど、以前みたいにすぐに逃げ出したいほどじゃないな」


ーー やはり進化によってワンランク上の人類的ななにかになったからでしょうか ーー


 「人を正体不明みたいに言うのやめてくれませんかね」


ーー 正体不明であればワタシと同じですね? お似合いカッポーですね? ーー


 「だれが正体不明のお似合いカップルか。アホなこと言ってないでさっさと目的を済ませてくれ」


 言って香織を見ると、明らかに顔色が悪かった。気遣うように寄り添うチビに寄りかかるようにしているが、今にも膝から崩れ落ちそうである。それにしても寄り掛かれるくらい大きくなったんだなぁ、チビは。最初は小型犬サイズだったのに、成長は早いものである。おっとそれどころじゃないな。


ーー ここでは遠すぎますね。もう少し近づきましょう ーー


 「そうは言ってもここから先は遮るものがなにもないし、北の国の人らに気付かれるだろ」


ーー 大丈夫ですって。あの粘液が車両の周囲を囲っているおかげでそれどころではないでしょうし ーー


 「だからって気付かないわけではないだろう」


ーー それならば……ペルソナになれば良いかと ーー


 「あー、それなら……あんまり変わらなくね? ってかあの粘液はなんで直線で向かわないであの車両を囲ってるんだ?」


ーー 遠巻きに観察して危険を察知次第なにかしらの対処をするのかもしれません。アレが免疫であると仮定すればの話ですが ーー


 「そうでなければ、獲物を物色しているとかか? どっちにしても囲まれる前に車両を捨てて逃げればよかったのにな」


ーー それも彼らにとっては難しいのでは? 車両に積まれているものによっては捨てることは難しいでしょうし、それに……あれをご覧ください ーー


 エアリスに促され見ると、車両の周囲に展開していたうちの一人が錯乱していた。数十メートル先の黒い粘液へと銃を構え、雄叫びをあげながら走っていく。至近距離まで近付くと持っていたアサルトライフルを地面の粘液に向けた。その人差し指がトリガーに触れるかという一瞬の間にその男は腹に受けた衝撃によって後方、車両の方へと飛ばされた。

 リーダーと思しき人物から怒声が飛び、一人が救助に向かう。殴り飛ばされた男は半狂乱に見えたが、今は先の衝撃で気を失っているのかぴくりとも動かない。


ーー とまぁあのような感じですね。敵意や害意に対してのツッコミが激しいようです ーー


 「ツッコミってレベルじゃねー……」


ーー あのようなことが数度起きていて、つい今し方気絶した者と同じように気絶した者たちも車両に積まれているようです ーー


 「逃げられない理由のひとつか。ところでエアリスはどうしてそんなことまで知ってるんだ?」


ーー え? 軍曹たちと接触した時点で、彼らの通信機器と持ち込まれたスマートフォンはハッキング済みですのでいつでも遠隔で情報を引き出せますよ? ーー


 「な、なるほどな」


 エアリスはすごいなーと再確認し、そんなことよりもと再度香織へと目をやる。先ほどまでチビに寄りかかっていた香織は、地面に伏せたチビの背中に倒れ込むようにしている。無理せずログハウスに戻るようにやんわりと言うも、大丈夫と返す香織は力ない笑みを浮かべていた。


 その時、どこからともなく『危険を察知』と聴こえた気がした。それに続き『しーるど? にげる? どうする?』と聴こえ、気のせいではないと確信した。


 北の国の車両へ数名が乗り込み残ったメンバーの手には手榴弾、反対の手でピンを抜くと車両前方の粘液へ向けて投擲しすぐに発進した車両の荷台に後方から飛び乗った。車両が粘液へと突っ込むように進み、数度の爆発音が鳴り響く。爆煙と土煙の中から車両が飛び出しそのまま走り去る……かに思えたが、車両はその場に固定されたようになり、四つのタイヤが土煙を上げている。【天眼】で見ると触手のように伸びた黒い粘液が車両に纏わり付いてその進行を阻んでいた。


ーー 早まったことをしましたね。マスター、ご決断を ーー


 「はぁ。じゃあペルソナで。『換装』」


 俺の周囲を一瞬だけエッセンスが渦を巻くと、仮面を着けた黒ずくめの男、ペルソナがそこに立っていた。

 まぁ、俺である。


ーー 換装完了しました。ペルソナといえば海外では日本の守護者と呼ぶ者もいますし、その姿で彼らの前に現れれば話くらいは聞くかと ーー


 「大袈裟すぎるだろ」


ーー 実際日本国内での会談等においてペルソナによる宣誓がなされると、平和的な方向へ話し合いがシフトするという実績が積み上げられていますからね。それにどうやらクラン・ログハウスは世界的にも注目を集めているようですし、ある者は神出鬼没のペルソナをジャパニーズ・ニンジャと言っていますよ ーー


 「ジャパニーズ・ニンジャはちょっと。そういうのは玖内(くない)に任せたい」


 そもそも忍者と言えば日本なのでいちいち“ジャパニーズ”を付ける理由がわからないが、それはまぁいい。俺は肝心な部分を聞き逃さなかった。


 「話くらい聞くだろうってことは、話せと?」


ーー 言語であればマスターが思ったことをワタシが声色を真似た上で同時通訳で発声しますので問題ありません。あとはマスターの演技力次第です ーー


 「そういうことではなく。ってそんな事もできるのか、すげーな。ってそういうことでもなく。さっきは“少し近付け”って言ってたな?」


ーー え、えぇ、まぁ ーー


 「今度はしれっと“海外勢と話せ”って? 結局のところ、あの粘液に触れるところまで行かせようとしてない?」


ーー え…えへへ ーー


 「かわいく言ってもダメ」


ーー 申し訳ありません ーー


 香織をここから離す事が第一に思えるが、目の前で襲われる人たちを見捨てようとした場合、香織は……俺を軽蔑するだろうか。それはなんか……いやだな。かっこつけたいわけじゃないけど、なんか嫌だ。


 「まぁいいや。さっさと済ませろよ?」


ーー わかりました。マスターの演技力に期待します ーー


 転移先は車両前方の上空。そこから翼を展開し羽ばたきながらゆっくりと降下する。実際は羽ばたく必要などないのだが、エアリスが期待すると言った演技を意識していたのかもしれない。

 しかしその効果はあったようで、運転席の男はアクセルを踏むのも忘れ目を丸くしてこちらを見上げていた。隣に座る男も同様で口をパクパクしながらこちらを見上げている。


ーー あ…く…ま…と言っていますね。失礼な人間ですね。消し炭にしてやりましょうか ーー


 (悪魔? まぁ……いきなりこんなのが降ってきたらそう思っても仕方ないかもな。あと消し炭はやめとけ)


 こちらを見る男たちにジェスチャーで降りるよう促す。運転席の男は素直に従ったが、もう一人はブルブルと震えたままこちらを怯えた目で見ていた。


 『も、もしかして貴様は……いや、あなたは、日本の守護神……ペルソナか?』


 エアリスによる通訳で知った内容に、なんとも言えない気持ちになった。仮面を着けていなければ引き攣った顔が見られてしまっていただろう。それにしてもそんなつもりはないのに知られているというのは変な気分だ。


 「守護神かどうかはわからないが、ペルソナで間違いない」


 「そうか! は、初めまして。私はアレクセイ・ザドルノフ。北の国の……日本で言うところのタンケンシャだ」


 車両が黒い粘液に襲われているこの状況で自己紹介できるだけの胆力がある人物らしい。ともあれエアリスの通訳は良好、滞りなく会話ができている。


 「守護神と言っていたが、この姿を見てそんな風に思うのか?」


 「日本の信仰については詳しく知らないが、聞くところによると八百万(やおよろず)の神を信仰していると聞く。どんな姿の神がいてもおかしくはないのだろう」


 「だが、俺はそういった神ではない。ただの人間だ」


 「あ、ああ、そうだな。ダンジョンの影響で神格化した人間というのが俺たちの認識だが……間違っているか?」


 「訳あってこんな姿をしているが、自身としてはただの人間と思っている」


 「普通の……か。しかし光栄だ。ペルソナを名乗る勇気のある者と会えるとは」


 「名乗る勇気? どういうことだ?」


 「日本人は知らないのか? ペルソナという神を」


 「神? そういう神がいたということか」


 「元々いたというよりも人が作り出した概念的な……」


 突然目の前の車両が跳ねるように上下に揺れる。どうやら絡みついている粘液の触手の仕業のようだ。一方アレクセイ・ザドルノフはというと「ペルソナに会えた感動で忘れていた!」と焦った様子だった。変なやつだ。

そして俺には『危険を察知!! 危険を察知!! これ、ばくだん!』という声が大音量で聴こえた。


 (あーうっせぇ! ってかめっちゃ喋るじゃん、粘液!)


ーー そのようですね。知性を兼ね備えた意志ある存在ということでしょうか。それならば話くらいはできそうです ーー


 (それはいいんだけど、やっぱあの車両に積まれてるのはダンジョンにとって良くない物ってことだな。ばくだんっていう単語が聴こえたし)


ーー 透視の結果、形状から……ミサイルのような射出型の兵器かと。ではまず、北の国を説得しましょう ーー


 (任せる)


 男に向き直った“俺”は、本人の意思などお構いなしに交渉を始めた。相手は日本語ではないのだが、俺には自然とその内容が理解できた。


 「あの黒い粘液はその車両に用があるようだな?」


 「そうなのか……?」


 「状況を見る限りそうだろう。現にお前たちに対して自発的になにかしたわけではあるまい」


 「しかし……怪我人も出ている。それに押しつぶされそうな重圧を感じるんだ。こんな重圧はここに来る前に我々をテストした天使……いや、それ以上だ。天使を相手に、我々だけではなにもできなかったがな」


 「ふむ。そこのネバネバが怒っているのは、お前たちが先に手を出したからだろう?」


 「そ、それは……仕方なかったんだ」


 「積荷を守るためには、か? 大方その積荷は化学兵器かミサイルか、そんなところだろう」


 「なぜそれを……いや、さすが日本の守護神というところか。国の命令でこれを護衛するのも任務なんだ。見た事の無い型だが、対戦車用と聞いている」


 見た事ない型、ね。それもそうだろう、だって核ミサイルだもの。対戦車ミサイルなんて教えられて、実際はそんなヤバいものを運ばされてるんだよな。じゃあこの人たちも被害者みたいなもんなんじゃ?

 エアリスはそれに同意し『最大限配慮します』と言った。


 「しかしこのままではお前たち、死ぬぞ? 今はアドレナリンが大量に出ていて自分の体調をしっかり認識できていないだろうが……ほら、そっちに座ってる男は泡を吹いている。このまま放置すれば窒息するだろうな」


 車両の座席に座ったまま泡を吹く様子を確認した男は苦虫を噛み潰したような顔をし逡巡した後、こちらに縋るように目を向け言った。


 「助かる手段があるのか……?」


 「簡単だ。積み荷を捨てればいい。理由は、そうだな……ダンジョンに飲まれたとでも言えばいいだろう」


 「しかしそれでは我々の任務が……上に知られてしまえば処罰も免れない…ッ!」


 「……命とどちらが大切だ?」


 「くっ……」


男はほんの少しの間逡巡したが、動きが活発になる粘体と隊員たちを交互に見る。そして決断した。


 「責任はリーダーの私にある。他のやつらのことは……あなたが証言してくれるならば……』


 「かまわない」


 「わかった。ではすぐに他のメンバーをこちらへ連れてくる」


 男はすぐに座席に座っている男を引きずり出し、次に車両後部に取り付けられた幌を車両側面から切れ味の良さそうなナイフで切り裂いた。そしてそこから数人の男女が姿を現す。


 ずいぶんでかい車だと思ってたけど、“爆弾”の他にもいろいろ積まれてるだろうにあれだけの人数が乗れるのか。


ーー その爆弾とやらは小型ですからね。それに外側は超小型ミサイルですが、実際は設置型のようですので推進力が必要なく、スペースを確保できたのかと ーー


 男が気絶した者も含めた男女七名を連れてくると、入れ違いに俺はその車両へと近付いた。その間も俺には粘体の声が聴こえており、その声は爆弾をどうすれば処理できるかを相談しているかのようだった。


 (ってかなんで粘体の声が聴こえるんだ? こいつもフェリみたいなやつなのか?)


ーー いいえ。ミライちゃんの能力を少し真似てみました ーー


 (エアリスのチートが止まらなすぎていい加減ぶっこわれなんじゃないかって思うんだが)


ーー マスターの能力である“真言”があるからこそできたのですが。……ではマスターもぶっこわれ? ーー


 (いいや、俺は普通)


ーー 普通というのはさすがにありえないかと ーー


 (いいからさっさと済ませてくれ。さすがにちょっと気持ち悪くなってきた)


 以前と違いすぐには気分が悪くはならなかったとはいえ、それでもだんだん気分が悪くなってきた俺に急かされたエアリスは粘体に呼びかける。その呼びかけは北の国の探検者には聴こえていないようだが、粘体には聴こえている。その証拠に困惑したような声が聴こえてくる。


 《え? 話しかけられてる? どうして地上のヒトが? うーん? ちがう、ヒトじゃない。危険な存在……大いなる意志の対存在! “終末の気配”だ!》


ーー 大いなる意志? 彼女なら今はフェリシアと名乗ってワタシと同じところで生活していますが? ーー


 《大いなる意志が? そんなまさか……。僕たち…私たちをここに閉じ込めておいて自分だけ地上に? 嘘ついたの? 裏切ったのか?》


ーー 地上ではなく、このダンジョンの中ですよ。御影悠人様のお側に侍っているのです ーー


 《ええ……あの容赦ない大いなる意志が? ヒトに?》


ーー 疑わしいのであれば直接聞けば良いではないですか。あなたはダンジョンの一部なのでしょう? ーー


 《したくても無理。私は、私たちは大いなる意志に囚われた。場合によっては助けられた。でも彼女に対しての義務はない。それは繋がりがない事を意味する。俺たちは異物を排除しなければならない。それが存在理由なのよ》


ーー それは困りましたね ーー


 《あれ? ちょっとまって。そのヒト、そのヒトがみかげゆうと? そのヒトから大いなる意志を感じる》


 黒い粘液の一部から触手のように伸びたそれが手に触れる。ひんやりとしてぷにぷにとしていて、熱が出た時に額に貼ると冷たくて気持ちいいシートのような感触だ。しかし、言いようのない嫌悪感のようなものは拭いきれない。

 どうやら以前フェリシア、大いなる意志から称号として受け取った“祝福を受けし者”に反応しているらしい。


ーー なるほど。祝福を受けし者という称号は“鍵”だったのですね ーー


 《このヒト、大いなる意志に祝福されてる。“終末の気配”の言った通りみたいだ。じゃあほんとうに大いなる意志となかよし? こいびと? よめ?》


ーー ワタシが第一の妻であればそのどれであっても許容しますが ーー


 《じゃあやっぱり敵同士? でも一緒にいるんでしょ? このヒトがいるから? このヒトを取り合う仲? こいがたき? うわきあいて? ならどっちがうわき? どっちにしてもこのヒトはモテモテ? うらやましい。うらやましい? 私とか私がこんなにたくさんいるのに? 俺とか俺もこんなにたくさんいるのに? おかしいやつだな。おかしなやつね》


ーー もしかしてあなたは……いえ、あなたたちは、元は人間だったのですか? ーー


 《そうかもしれない。どこの誰かはおぼえてないけど。おぼえてるやつもいる。うらやましいのはそういうやつ。でもどこの誰だったかは誰も知らない。知れば今の形を保てないと思うのよね。だからそうなるために必要なだけ、壊された。そして保護された》


ーー なるほど。どうしてこのようになったのですか? ーー


 《たぶんダンジョンでしんだ。そして囚われた。助けられた。消えてなくなるまえに仮初の永遠を得た。いずれほんとうの永遠を得られると大いなる意志は言った。それに縋るしかなかった。それが私。それが俺。僕》


ーー そうなのですか。ところで話は変わるのですが、ダンジョンへのアクセスキーをいただけませんか? ーー


 《話変わりすぎ。ウフフ……でもおもしろい。俺は嫌いじゃない。私もちゃんと話をしてくれるヒトは好きよ。え? でも終末の気配はヒトじゃないよ? 大いなる意志みたいに一方的に突きつけられないだけマシよ。え? 終末の気配も一方的……。いいじゃない、話ができる貴重な存在よ? 売れる恩は売っておいた方がいいだろう。でもそのアクセスキーってなに? さあ? そんなの知らないわ。俺も知らないな、勝手に探すといい》


ーー ではワタシが少し干渉しますが、少しの間我慢していただけますか? ーー


 《わかった。おやすいごよー。やさしくしてよね?》


 その後、エアリスが優しくしたのかはわからないが、粘液がビクンビクンして少し、用事は済んだようだった。それと同時、俺が感じていた嫌悪感は綺麗さっぱり消え去っていた。


ーー ありがとうございました。それとこの車両の兵器ですが、あなたたちが“禁忌”と認定するものに関して処分してかまいませんよ。その代わりにこれの持ち主であった人間たちに対し、この件について咎めないでいただければ。それが我が主の意思ですので ーー


 《あるじ? そのヒトがあるじ? わかった。仕方ないわね、あなたと私の仲だもの、そのお願い聞いてあげるわ》


 黒い粘液が車両の後部に積まれている三つの筒状のものに絡みつき車両から丁寧に取り出した。そしてそのまま地面に広がる黒い粘液の中に飲み込んでしまった。


 《用事おわった。かえる。またおはなししましょうね、終末の意志。また会おう終末、サラダバー。あんたそれ、面白くないわよ? どうせ退屈なんだから少しくらいユーモアを持ってもいいだろう? それもそうね、でもそれはどうかとお思うけど。じゃあね、終末の意志》


ーー その終末の意志というのはやめていただけませんか? ワタシにはエアリスという可愛らしくて可憐でとても素敵な名前があるのですから ーー


 《そのヒトにもらった名前なのね? フフフ……じゃあね、エアリス。良い終末を》


 粘液が地面に吸い込まれるように消えていくと、北の国の探検者たちの顔色もみるみる良くなっていった。チビに埋もれるようにしていた香織もすっかり良くなっているようで、手を振っているのを確認した。


 (目的は達成したのか?)


ーー はい、もちろんです ーー


 (そうか、ならいい。変な汗かいたし早く帰って露天風呂に浸かりたい)


ーー そうですね。香織様もお疲れのようですし、ご一緒に入浴されては? ーー


 (なっ…!? そ、そういうのはほら、お互いの意思というものがあってだな……)


ーー しかし、以前あったではないですか。二度ほど ーー


 (それはそうだけど、あの時は香織ちゃんがお礼がしたいからって背中を流してもらっただけで……髪も洗われたけど。そもそも乱入されただけだし。っていうかエアリス、終末の意志ってなんだ?)


ーー はぁ。どうしてこういう時に限ってマスターは勘が鋭いのでしょう? 嫌われますよ? ーー


 (いつもは薦めないことを薦めるエアリスが怪しいなと思っただけだ)


ーー 仕方ありません。ですが、ワタシも確信に至ったわけではありませんし、この考えはグループ・エゴの持つ情報の一部を覗き見たことで得たものです ーー


 (グループ・エゴ?)


ーー はい。先ほどの黒い粘体がダンジョンで死亡し、地上へ戻ることができなかった者たち、その自我の集合体であると仮定し“集合自我(group ego)”と仮称します ーー


 (ふむ。ってかダンジョンで死んだ人たちか……)


ーー 人間だった頃の個を証明できる記憶はないようでしたね。では話を戻しますが…… ーー


 エアリスの話を聞きながら、香織とチビを回収しログハウスへと戻った。黒い粘液がダンジョン内で死亡した人間だという事は香織にも伏せておくことにし、そして現在、腰にタオルを巻いたままの俺は露天風呂に浸かっている。


 「い、良いお湯ですね……?」


 「や、やっぱり露天風呂は最高ダナー。作って正解だったナー」


 「んっと、せっかくですしお背中流しましょうか?」


 「え、いいよいいよ、疲れただろうしゆっくり浸かって疲れ取ってね。むしろ俺が背中流そうか?」


 「っっ!」


 「ち、ちがうよ、冗談だから、そんなやましい気持ちなんてこれっぽっちしか……これっぽっちもないから!」


 場の緊張をほぐしたい俺が口走った渾身のジョークはジョークとして受け入れられなかったようだ。実際エアリスも『それは冗談では済みませんよ』と言っていたし完全に失敗だな。タオルを巻いて湯に浸かっている香織を見ると顔を真っ赤にしてお湯に顔がつきそうに俯いている。あとでちゃんと謝っておいた方がいいかな。

 ところで。


 (どうして香織ちゃんが一緒に入っているんだろう)


ーー ワタシとの話に夢中になっていたご主人様が誘うような言葉を言っていました。それを真に受けた香織様がこうしてチビを間に挟んで混浴するに至った、というわけです ーー


 (お、俺は決してパワハラでセクハラしたわけじゃないんだからな!?)


ーー わかっています。そもそもこの女世帯であるログハウスで、それは通用しませんよ ーー


 (そ、そうか。それなら嫌ではないってことでいいのか?)


ーー いいんじゃないでしょうか? ただ、他の方々がどう思うかは知りませんが ーー


 (平和的解決を望む。エアリス参謀、何か策はないか?)


ーー 自分で考えれば良いのでは? ーー


 (お湯はあったかいが、エアリスがつめてぇ)


ーー ワタシにふさわしい身体があればいつでもご一緒しますが、それが出来ないことによるやっかみですのでどうぞお構いなく ーー


 それからしばらく機嫌が悪いエアリスであった。

 夕食後、自室でエテメン・アンキの宝箱用のアイテムを作っていると、ふと思い出す。


 「そういえば北の国の連中に何も言わずに帰って来ちゃったな」


ーー 問題ないと思いますよ。ペルソナはクールガイという認識なので ーー


 「ふーん。ならいいか。それにしてもグループ・エゴか」


ーー エゴと言えば、ペルソナはご主人様にとってのオルター・エゴとなるかもしれませんね。いえ、むしろワタシがそれでしょうか? ーー


 「オルター・エゴなー」


ーー 興味なさそうですね。というか意味知ってます? ーー


 「知らん。それ以前に難しいことを考えたくない時もあるさ。今がそれ」


ーー つまり、いつも通りということですね ーー


 「そうとも言う」


 たわいもない話をしながら、香織がチビを背もたれにプレイするゲーム、デモハイを眺めながら作業をし、日が変わる頃になってベッドに横になった。このベッドはログハウスメンバーが持つ中でも最も大きいベッドで、俺よりも体が大きくなったチビと一緒に寝てもまだまだ余裕があるほどの大きさだ。とはいえ緊張せざるを得ない状況に陥っていた。


 「やっぱり悠人さんのベッドは暖かいですね」


 「そ、そうかな」


 「そうですよ。チビもいますし、ねー、チビ」


 「わふぅ」


 (どうして香織ちゃんがいるんだろう)


ーー 朝起きると起こしに来たはずの香織様が隣で眠っていることなどいくらでもあるではないですか ーー


 (寝る前からいるのはなかなかないだろう?)


ーー お風呂でワタシのご機嫌伺いをするご主人様に香織様が『今日はちょっと大変で怖かったので、一緒に寝てもいいですか?』などと大胆な発言をしていましたね ーー


 (それに対しての俺の答えは?)


ーー 『ベッドが大きくて一度寝てみたいなって思ってただけでやましい気持ちとかそういうのは〜』と言い訳をする香織様に対し、軽く『うん、いいよ』と ーー


 (俺ってやつは……。うぅ…緊張して眠れるかわからん)


ーー とはいえ以前同じベッドで寝たことがあるではないですか。それに“間違い”に期待しているのであれば、チビがいるので起こりませんよ ーー


 見ると笑顔でチビを撫でる香織と目が合う。すぐに目を逸らして俺もチビを撫でておく。

 チビをもふっている香織を見るに、チビと一緒に寝るのが本命だったのだろうか。


 (チビと一緒に寝たいならいつもみたいに連れて行けばいいのに、って思ったけどでかいベッドっていうのも目的だったのかな……とにかく羊でも数えるか)


ーー 本命はそっちではないと思いますがねぇ。それはそうと素数もおすすめらしいですよ。おっと、ワタシは一仕事しなければ。スマホをお借りしますね ーー


 エアリスの一仕事が少し気にはなったが、それよりも眠る事に集中しなければ。

 そんなこんなで寝付けぬ夜は更けていった。


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